第九話 ハイジ、犬に好きの意味を聞く
タロは、一応頷いてる。
「なるほど。それでここに住んでると。そういうわけか」
「うん。ここはわたしが小さな頃から何度も来ていて、すごく好きな場所なの」
「好き……か」
まただ。タロがひょいと首を傾げた。なんかおかしい。すぐに理解できない。どうしてそうなるんだ? タロは、抱いた疑問をすぐに仕草に表す。ということは、わたしが言った『好き』という言葉の意味をしっかり理解していないってことなんだろう。
さっきタロに、『好きだ』と意思表示するのが嫁取りの起点だって話を切り出した。『好きだ』という意思表示の前に、そもそも相手に対して『好きだ』という感情を持っていないとならないよね。タロからは、その感情がいまだに一切伝わってこないんだ。神家の中でも、今でもね。
『好き』の反対は、嫌いとか無関心? いや、必ずしもそうとは言えないんだ。好きっていう感情にはものすごく幅があるんだもの。お刺身を食べた時の超うれしそうな顔。朝食を食べた時の気の乗らない顔。好き嫌いがないわけじゃない。でも、その感情の種類と幅が恐ろしく狭くて浅いんじゃないかな。
それなのに、なぜ嫁取りだけが先走るの?
「なるほどなー」
「うん? どうした?」
「いや、さっきわたしは、ここが好きって言ったでしょ?」
「ああ」
「タロは好きってどんな意味かわかる?」
「……」
ああ、やっぱりね。黙り込んじゃった。好きっていう感情がないのに妻乞いする理由は一つしかない。繁殖だ。神様っていう割には、アプローチが恐ろしく動物的に、本能的に感じちゃうんだよね。それがすっごくイヤ。頭に来るっていうだけじゃなくて、生理的に絶対受け入れられないの。
龍神は無理やり子作りしようとして、受け入れない女の人を殺しちゃってた。でも力のないタロたち端神は、子孫を残したいからヤらしてくれって懇願するしかないってことなんだろう。あーあ。心底がっかりする。
でも感情が浅いってだけで、全く好悪の情を持っていないわけではないと思う。そうじゃなかったら、神様の地位を捨ててまでわたしについてきたりしないでしょ。まあ……わたしの希望的観測に過ぎないけどさ。
「好きってのは。何だ?」
ほら、タロから直球の質問が来た。
「さあね」
あえてはぐらかす。
「辞書を調べたら意味はすぐわかると思うよ」
「辞書?」
「言葉の意味を説明してくれる本」
「ふむ」
「好きっていうのは、感情を表す言葉なの。感情っていうのは、本当は言葉でぴったり説明できないものだと思う」
「うーん」
タロがしゃがんで頭を抱え込んじゃった。
「まあ、難しく考えなくていいよ。好きっていう感情が何かは、タロが行動している間に自然にわかると思う」
「自然に……か」
「それは、教えるものでも教えられるものでもないからさ」
「そうなのか?」
「もちろんよ。わたしだって十分わかってないもん。だから、うまく説明することもできない」
「ふむ」
わたしは、タロの無知を笑えないんだ。わたしの好き嫌いだって、すごく底が浅いんだもん。この町が好き。おばあちゃんが好き。海が好き。海に関わることが好き。そういう「好き」は、わたしだけでなくて多くの人が持っているものだよね。わたしの「好き」は、まだそのくらいのレベル。他には比べようがない「好き」を、誰か一人に深く深く捧げたことはないの。だから、タロの無知を偉そうにああだこうだ言えない。
「まあ、ともかく」
「ああ」
「タロが好きって感情を理解したいなら、自分から動かないとだめだよ。人との接点が増えれば、きっと心の動く出来事が増えてくるから」
「そうかな」
「さっき児玉さんと話して、いい人だって言ったじゃん」
「ああ」
「そういうこと」
「む! なるほど」
「それを積み重ねれば、きっと見えてくるものがあるよ」
「わかった」
まだまだ話したいことがある。でも、今のタロにはその一部しか理解できないだろう。わたし以外の人たちとの接点を徐々に増やして、まず人間としての生活に慣れてもらおう。その中から新しく生まれる感情。そこに「好き」っていうのがあれば一番いいね。
それは、わたしにとっても同じこと。まだ高一のわたしは、憧れ以上の好きっていう感情を知らない。それがわたしの人生にどう影響するのかは、全然わかんないんだ。
タロに絡んじゃったことで、わたしの日常は少しだけ変化した。劇的に変わっちゃったタロの日常とわたしの日常が、隣り合わせに並べられるようになるまで。時々こういう時間を作ろう。それが、新しいわたしたちの明日を導いてくれると思う。ゆくゆくどんな形になるのかは、全然見当つかないけどね。
「さあて。暑くなってくるから家に帰るよー」
「そうだな」
潮風に長い髪をなびかせたタロは、広い海原を見渡して少しだけ笑顔を見せた。
「こういう素晴らしい景色は初めて見た。俺は『好き』だな」
うん! いいじゃん! それだよ、それ!
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