番外 ディートリヒ・グレーデン・ローデンヴァルト

「君におまじないを教えてあげよう」


 ――そう言って笑った人の顔はもう思い出せない。



 俺には父と母、それからふたりの兄がいた。年の離れた兄にとって、体が小さく幼い俺は恰好の玩具だった。無理難題を押し付けられては途方に暮れ、達成できなければからかわれる。

 時計台の鐘を鳴らしてこいと言われた日にも途方に暮れていた。時計台は守衛がいて、子どもがこっそりと入り込めるような場所じゃない。


「くそっ、ふざけんなよ」


 兄たちの前ではつけない悪態を吐いて小石を蹴ると、それが偶然、前を歩いていた人にぶつかってしまった。やばいと思って逃げ出そうとした俺はすぐにその人に捕まってしまう。


 泣きべそをかいていた俺をその人は少し驚いた顔で見下ろした後、大きな手で俺の頭を撫でてくれた。――今思えば、そこまで大きな手ではなかった。ただ、当時の俺が小さかっただけだ。


「どうしたんだい? そんな顔をして」


 心の隙間に入り込むような優しい声に、俺は兄たちに対する不満を洗いざらい吐き出した。

 うんうんと頷いたり、大変だね、と慰めたりしながら根気強く聞いた後に、微笑んだ。


「君におまじないを教えてあげよう。――時計台の鐘を鳴らすには何がいると思う? 中に入らなくても鳴らすにはどうすればいい? それを考えて、強く意識すれば、君の望む結果が手に入るだろう」

「考えるだけで手に入ったら、誰も苦労しねぇよ」


 一言で言えば、当時の俺はやさぐれていた。話を聞いてくれた相手にすら悪態を吐くほどに。


「そうとは限らないのが、この世界の面白いところだ。そうだな……もしも今、雨が降れば君は信じるかい?」

「……はあ?」


 空は雲ひとつない青空だ。何を言ってるんだと眉を寄せる俺を見て、その人は悪戯を考えた子どものような笑みを浮かべた。


 そして、間を置かずに水滴が体を打った。雲のない空から降る雨にぽかんと口を開いて頬を打つ雨粒を受け止める。

 ほんの一瞬の出来事だったが、たしかに雨は降っていた。


「祈りは届く。限度はあるがね」

「……ねえ、行くよ」


 俺が何も言えずにいると、子どもがその人の袖を引いていた。


「ただ想像すればいい。そしてそれは叶うと信じることだ」


 そう最後に言い残して、綺麗に輝く金の髪が人ごみの中に消えていった。




 それがおまじないではなく魔法だと知ったのは、横暴な兄たちに反抗したときだった。兄たちを倒すにはどうすればいいのか、どうすれば兄たちの顔を苦渋に満ちたものに変えれるのか。――それを考えた。


「ディートリヒ……どこで魔法なんて覚えたの?」


 そして兄ふたりは俺にのされて母に泣きついた。顛末を聞いた母は目を見開いて、俺に聞いてきた。

 魔法は使っていない。俺が使ったのはおまじないで、魔法ではない。そう言っても母はそれは魔法だと言って聞かなかった。


「いいこと。人前では使わないようにするのよ。魔法はあなたには使えないことになってるの」


 言い含めるような言い方に不満を抱きながらも、俺は頷いた。


 それから二年して、俺は八歳になった。魔法について調べていくうちに、母の言う通りおまじないではなく魔法だということは理解した。

 そしてどうして使ってはいけないのかということも理解した。女神の教えを何よりも尊ぶこの国では、教えから外れた者は生き辛くなる。下手すると村八分ならぬ国八分になるかもしれない。


