第十話 ハイジ、犬におごる
「おや? 真っ直ぐ帰らないのか?」
公園を降りて海岸沿いの町道に降りたわたしは、おばあちゃんちとは反対方向の
「今帰ったら暑くて煮えちゃうよ。うちにはエアコンがないから」
「エアコンというのはなんだ?」
「空気をあっためたり冷やしたりする機械」
「ほう。そんな便利なものがあるのか」
「ただじゃ使えないけどね」
「ただ?」
少しずつだけど。経済概念というのを教えて行こう。そこを押さえてもらわないと、先々タロにとってまずい事態になっちゃう。同情を集めて援助を受けられるにしても、長くは続かないはずだから。衣食住の確保のためにはお金が要るってこと。お金をもらうには働かないとなんないってこと。それを何より先に説明しないとならないんだ。じりじりと頭上に這い上がっていく太陽を時々見上げながら、説明を始める。
「あのね、タロ。こっちの世界で自分の欲しいものを手にいれるためには、労働と交換する必要があるの」
「ろうどう?」
「そう。神様なら、自分の手の届く範囲のものは自由にしていいんでしょ?」
「まあ……制限はあるが、そうだな」
「ここはそういうわけにはいかないの」
「ふむ」
「昨日と今日。わたしとおばあちゃんがご飯支度したでしょ?」
「ああ」
「あれはね、タロへの奉仕じゃないの。家事労働って言って、本当はタロから報酬をもらわないとならない」
「え?」
きょとんとしてる。上げ膳据え膳の神様じゃあ、そうだろなあ。
誰かに何か福を授けるとか、タロが居ることで何かご利益があったら養ってあげようと思ってくれる人がいるかもね。でも、何もしない大飯食らいを飼ってくれる人なんかどこにもいないよ。しかも五体満足なのにさあ。
「いい? 昨日タロが食べたお魚」
「うまかった」
「あれね。漁師さんが網で獲って、わたしたちに売るの」
「うる?」
「そう。わたしたちは魚なんか獲りにいけないもの」
「ふむ」
「わたしたちの代わりにお魚を獲ってくれたことに対して、漁師さんにお礼しなければならないわけ」
「確かにそうだな」
そこまではおっけーね。よし。
「でね。それを、お金ってものが仲立ちするわけ」
「おかね、か」
「そう。お金自体はただの紙切れとか金属の丸い板だよ。でも、それをいろんなものと交換することで、わたしたちの生活が成り立ってるの」
「じゃあ、そのおかねっていうのを手に入れればいいわけだな」
「労働でね」
「ろうどう……うーん」
ぴんと来ないんだろなあ。
「わかりやすく言うとね」
「ああ」
「わたしやおばあちゃんが食事の支度をしなかったら、タロはどうする?」
「自分で魚を獲る」
「めんどくさいでしょ?」
「……ああ」
「タロがお魚を獲る以外のことで体を動かしてお金をもらえば、それを自分でやることの代わりに使えるの」
ぽん! タロが手を叩いた。
「なるほど! そういうことか」
「うん。誰かの代わりに体を動かしてお金をもらうのが労働。わたしとおばあちゃんは、タロの代わりにご飯を作ったから、本当はタロからお金をもらわないとなんない」
「む……」
「でも、今はタロはお金を持ってないから、不公平なの」
元神様には、不公平という言葉がショックだったんだろう。タロがくしゅんとしょげた。
「そんなにがっかりしないで。わたしだって、まだ働いてないもん」
「なぜだ?」
「わたしたちは、まだ親に生活を支えてもらってるから。子供だからなの」
「そういうものなのか」
「
「ああ」
「当然よ。その年じゃ、まだまともに働けないもの。誰かの代わりに体を動かす場所も経験や知識もない」
「あ……」
「夫婦になったら二人で家庭を切り盛りしないとなんないのに、それを親が肩代わりするんじゃ意味ないでしょ」
ちらっとわたしに視線を投げかけたタロが、慎重に確かめる。
「その……ノリは……まだ無理か?」
「無理無理」
正直に答える。
「たとえばね、おばあちゃんちで家事を手伝ってるのは、労働って言わない」
「ほう?」
「だって、それはわたし一人の時でもしないとなんないことだから」
「あ!」
納得できたかな?
「わたしはおばあちゃんちに置いてもらってる。本当はおばあちゃんのしてくれることに、お金を払わないとならないの」
「そういうことか」
「うん。下宿代はわたしの両親が払ってくれてるけど、それは親のお金であってわたしのお金じゃない。わたしが居させてもらう代わりにできるのは、おばあちゃんの手伝いをすることだけなの。働いてるってことにはならないよ」
「なるほど……」
腕組みしたタロが、じっと考え込んだ。
「わたしが完全に親から独立して、自分のために働いて自分のお金で生活できるようになって初めて、結婚ていうのをまじめに考える。少なくとも、わたしはそう」
「そうか……」
わたしの言ったことは、特別なことじゃないと思う。人間として暮らしていく上での、イロハのイ。高校生になったばっかのわたしでも理解できるし、理解しなきゃなんないことだから、今のうちにしっかり叩き込んでおいてほしい。
「ただね」
「うん?」
腕組みを解いたタロがくるっと振り向いた。
「それと、レンアイってのは別。だからめんどくさいんだ」
「……」
『好き』っていう感情ですら未熟なタロには、恋愛のことなんかもっとわからないよね。でも、そっちはわたしにすぐ関わってくるんだ。いい意味でも、悪い意味でもね。
「そっちはまだいいよ。お金っていうのが何かだけ覚えといて」
「わかった。理解した」
「じゃあ、昼ごはんはおごったげる」
「おごる?」
「そう。お金払わなくていいよってこと。そこは、わたしが肩代わりする」
「……いいのか?」
「タロが働いてお金もらうようになったら、わたしにおごって」
「ああ、なるほど。そういうやり方もあるのか」
気後れしていたらしいタロが、ふっと笑った。
「助かる」
「はまや食堂って、わたしたち乙高の生徒がよく行く食堂があるの。安くておいしいんだ。タロの好きなお刺身もいっぱい食べられるよ」
タロのお腹がぐうっと鳴った。
「そうか。動くと腹が減るんだ」
「朝、言ったでしょ?」
「理解した」
「しっかり食べといてね。晩ご飯までの間に、行かないとなんないとこがいくつもあるから」
「わかった。ありがとう」
うん。すごくズレてるタロだけど、素直で、ちゃんと人にお礼を言える。そこだけは神様だなあと思うし、神話の龍神みたいな強烈な俺様意識を感じない。生活に慣れたら、すごくもてるんちゃうかなあ。
整ったタロの横顔を見て、わたしはちょっとだけ嫉妬を感じた。これから……わたしの心もうんと振り回されそうだなあと思って。
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