第四十話 ハイジ、犬との仲を隠す
プロポーズにイエスって言ったんだから、それは本来婚約ってことになるんだろう。でも、タロのプロポーズとわたしの承諾は、わたしたちの間でしか意味がなかった。ここは神家の中じゃなく、現実世界。わたしが現役高校生である以上、少なくとも高校を卒業するまでの間は身動きが取れない。ふわふわと甘い生活ばかりを夢見ていても、その何一つとして実現できそうなものはなかったから。
タロは、神家から出てきたばかりの時みたいな世間知らずのぼけっぱーじゃない。結婚している職員さんの生活を見ているし、二人で暮らすために何が必要かもしっかりチェックしている。わたしが学生である以上、今はそこに突っ込んでも意味がない。タロに任せることにした。それよりわたしは……自分の行き先を真剣に考えないとならないんだ。
一番簡単なのは、卒業と同時にタロと結婚して専業主婦になること。でもわたしは、お盆の時にお母さんから出された警告を忘れていなかった。
『一緒になることより、独りになった時にどうするかを考えろ』
高校を出てすぐ家に入ってしまうと、わたしの社会経験はゼロっていうことになってしまう。タロがいつまでも元気でばりばり働いてくれるならそれでもいいよ。でも、神様でも魚でもなくなったタロがこれからどうなるのかは、タロ本人にも予測がつかないと思う。過剰に心配してもしょうがないけど、能天気に明日のことは明日って開き直ることもできない。
それと……お母さんが「おばあちゃんを見ておきなさい」って言ったのは、一人にされた時に孤独に耐えられるかっていう意味だろう。想い合いの絆が深ければ深いほど、その片方が失われた時に孤独にひどく蝕まれるようになる……そういうことだよね。
おばあちゃんち。わたしと一緒に暮らしている今は、おじいちゃんが死んだ直後より賑やかになってると思う。でも。おばあちゃんが感じている欠落感、孤独感は、逆に深刻になっているのかもしれないと思うんだ。
わたしとタロが並んでご飯を食べている光景は、おばあちゃんがおじいちゃんと二人で過ごしていた時の写しなのに、そこには自分が入ってない。おばあちゃんは優しいから嫌味を言うことはないけど、もしかしたらかえって寂しく感じさせちゃってるのかなあって気になることがある。おばあちゃんがお母さんの同居提案を拒否してるのも、同じ理由じゃないかと思うんだ。
それに「好きだから一緒になる」と「寂しいから一緒になる」は、全然意味が違う。好きだからの相手は一人だけど、寂しいからの相手は決まっていないんだ。わたしもタロも、その違いの深刻さをまだ十分わかってないような気がする。
せっかくカップルとしてまとまったのに、始まったばかりでこんなババ臭いことばっか考えてる自分はどうよと思うけどね。
◇ ◇ ◇
タロとの間に何があったか、タロとの関係がどう変わったか。わたしはそれを誰にも言わなかった。おばあちゃんにすら。だって、言っても意味がないもん。わたしとタロの間が形のない約束でつながっただけ。そこに、約束に値する心の通い合いが成り立ったのかどうかも、まだわからない。わたしたちは『婚約』という養殖池を作っただけで、その中にいるのはまだ稚魚だ。
わたしは、タロとのことをうだうだ考える前に目の前の関門を一つ一つ突破しないとならない。
まずお正月に帰省して、勉強や部活の状況を親に報告した。タロと約束したことは、現状の関係がどうなのかも含めて全部伏せた。約束の前後で変わったのは感情だけで、日常は何も変わっていないから。約束したことを隠すつもりはないけど、今オープンにしたって騒動になるだけ。もっとも、わたしが不自然にタロの話題を避けたから、お母さんは何か気づいたかもしれないけどね。
冬休み明けに本井浜に戻ってからは、本格的にプレ受験生の態勢になった。乙野高校は、都会によくあるみたいな本格的な進学校じゃない。地頭のいい子を全国から集めてるって言っても、有名大学への合格率を競い合うようなところじゃないんだ。別の言い方をすれば、いい大学に進みたければ自分で早くから準備してねということ。
水産系、海洋系の学部や学科を持つ大学への推薦を出してもらえると言っても、枠は小さいし、それも成績が優秀な順に埋まっていく。他は一般受験になるから、立ち上がりが遅いと本番に全然間に合わない。田舎ののんびりムードに慣れて緩んでしまうと、自分の志望には届かなくなる。
もちろん、学校でもちゃんと受験対応はしてくれてる。二年生の学園祭明けくらいから徐々に本格的な受験向け授業が始まり、年明けからは模試や小テストが目白押しになる。そこで助走をつけて受験生シーズンに突入……そういうこと。
クラス分けが進学コース別ではなく成績別になるのも、うちの特徴かもしれない。だから、学年末試験はすっごい大事なんだ。
二月の学年末試験直前、夜遅くまで根を詰めて勉強していたら、タロからメッセが来た。
『がんばれ』
それだけ。たった、それだけ。
でも、たったそれだけのことで、こんなにも嬉しくなる自分がいて。ささやかな幸福をじっと抱きしめる。でも。
同時に、本当にこれでいいんだろうかという疑問も浮き上がってくる。わたしがどこの大学に行くにしても、タロとはわかれわかれの生活になる。隔絶を義務付けられた時間を、わたしは一人で凌ぎ切れるんだろうか。
それだけじゃない。大学を卒業して、どこに行く? わたしが自分の我を通せば、それは自動的にタロとの離別をもたらすことになる。自らの努力で職を勝ち取ったタロに、わたしと一緒になりたいならそれを捨ててわたしに付いてきてって言える? そんなこと、絶対に言えない。じゃあ、わたしはどうすればいい?
「ふうっ……」
受験を乗り切るより、もっと深刻で難しい問題。わたしは、それを解けるんだろうか。しかもその問題には……正答っていうのがないんだ。
「ねえ、タロ。どうすればいいと思う?」
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