 これまで以上に注意して、ふとした拍子に使わないようにと自粛した。



 そして八歳のあの日。家族が死んだ。



 商会を切り盛りしようと頑張る母のために何ができるかと考えた俺は、ほんの少しだけ魔法を使うことにした。

 商売敵の屋敷に忍び込んで弱味を探っていたのだが、運悪く屋敷を出たところを人に見られた。


「おや、これは――」


 人のよさそうな顔をした男性に、俺は顔をしかめる。どうすれば俺を見たことを忘れさせることができるか、それだけを考えていた。


 ――当時九歳だった俺は、殺せばいいという発想には至らなかった。


「ふむ。なるほど、面白い。……ああ、そう警戒するな。君を見たことは誰にも言わないと約束しよう。まあ言ったところで、君のような子どもがこの辺りをうろついていたとしても誰も気には留めないだろうがね」


 その言葉を信じたわけではない。

 ただ担保として押し付けられた剣が上等なもので、売れば高値がつく代物だったから俺は頷いた。


 売るわけではないが、それ相応の品をよこすのなら下手なことはしないだろうと思ったからだ。



 そしてそれから一年後、経営が傾きはじめた。

 あの日忍び込んだのとは違う商売敵が出てきて、取引相手を掠め取り、長年仕えてくれた人を引き抜いていった。

 母に商売のノウハウがあったわけではない。これまでどうしていたかを知っている人から助言を受けてなんとかやってこれていただけだ。

 助言を与えてくれた人がいなくなれば、当然商売にも影響が出る。


 どうにもいかなくなった頃、王から援助の話がやって来た。


 それはとても単純で簡単な話だった。

 母が王に嫁ぐのなら家を助けるという、頷くしかない話だった。



 母は王の妃のひとりとなり、俺は王の子どもになった。

 王は、あの日会った、人のよさそうな男性だった。



「人が悪いですね。こんなものを寄こさずにただ名乗ればよかったのに」


 王との謁見後、俺は担保をして預かっていた剣を返すためにこっそりと王の私室に忍び込んだ。


「言ったところで信じるとは限らないだろう? ならば金目のものを与えておけば引きさがるかと思ったのだよ」

「それ以上を求めて身ぐるみを剥がされるとは考えなかったのですか」

「君の顔は知っていたからな。伯爵家の娘が育てた息子がそこまで育ちが悪いことはないだろうと、そう思ったのだよ」


 人好きのしそうな笑みを浮かべる王に、俺は不快感を抱く。俺を知っていたのならばあのときにそれを指摘すれば済むだけだ。

 そもそも、王族は魔力が多い。俺が襲い掛かったところで太刀打ちできないはずがない。


「……どうして俺は養子に? 平民を養子にしたところで利点はないでしょう」

「平民でありながら魔法を使う者を捨て置くわけにはいかないのでな。それに丁度、小回りの利く者が欲しかったところなのだよ」


  

 王が俺に提案したのは、とても単純な話だった。

 指示に従えば母を丁重に扱い、家に援助をし続けるというものだ。拒否権なんて、あるはずがない。




「まったく、お前も大変だよなぁ」


 ぼやくような声に読んでいた本から視線を上げる。

 視線の先にはこの国の第二王子がいた。机を挟んだ対面に座り、頬杖をつきながらしみじみとした表情で溜息をついている。


「これは失礼いたしました。まさかいらしているとは思わず――」

「ああ、いいとも。そうかしこまるな。血は違えど、同じ玉座に座ることのない王子だ」

「しかし――」

「俺はね、お前に同情しているんだよ。俺が謝ったところでどうしようもないと思うけど……父上は謝らないだろうから」

「なんの話ですか」

「知らないのか? ああ、しまった。父上と仲がよいからてっきり知っているとばかり……すまない。今言ったことは忘れてくれ」


 慌てて席を立つ第二王子を引き止め、椅子に座り直させる。第二王子は決まり悪そうな顔で頭をかきながらも、ぽつぽつと語ってくれた。


「お前の生家あるだろ? 今は父上が支援して持ち直しているが、元々裏から手を回して追い詰めたのは父上なんだよ。……そこまでしてお前の母親が欲しかったんだろうなぁ。それともお前かな。ミストラル国の第二王子と釣り合う年の奴っていなかったし」


