「噂の出処が掴めないな」
人生とは本当に不思議なものだ。悪役になりたいと思ったときには他愛ない噂程度で、悪役をやめようかと思ったらとんでもない噂の渦中にいる。
「あのような根も葉もない噂、気にすることありませんわ」
昼食の席で毅然とした態度で言い放つクラリスに、さすがは反骨精神の塊のような人間だと感嘆の溜息を漏らす。
ちなみにこの噂を聞いたのは今さっきだ。なんだか雰囲気が違うようなと零したら教えてくれた。
登校中もちらちらと見られ、教室では少しだけ遠巻きにされているようなされていないような、微妙な空気が漂っていた。だからどうしてだろうと不思議に思っていたのだが、いやはやなんとも言い難い状況だ。
これは悪役の道を歩めと天が言っているのだろうかと思ってしまう。この世界の天は女神様なので、否定しきれない。
いや、女神様が望んでいるのなら夢で何か言ってくるはずだ。しかし後期に入ってからというもの音沙汰がない。眠るとかなんとか言っていたから、眠りについているのだろうか。
眠るのなら、忘れないでと嘆く前に、どうすればいいのかを正確に教えてほしかった。
「……どうにも、休みの日にレティシア様とルシアン殿下が険悪だったそうで、それがこのような噂になってしまったのだと思います」
険悪か、たしかに険悪だったかもしれない。それにしても会話の内容を聞いていた人はいなかったのだろうか。廃品どうこうといったことは話していなかったのに。
噂の要因となった王子様がどうしているのかというと、知らない。私は今全力で王子様を避けている。休みが明けてからまだ半日しか経っていないとはいえ、顔の一つも合わせていない。おそらく王子様も私を避けているのだろう。
互いに避け合えば、何をしているのかなんて知りようがない。
王子様に対する恋心を自覚したのはいいけど、困ったことに冷たい目で見られたら泣く自信が出てきてしまった。涙腺というものはいつどこで緩むかわからない。教室でぽろぽろと大泣きでもした日には、寮から出られなくなる。
だがどうしても王子様と接触しないといけないときがある。ダンスの授業と勉強会だ。それを一体どうやって回避しようかと考えるのに必死で、まあつまり、噂のことはすぐに頭の隅に追いやってしまった。
昼食を終え、クラリスたちは教室に戻るとのことで別行動を取ることにした。王子様と会う機会を極力減らすため、教室には時間ギリギリで戻るつもりだ。
しかしどこに行けば王子様に会わなくて済むだろう。王子様が絶対来ないところといえばどこか。
頭を捻り続けた結果出てきたのは、教会側と貴族側を隔てる森だった。あそこならきっと誰も来ないだろう。それに森林浴というのも悪くない。
誰にその話を聞いたのかすらも忘れて、ふわふわとした足取りで歩いていたらなんとも艶めかしい声が聞こえてきた。
「まあ、駄目よ」
拒否してるとは思えないほどの甘い声に思わず足を止め、視線を巡らせると、壁を背に仲睦まじく絡み合っている男女がいた。幸い最中ではなかった。
あらやだ破廉恥、と眉をひそめたが、よくよく見ると男の方に見覚えがある。というか見覚えしかない顔だ。
「きゃっ」
私の存在が気付いた瞬間、女性が可愛らしい声を上げて走り去っていった。早い。
「逃げられちゃった」
乱れた髪をかき上げて、おどけたように言ったのは隣国の王子だった。
ここを教えてもらったときに、女の子でも連れ込んでいるのではと邪推したことを思い出す。当たっていたことを喜べばいいのか嘆けばいいのか、少し悩む。
しかしやはり遊び人だったか。遊び人遊び人と思ってはいたが、実際にその現場を目撃したことはなかった。
「ねえ、レティシア嬢。責任取って続きしてくれる?」
「しません」
「まあ、それは冗談だけど……ちょっとこっち来てよ」
緩く手招きされて、一歩後ずさる。さすがにその冗談の後で近づくほど間抜けではない。
「この間の話、聞いてくれた?」
「いいえ、まだ」
首を横に振ると、隣国の王子は自嘲気味な笑みを浮かべた。
「実は今日がその日でね、ひとりでいたくないんだ。だから話だけでいいから一緒にいてほしいな」
悲しげに伏せられた瞳に逡巡する。この手の話はどうも断りにくい。
さてどうしたものか。異性とふたりになるなとリューゲには言われている。それはまあ、抵抗できないからだろう。たしかに腕力では男性に勝てない。では魔力ならどうか。
相手が王子様や魔族だったから悪かっただけで、隣国の王子はローデンヴァルトの王家の名を冠しているが、王家の血は流れていない。ならば私とそう変わらないのではないか。
よし、いける。いざとなったら吹き飛ばそう。
私が頷くと、隣国の王子は石畳に腰かけ、ここにお座りと言うように自分の真横をぽんぽんと叩いた。私は人ひとり分空けて、隣国の王子の横に座ることにした。
