治癒魔法の原理


『傷を癒す魔法があるよね』


 長椅子の上にだらしなく寝そべる彼の前で、私は床に座りながら頷いた。彼に拾われてからというもの、語らうときの私の定位置はいつもここだ。横に座るのは嫌だなと思ってのことだったが、今となっては意地を張らずに座っておけばよかった。

 今更座らせてとも言えず、私は床に正座し続けている。


『あれはどういうものだと思う?』

『ヒールとか、そういうのじゃないの? なんかこう、摩訶不思議な感じで傷を治してるんでしょ』

『うん、そのヒールがなんなのかボクは知らないし、摩訶不思議とか言ってる時点で何もわかってないよね』


 呆れられても、癒しの魔法は教会に所属している者にしか使えない魔法だ。姉は神父さまに教わっていたけど、私は興味がなかった。


『体を作り変える魔法がないのは前に話したでしょ?』

『覚えてるよ。犬になったりとかしないってはっきり言われたもん』

『だけど癒しの魔法は人の体を作ってるんだよ。変えることはできないけどね』


 んん? と首をかしげると、彼は面白がるようにに喉の奥で笑った。


『たとえばね、体には魔力が宿っている。魔力は寄生虫みたいなもので、宿主を正常な状態に戻そうと動かすんだ。だけど、傷を負うと血と一緒に流れ出て、修復能力が万全ではなくなる。……じゃあどうすれば傷を治すことができるかっていうと、他から魔力を貰えばいいんだよ』

『んー、つまり……癒しの魔法は魔力を分け与えてるってこと?』

『そうだよ。ただ、魔力を貰うにしても、与えるにしても、そこに信頼関係がないと難しい。自分のものではない異物を受け入れるんだから、それ相応に心を開いてないといけないし、与える側も自分のものをあげるんだから、どうしても治したいという意思が必要になるんだ』

『でも教会の人は普通に使えてるよね?』

『だって皆女神を信じているでしょう? 女神の奇跡を受け入れない人は……異端認定を受けるだけだからね』


 わー、怖い、と顔を引きつらせる。そういえば聞いたことがある。

 異端審問において、瀕死の傷を負わせて女神の奇跡によって生還すれば問題なし、死ねば異端と認定されるという話を。

 どこの魔女裁判だ、と思ったけど、こうして考えてみると普通に魔女裁判だ。


『まあ、魔力の消費を考えなければ信頼関係なんてなくても治せるけどね』

『そういえば、私を治したよね』


 彼と私の間に信頼関係はない。だけど思いっきり床に叩きつけられた私を、彼はその場で治した。彼が癒しの魔法を使えることを知っていた、というのも関係しているのかもしれないけど。