 それからも何か色々言っていたが、俺の耳には入らなかった。




 第二王子の話が本当なのかは確認できなかった。王に直接問いただしても素直に頷きはしないだろう。

 調べてみても怪しい程度しかわからず、王から与えられる役目を全うしながら日々を過ごしていたある日――あいつが国にやってきた。


「お会いできて光栄です」


 微笑みながら当たり障りのない挨拶を繰り返す姿を見て、俺は眉をひそめた。挨拶することなく裏に引っ込んだ俺を咎める者は誰もいない。

 俺を同じ王家の一員として扱うのは第二王子か、ひとつ上の姉になった王女ぐらいなものだ。


 王が何をしたのかは正確にはわかっていない。ただわかっていることはある。俺がミストラル国の第二王子――銀の髪を持って生まれた王子の当てつけとして迎えられたということだ。



「よい拾い物だったが、紫の瞳でないのが惜しい」


 あるとき、王が独り言のように呟くのを聞いた。その意味はそのときにはわからなかったが、今日あの王子を見て納得した。ミストラル国を作った女神の御使いは紫の目と、金の髪の持ち主だとされている。

 俺の髪は綺麗な金色をしているが、瞳の色は緑。対してあの王子の瞳の色は紫で、髪の色は銀だった。


 そして、あいつが国を回っているのは王位継承権を保つためだと聞いて、怒りを覚えた。

 王位継承権を失ったとしても、家族の縁が切れるわけではない。どうせ玉座に就くことのない王子なのだから、そんなものさっさと捨てれば俺が――母が王妃になることもなかった。



「無茶苦茶ね」


 ああ、わかってるさ。魔法を使ってるところを見られた時点で、あいつのことなんて関係なく取りこまれた可能性はある。

 だけど、それなら俺は誰を恨めばいい。


 母のためとはいえ不用意に魔法を使った自分か、俺を捕まえるために手を回した王か――あるいはすべての元凶になった魔族か。

 そのどれもが憎くて、どうしようもないほどの怒りが胸の内を支配する。

 だけどそのどれにも恨みをぶつけることはできない。だから、一番手近な相手を選んだ――そんなのは、俺にだってわかっている。



 俺自身にぶつけるのが一番早いこともわかっている。だけどそれができない理由があった。

 聖女の子を持ち帰るという任務を終えれば、俺と母を解放すると王が約束してくれたからだ。母を家に戻すまで、俺は死ぬわけにはいかない。



 その願いが狂ったのは、ほんの数日前のことだった。


 国から届いた文に書かれていた一文に、約束は守られないのだと悟った。




「ふざけんなよ……」

「治療した相手にそんなことを言われたのは初めてです」


 漏れ出た声に反応があった。驚いて重い瞼を上げると、二回も俺の邪魔をした男がいた。長い前髪で目が隠れて正確な表情はうかがえないが、少し膨れた頬と尖った唇から不満を抱いているのはわかった。