「実はあの日、俺は母よりも先に屋敷に入ったんだ。まあ、ほんの数分ぐらいだけど」
休み時間はあとどのぐらいだろうか。多分二十分もないと思うので、あまり長い話にならないと嬉しい。
「……誰にも言ってないんだけど、そこで何があの惨劇を巻き起こしたのかを、俺は見たんだ」
その独白に思わず目を見張る。
「だからね、どうしても話したいわけではないよ。ただ、もしも同じものを見たのならと思って……」
これは聞くべきなのか、聞かない方がいいのか。いや、悩むまでもない、断然聞かない方がいい。何をなどという不用意なことを聞いた日には、隣国の王子に対する同情が沸いてしまう。
「誰に言っても信じてもらえないと思うから、誰かと共有したい――それだけなんだ」
多分その思いは誰とも共有できない。
「……あれは、そう、まさしく――」
「あ、あの!」
相槌のあすら打っていないのに、語り続ける隣国の王子の言葉を遮ろうと声を出す。少し大きな声に隣国の王子はきょとんとした表情で首をかしげた。
「その、どのようなご家族だったの?」
棒演技がどうこうとは言っていられない。これ以上聞くのは、私の精神によろしくない影響を及ぼす。世の中には知らない方がいいこともあるものだ。
隣国の王子は瞬いた後、笑みを深めた。
「そうだね。とても仲のいい家族だったよ。父は母をとても愛していた。ローデンヴァルトでは珍しく母しか娶らないぐらいにね」
「そう、それは……珍しいわね」
「我が家は裕福だったから、もうひとり妻を娶ってはと言ってくる者もいたが父は頷かなかった。まあ、女性が苦手だったというのもあるんだろうけど。それで、だんだんと大きくなっていく声に嫌気が差した母が、父が気に入りそうな娘を探したりしていたみたいだけど」
「……なんともまあ、行動力のあるお母様なのね」
「母は妻がたくさんいる環境で育ったからね。ぐちぐち言われるぐらいならと思っても不思議ではないさ。それで、これはと思った娘に話をつける矢先に起きたのが、あの惨劇だった」
話が戻ってしまった。
どうにかこうにか話の方向性を変えられないものか。
「ディートリヒ王子はその、たったひとりの妻だけを持つことにはどう思っているの?」
「ローデンヴァルトは女神の教えを尊ぶ国だ。そこの王子である俺もまた、尊ぶべきだろう」
回答になっているようななっていないような。いや、多分なっていない。
「レティシア嬢はこの国のありかたをどう思う? 国境を隔てた程度の違いしかないのに、こちらでは女神の教えよりも愛を重視している」
「ええ、まあ……愛してしまったものは仕方ないと思うわよ。だからあなたのお父様もお母様だけを愛したのでしょう?」
「皆が皆、唯一愛せる者を見つけられるというのは、一体どれほどの奇跡なんだろうね」
そこで鐘の音が一つ鳴る。音が一つは、後十分ほどで授業がはじまるから準備しろという合図だ。
隣国の王子は立ち上がると私に向けて手を差し伸べてきた。
「それじゃあ、そろそろ行こうか」
私は隣国の王子の手を取ることなく立ち上がり、目礼だけして踵を返す。
隣国の王子の「つれないなぁ」という声を背に受けながら、足早に立ち去ることにした。
話すことで多少なりとも気がまぎれたのなら嬉しいとは思う。だけど私は王子様のことで少々忙しいし、リューゲに聞いたところで無意味だ。申し訳ないとは思うが、隣国の王子の助けにはなれない。
そういえばよくわからない噂もあった。まったく次から次へとややこしい。恋する乙女らしくゆっくりと恋心に浸りたいものだ。まあ、王子様を避けている時点でどうしようもないのだが。
地理の授業を受けながらぼんやりとそんなことを考えていたら、王子様と目が合って、外れた。
王子様と私は同じ列ではあるが端と端に座っている。普通にしていたら目が合うはずがない。皆静かに授業を受けているから、何か物珍しいものがあったわけではないと思う。なんだろう、首の運動でもしたのだろうか。
いや、そもそも目が合ったというのだって私の思い過ごしかもしれない。間に何人も挟んでいるし、距離もある。王子様はただ首が痛いなぁと動かしただけだ。
そして、無意識に王子様を見ていたことに気付き机に突っ伏した。普通にしていたら目が合わないということは、私自身が普通にしていなかったということだ。
王子様に変化があったわけでも、日常が変わったわけでもない。ただ私が恋心を抱いただけだ。それなのに、こんななんの変哲もない一幕ですら心を揺さぶられる。
どう考えてもおかしい。一緒に出かけている間ならともかくとして、言葉一つ交わしていない。それなのに意識してしまうというのは、あまりにも間抜けな話ではないか。
「大丈夫ですか?」
恋心のひとつやふたつ程度で人の意識が変化してしまうとは、なんとも恐ろしいと一人で戦々恐々としていたら、頭上から声が降ってきた。