『大量にぶつけると少しぐらいは相手に取りこまれるんだよ。……効率はすごく悪いけどね』

『魔族にしかできないやつだ』


 人間が同じことをしたらどれだけ魔力が必要になるのか――想像するだけで怖い。枯渇するまで注がないと癒せないんじゃないか。





 ――それは、かつての記憶。治癒魔法とは何かを知ったときの話。


 この後は勇者には治癒魔法が効かないとか、そもそも魔法全般が効かないとか、そういう話をした。


 治癒魔法は誰にでも使える。双方に信頼関係さえあれば。

 ただこれをクラリスに伝えると、少し困ったことになる。



 魔族と人間の戦いで、教会の手助けを得た人間はいわゆるゾンビアタックを仕掛けた。死にさえしなければ大丈夫の精神で、何度も突撃した。

 治癒魔法がどういうものなのかを民間に広めると、人対人の戦いでも同じことが起きるのでは、とリリアは懸念して、秘匿する道を選んだ。

 教会をどこの国にも所属しない中立の立場に置き、治癒魔法という女神様の奇跡をそのままにしたのもそのためだ。


 だから、治癒魔法がどういうものなのかを広めるのは教会を失墜させることに繋がる。そして魔法が使えるとされている貴族の権力が今よりも強まる。

 誰でも魔法が使えると広めることはできるけど、さすがにそのすべてを私ひとりで決めることはできない。



 だから治癒魔法については置いておいて、どうにかサミュエルを説得できないかと悩みに悩んで、三日が経過した。

 そして私は説得することを諦めた。


 価値観も考え方も違う相手を説き伏せることはできない。それができるのなら、リリアの人生は変わっていたはずだ。


 情報の公開も私ひとりで決めていい問題ではないし、実力行使はサミュエルの実力がわからない現時点では無謀すぎる。


 残された手段は――虎の威を借ることだけだった。



「頼っていただけたのはありがたく思いますが……私ではマティス様を説得するのは難しいかと」


 だけど無理だった。虎ですらどうにもできないなら、八方手詰まりだ。


「私もどうにかできないかと調べてみはしたのですが、性格以外の問題が見つかりませんでした」

「……そうなの」

「品行方正で授業態度もよく、能力も申し分ない。問題は教会の私物化宣言ですが、すでに知れ渡っているので脅しには使えません」


 クロエの部屋でお茶をいただきながら、唸る。説得も駄目、実力行使も駄目、脅すのも駄目では、どうにもできない。


「ねえ、レティシア様。私に頼ってくだされば、どうにかしてさしあげましょうか?」


 そして当たり前の顔をしてクロエの部屋にいたモイラが、人の悪い笑みを浮かべながら話しかけてきた。実力行使なら魔女であるモイラは十分役に立つだろう、けど、本当にモイラに頼っていいのかと悩んでしまう。


「……殺すのは駄目よ?」


 人間ひとり捻り潰すのはわけがないだろう。だけどさすがに従弟が私がお願いしたせいで死ぬのは遠慮したい。


「あらいやですね。私はむやみやたらと人の命を奪ったりしませんよ」

「……じゃあ、どうするつもり?」

「それについては秘密です。レティシア様が選べるのは私を信じるか、信じないかだけですよ」


 口元に人差し指を当てて、にんまりと笑う顔に条件反射で断りそうになった。だけどここで意地を張っても仕方ない。


「ええ、いいわ。信じてあげる」

「あら、ずいぶんあっさりと信じてくださるのですね」

「だって、クロエのためでもあるのでしょう?」


 クロエもどうにかしたいと思っていたのなら、モイラがクロエのためにとどうにかする手段を考えていた可能性は高い。そしてクロエの不利益になるようなことをモイラはしないはずだ。