 いや、不満を抱くべきは二度も攻撃された俺の方だろ。


「なんなんだよ、お前」

「何と聞かれても……リュカ・モリエールです」


 とんちんかんな回答に頭に血が上る。人に優しくしてやれるだけの余裕が今の俺にはない。しかもそれが攻撃してきた相手ともなれば尚更だ。

 上体を起こして横に座る男を地面に倒すと、けほっと苦しそうな咳が漏れた。


「なんで俺の邪魔をするんだよ。なんか俺に恨みでもあんの?」

「いや、あなたにはないですけど……ええと、レティシア様は大切な人なので」

「聖女の子ってのはずいぶんと好かれてるんだな」


 首に乗せた腕に体重をかけると、男の顔が苦しそうに歪む。魔法は思考がしっかりしていないと発動しない。色々試してみたから、わかっている。

 上手く息を吸えない状態で魔法が使える奴はそういない。


「……お前、女か」

「わあ、やっぱり、触れられると駄目かぁ」


 更に体重をかけようとして、思いの外柔らかい感触に飛びのく。男、いや女は何度か咳きこみながら体を起こした。


「悪い、女に手を上げるつもりはなかったんだけど……紛らわしい恰好をしているから」

「謝ってないですよね、それ。まあ自分も男性に見えるようにしてるから、いいですよ。許します」

「……本気で言ってんのか、それ? 殺されそうになったってのに、馬鹿じゃねぇの」

「えぇ、許すって言ってるのにおかしな人ですね。許されたくないんですか?」


 俺が言葉に窮していると、女はん? と言うように首をかしげてから、ぽんと手を打った。


「そっか、あなた、教皇さまと一緒なんですね」

「は? 教皇?」

「あー、えーと、そういうあだ名の人がいるんです」


 どんなあだ名だよ。不敬すぎる。もしもそんなあだ名の奴がローデンヴァルト国にいたら洒落にならない。

 そもそもローデンヴァルト国にそんなあだ名を付ける奴もいないか。


「それはいいんですよ。それよりも、全然関係ない人に八つ当たりしたら駄目ですよ」

「……お前に何がわかるんだよ」

「弱い者いじめは駄目ってことは子どもだって知ってますよ」

「じゃあ弱い奴はどうすればいいんだよ。泣き寝入りしろってことか?」


 俺が恨む相手は俺にはどうにでもできない奴ばかりだ。


「追い詰められた鼠は猫を噛むって言葉がどこかにはあるらしいですよ」

「そりゃあ鼠は猫を噛むだろ。そもそも猫に負ける鼠とか聞いたことねぇよ」

「んー、そうなんですけど、そうじゃなくて……弱くても追い詰められたらなんとかできちゃうことだってあるってことですよ。とりあえず、お姉さんが色々聞いてあげるから、それで一緒に考えてみましょう?」


 今さっきまで殺されかけてたとは思えない能天気さに毒気が抜かれた、というわけではないが、どうせ色々なことは失敗している。聖女の子は持ち帰れないし、母を家に戻すこともできない。


 つまり、このときの俺は完全にやけっぱちだった。



「母が妊娠した」

「おお、おめでたいことじゃないですか! 祝いの品でも一緒に選びますか?」

「めでたくねぇよ。王の子を産んだら、家には戻れなくなる。永遠に母は王妃のままだ」


 これまでの半生をかいつまんで話したのに、出てきた感想がこれだ。話す相手を完全に間違えたと気づいたときには手遅れだった。

 リュカ、と名乗った女は少し唸った後に困ったように笑った。


「でも、子どもはおめでたいことですよ。産まれてきたら盛大に祝ってあげましょう。きっとあなたのお母さんも弟か妹も喜んでくれますよ」

「喜べるわけねぇだろ。俺が今までやってきたことが全部無駄になったんだぞ」

「あなたのお母さんと子どもには関係ないことですもん。産まれる前から兄に疎まれてるなんて、嫌じゃないですか。あなたのお母さんが産んでくれる、あなたと血の分けた家族なんですから、祝福してあげましょう」


 こいつの言っていることは正しい。

 だけど正しいとわかっていながら、その道を進めない人間だっている。


「……俺は王子のままで、母は王妃のままで……俺が生まれ育った家はどうなるんだよ」

「王子じゃなくなればいいんじゃないですか?」

「だから、そのためには聖女の子をどうにかしなきゃいけなかったんだよ」


 要領を得ない会話に苛立ちが募る。こいつ、馬鹿なんじゃないのか。

 苛々としながら頭をかきむしろうと持ち上げた手が不意に握られた。


「王様が退けばあなたは王子じゃなくなります。だから、王様には王様を辞めてもらえばいいんですよ」

「――は?」

「協力しますから……命を絶つようなことも、そのために誰かを巻き込むこともしないでくださいね」



 ――なんだ、こいつ。

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