顔を上げると、宰相子息が私を見下ろしていた。
「え、ええ、大丈夫よ」
「体調が優れないのでしたら教師を呼びましょうか?」
「いえ、本当になんでもないの」
いつの間にか授業が終わっていた。教室の中に残っている人もまばらになっている。宰相子息は机に突っ伏したまま動かない私を心配してくれたらしい。
クラリスたちも声をかけてくれればいいのに、すでに帰ってしまったのかいない。
「そうですか……。その、あまりよくない噂を聞いたのですが」
「ええ、と、私が廃品を詰めた犯人というやつかしら」
「いえ、そちらは信じておりませんので。ルシアン殿下と喧嘩されたとか」
「喧嘩、はしてないわ」
喧嘩にもなっていない。謝っても許してくれないだろうし、私は逃げただけだ。
前にもこんな話をクラリスたちとしたことがある。そのときも喧嘩ではないと言ったが、喧嘩であればどれだけよかったか。
「もしも何か困ったことがあればいつでも言ってください。話を聞くことぐらいはできますので」
「ええ、ありがとう」
ヒロインも何かあったら頼れと言っていたが、私はどれだけ頼りなく見えるのだろうか。問題の一つも解決できない人間と思われているのかもしれない。
実際問題を解決できていないせいで、王子様から逃げているわけだが。
宰相子息は「それでは失礼します」と言って去っていった。
私ものろのろと帰り支度をして、今日の晩御飯は何かなとかのんきなことを考えながら教室を出ると、王子様がいた。
壁に背中を預けて、腕を組んで立っていた。
「レティシア」
何をしているんだこの人とか思う間もなく名前を呼ばれて、思わず息を呑む。やだ、どうしよう逃げよう。
くるりと踵を返し、とりあえず教室に避難しようとしたが腕を掴まれた。王子様の反応速度が速い。完全に私が逃げることを見越した動きだ。
「ああ、ああの、なんでしょうか」
「昨日の話の続きがまだだよね」
続きなんて何もない。友達になるのを断られて、それで終わりだ。もはやこれ以上話すことなんて何もない。死体に鞭打つような真似はやめてほしい。
「いえ、あの、話すことは、何も」
「ここだと人目があるから、ふたりで話せるところに行こうか」
お願いだから人の話を聞いてほしい。私が言えた台詞じゃないのはわかっている。それでも話を聞いてほしい。
「でも、ふたりきりになるのは、駄目って言われて」
隣国の王子なら魔力で太刀打ちできるが、王子様相手は無理だ。いや、そもそもそんなつもりは王子様にはないのかもしれない。でもそれで大人しく従ったら、リューゲに何を言われるかわからない。最悪夕食抜きだ。それはいやだ。
「誰に?」
熱のない冷たい眼差しに、言葉を失う。
「誰に言われたの?」
どうやら私はまた失態を犯したようだ。
誰にと聞かれて、どう答えればいいのかがわからなかった。
素直にリューゲですと答えたら、従者の意見に従う意志薄弱な人間に見られやしないか不安だった。王妃様なら人の意見を聞きはしても、左右はされないはずだ。
どう答えればこれ以上失望されないのかがわからない。それとももうすでに失望のどん底にいるのだろうか。それならもはや考えても無駄なことだ。
「ねえ、レティシア。誰に私とふたりになるなって言われたの?」
三度目の質問。少しずつ詳細になっていく辺りが怖い。
おかしい、さっきまで私は「きゃっ目があっちゃった」なんて感じの乙女ちっくな思考をしていたのに、どうして今は恐怖で慄いているんだ。
もしや王子様を好きだと思ったのはつり橋効果だったのか。恐怖のドキドキを恋のドキドキと勘違いする、というのはよく聞く話だ。
「いえ、そういう、わけでは」
「レティシア、答えて」
有無を言わせぬ威圧感に、はくはくと声にならない声を出す。
王子様に触られているというのに、頬に熱がこもるどころか血の気が失せている。本当に自分は王子様が好きなのかと自問すらしてしまう。
ああでも、失望されたくないと思うのはやはり好きだからなのだろうか。
「レティシア?」
失望されたくない、でも答えなくても怒られる。どうすればいいのかわからない。頭の中がしっちゃかめっちゃかで泣きたくなる。
でも王子様の前で泣きたくない。王子様は優しいから、きっと目の前で泣けば慰めてくれる。そして私はまた王子様に甘えてしまう。
逆に慰めてくれなかったとしたら、それはそれで立ち直れない。王子様が無下に扱うよほどな相手に成り果てたということになってしまう。
「わ、私、トイレ、トイレに。だから、離して」
「え? あ、ああ」
思わずといった感じで王子様が腕を離した瞬間に、全力で逃げた。
寮に帰り着いてから、もう少し上手い言い訳がなかったのかと自責の念に駆られたのは言うまでもない。
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