 魔女がどれほど勇者を崇拝していたかをリリアは知っていた。


「クロエもそれでよろしいでしょうか?」

「ああ。任せた」


 クロエが頷き、モイラが私に「行きましょう」と声をかけて、返事を待つことなく部屋を出て行った。慌ててクロエに感謝の言葉を告げて後を追う。

 どこに行くのかと思えば、たどり着いたのは男子寮だった。


「ルシアン殿下を呼び出してください」

「サミュエルじゃなくて?」

「はい。彼はまだです。ささ、お願いします」


 腑に落ちないながらも言われた通りルシアンを呼び出すことにした。

 突然呼び出したから、それなりに待つかと思ったのに、数分もせずルシアンはやって来た。


「レティシア……と、モイラ嬢。どうしたのかな?」

「突然お呼び出ししてしまい申し訳ございません。内密にお話したいことがございます」


 優雅に一礼したモイラを見て、私を見て、ルシアンは頷いた。そして寮の前で立ち話をして誰かに目撃されたくないとかで移動することになった。

 モイラに誘導されながらたどり着いた場所で、周囲に人がいないのを確認してからようやく、モイラが口を開いた。


「……ルシアン様、サミュエル様についてなのですが」

「今はどうするべきか考えている最中だよ」

「ええ、存じております。私からひとつ、提案がございます」


 ルシアンがちらりと私を見たので、頷いて返す。提案の内容は知らないけど、ここで呆けた顔をしたら聞く気を失くすだろう。


「もしも陛下や教皇に文をしたためているのでしたら、即刻お止めください」

「……しかし、報告するべき事柄だろう」

「内々に済ませれば報告など必要ありません。そして私は内々に済ませる方法を存じております」


 探るような眼差しを受けながらもモイラは顔色ひとつ変えない。案によほど自信があるのか、これまでの人生で培ってきた演技力なのか、悩むところだ。


「それで、その方法は?」

「私がこれから話すことは他言しないと、そう誓っていただけますか?」

「……ああ、いいだろう」


 私が会話に加わることなく話が進んでいく。私が入ったところで話が滞るだけなのはわかっているので、黙ってふたりの話を聞いていることにしよう。


「方法はふたつございます。ひとつは、サミュエル様の持つ常識を壊してしまうことですね。そうすればクラリス様に関わっている暇などなくなるでしょうから」

「……常識?」

「はい。女神の奇跡は特別なものではない……それどころか、クラリス様相手ですとサミュエル様は無力だと教えてさしあげますの」


 治癒魔法は信頼関係があってはじめて効力を発揮する。サミュエルを嫌い、教会を嫌っているクラリスを治療するのはは難しいだろう。

 普通に治癒魔法をかけてもクラリスを治すことはできない。それこそ、私が前したように魔力切れを起こすまで魔力を垂れ流さないと無理だ。もしかしたら、サミュエルを嫌いすぎて魔力切れを起こすまでやっても完治しないかもしれない。


「でもそれって、クラリスが危険な目に合わないと確かめようがないんじゃないの?」

「ええ、そうですね。クラリス様には死ぬほど痛い目に合っていただくことになりますし、下手すると国が荒れますので私はこの方法を選びたくはありません」

「……では、もうひとつの方法とは?」

「それについては……クラリス様ご本人の前でお話いたしましょう。細かいお話もそのときに」


 そして何故か今度はルシアンにクラリスを呼んでくるようにお願いした。不承不承といった感じでクラリスを呼びに行くルシアンを見送ってから、改めてモイラと向き合う。


「……どうしてあなたが呼ばないの?」

「あら、呼んでもおかしくない方にお任せしているだけですよ。あなたがルシアン殿下を呼べば、彼は何をしていてもすぐ応えてくれるでしょう? そしてクラリス様はルシアン殿下に呼ばれれば、サミュエル様のことだとすぐわかってくださるでしょうから。私が呼んでも警戒されるだけですもの」

「でもクラリスを呼ぶのは私でもいいはずよね」

「いいえ。あなたにはここで帰っていただきます」

「……は?」

「あなたはここから先の話は何も知らないし、何も聞いていない。そういうことにしていただきたいのですよ」


 わかった、と素直に頷けるはずがない。クラリスとルシアンをモイラに託すのは心配だ。常識や価値観が違うのは何もサミュエルだけではない。魔族も魔女も、考え方が違う。


「あなたがいらっしゃると少々面倒なのですよ。治癒魔法がどういうものなのかとか、そういうお話をあなたが知っているのはおかしいでしょう? 下がらないと言うのなら、私が帰るだけです。……さあ、どうされます?」

「ルシアンやクラリスにおかしなことをするわけではないのよね?」

「これまで信じていたことを覆すのですから、することになりますね」

「……危険は?」

「クラリス様がひとつ目の案を選んだ場合は危険だらけですね」

「…………あなたは誰のためにこんなことをしているの?」

「あら、私が誰かのために行動するのなら、その相手はおひとりしかいませんよ」


 正直、心配しかない。だけど私は手詰まりで、クロエにはどうにもできないと言われた。


 だけどモイラがクロエのために行動するというのなら、信じよう。クロエの機嫌を損ねるような真似をモイラはしない。だからリューゲみたいに街を火の海に沈めようとか、教会皆殺しとか、そういう殺伐とした方向にはならないはずだ。


「……私はここで帰ることにするわ。ルシアンに説明は、任せたわよ」

「ええ、ご安心ください」


 これほど安心できない言葉も初めてだ。

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