第二章 ハイジ、犬を育てる

第十一話 ハイジ、犬の事情を説明する

「おっはー」

「おはよー」

「うーっす」


 夏休みが終わって、今日から二学期。真っ黒に日焼けした生徒が、教室にどどっとなだれこんでくる。県内の高校は二期制に切り替えたとこが結構あるらしいけど、うちはまだクラシックな三期制だ。でも、今回みたいなアクシデントがあった時には、期末試験がもう終わってるっていうのがすっごい助かる。

 だからって、気分すっきり新学期っていうわけには行かない。タロ絡みで、みんながっつり突っ込んでくるのがわかってたからね。


 悪友クララこと、倉良くらよしひとみが、いひひ顔で近寄ってきた。


「ハイジー、課題はもう出したん?」

「出したよ。各務かがみ先生、期限にはすっごいうるさいから」

「だよねー。んで」

「そっちの話はあとで」

「へいへい」


 夏休みはほとんどの学生が帰省する。わたしもそう。でも、部活の調査をするのに帰省期間を短縮して早めに本井浜に戻ってきたんだ。それなのに、貴重な夏休みの時間をタロのガイダンスにごっそり持って行かれちゃった。授業の課題や部活の課題が押して、終盤はひぃひぃ状態。

 それでも、わたしに割り当てられてた魚の調査はちゃんと終わらせた。神家かんや岩礁周辺はいい漁場で、魚の種類が多いから調査の狙い目だったんだ。でもわたしが落船しちゃったから、小野さんが縁起悪いって連れてってくれなくなった。そこんとこが欠測になったけど、しゃあないね。おっと、ホームルームが始まる。


「みんなそろってるか?」


 ぱりっと白衣を着こなした1A担任の各務先生は、あらさーの男性化学教師。独身で長身イケメンだから女子生徒にすごくもてる。でも、この高校一番の堅物かたぶつで、空手有段者っていうとんでもない猛者もさだ。ルックスにつられてうかつにアプローチすると、窒息するくらいごつい課題が山ほど降ってくる。くだらんことを考えられなくなるくらい勉学に励めっていうお小言付きで。先生は生徒指導もやってるから、目をつけられるとろくなことにならない。


 んで。わたしは絶対に目をつけられるよね。タロとのことがあるから。案の定、わたしたちをぐるっと見回した先生が、わたしにところでぴたっと視線をとめた。きっと職員室に来いって言われるだろう。最初だけだと思うけど、タロの自活が軌道に乗るまではこういうざわざわと付き合わないとなんない。はあ。めんどくさ。


「夏休みはのんびり過ごせたと思うが、二学期には行事が多い。その分、授業が詰め詰めになるからしっかり付いて来てくれ」

「はあい」


 各務先生は話が短い。余計なことをぐだぐだ言わないで、さっと終わりにした。まだ教室に漂っていた長い休み明けのけだるい空気が、先生の退出と同時にいつもの雰囲気に戻っていく。わたしの大好きな、アカデミックでぴりっとした雰囲気に。それだけでも、この高校に来てよかったなあと思えるんだ。


◇ ◇ ◇


 先生から呼び出される前に、わたしの方から職員室に行った。てか、これまでのあらましは先生にメールでもう説明してある。小野さんや児玉さんからも情報が入ってるはずだ。先生がこだわっているのはそこじゃなくて、なんでうちで同居かってとこなんだろう。

 いくら事情があるとはいえ、得体の知れない若い男を家に引っ張り込むのはどうか……っていうこと。その心配はもっともだと思う。でも、今のタロをうち以外のところに動かしたら、間違いなく大騒動になる。リリースするのは、もうちょい慣らしてからにしないとならない。それをどんな風に説明するかだなあ。


「失礼しまーす……って。あれ?」


 職員室に、わたしが通る花道が作られてるみたいな。各務先生の席までの間に他の先生たちがずらっと立ってて、興味津々ていうか。これだから田舎は。うう。


「ああ、来たか。座って」

「はい」


 折りたたみのパイプ椅子を広げた各務先生が、わたしと他の先生をぐるっと見回してから苦笑した。


「あっという間に有名人だな」

「ちっとも嬉しくないんですけど」

「新聞の取材まで来てただろ?」

「地元紙ですけどねー」

「まあな。で」

「はい」

「事情は聞いてる。状況はわかった。で、なんで拝路のところに同居なんだ?」


 やっぱりなー。


「ちょい、彼の方のプライベートが絡むんで、言いにくいことではあるんですが」

「ほう?」

「記憶喪失の彼は、ものっすごくズレてるんです。どこの王国の王子様よってくらいに」

「は?」


 わたしは一切合切をぶちまけておくことにした。小出しにしたらずーっと説明し続けないとなんなくて、一日がそれだけで潰れちゃう。冗談じゃない!


「まずね。経済概念がない。働くってことも教育も知らない。当然、わたしがなぜ学校に通ってるのかもわからない」


 それは、先生にとってとんでもなく予想外だったんだろう。呆然としてる。でしょ? わたしもそう感じたから。こんなん絶対にありえないでしょって。


「先生は、赤ちゃんみたいな白紙に近い人をぽんと放り出せます?」

「む……」


 でっかい溜息と一緒に、でっかい愚痴をこぼす。


「失くした記憶っていうのが、自分自身の身分のことだけだったらよかったんですけどねー。それ以外のこともきれいさっぱり忘れてるんじゃ、社会復帰訓練以前だと思います」

「それで、か」

「はい。うちで看てるのはあくまでも緊急措置です。わたしたちの常識とかを理解できるようになるまでは、彼のところまで下がってあげないとどうにもなりません」

「福祉施設とかは?」


 わたしの周りにできてた先生たちの輪の外から、養護の福西ふくにし先生が尖った声を上げた。


「それは無理よ」

「どうしてですか」


 各務先生が、じろっと福西先生をにらんだ。福ちゃんも、美人の年頃独女なのに口が極端に悪いから全然モテないもんなあ。クールビューティならいいけど、まんま氷の女王アイスクイーンだもん。


「その人、成人してるんでしょ?」

「たぶん」

「それじゃ、どこも引き取らない。せいぜい生活補助がとこね」

「駐在の児玉さんが役所に行って確かめてくれたんですけど、同じことを言ってました」

「ズレてるだけで、言葉はちゃんと通じる。意思疎通できるってことなんでしょ?」

「はい。普通に会話できますよ」

「なら、就労支援までよ。で、拝路さんのお宅ではそこまでのお手伝いってことね」

「そうです」


 福ちゃんがわたしの代わりに説明してくれて、ほっとする。憮然としてる各務先生に向かって、福ちゃんがばしっと皮肉をぶつけた。


「生徒の心配する前に、自分の心配しなさいよ。いい歳こいてさあ」


 げげっ。せんせー、それはお互いさまだと思うっす。龍虎激突のきな臭さを感じ取った他の先生たちが、一斉に自分の席に散った。わたしもとばっちりを食いたくない。さっさと離脱しよう。


「各務先生。追加説明が必要ならまた呼んでください。家庭訪問も可ですー」

「わかった」


 くわばらくわばら。そそくさそそくさ。


「失礼しましたー」

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