『……ん?』

 マドレーヌとクラリスに用があると告げて、学園をあてもなく彷徨う。一時間後にと言われたが、時間を潰す方法がない。

 図書室に行って宰相子息に捕まるのも今は避けたい。窓から外を眺めると、教師と一対一で魔法を教わっているヒロインが見えた。そうか、今日は補習の日か。


 光属性の魔法が得意ではないせいか、何度も光を出しては消してを繰り返している。ヒロインが自分で欠点を補うことを選んだのか、教師の指示によるものなのかはわからないが頑張っているようだ。


 どうせすることもないし、眺めていよう。

 最近はヒロインとろくに話していない。王子様とヒロインの間に割り込むときもそうだが、私の部屋に来たときにもリューゲに対応を頼んでいる。

 王子様とのことが片付いたら、ヒロインともう一度話をしないといけない。王太子のこととかも解決していないし、話すことはたくさんある。

 ヒロインが王子様に興味がないことは知っているいるが、気にかけてあげてと頼んでもみよう。


 婚約がなくなればヒロインと王子様の邪魔をする権利もなくなるから、ヒロインに嫌味を言う以外の悪役の道を探さないと。

 だけどどんな悪役になればいいのだろう。嫌味を言う以外の悪役像が思いつかない。立ち塞がる壁としては、持って生まれた才能を発揮してヒロインの障害になるべきなのだろうけど、困ったことに私にはそんな才能がない。

 世界の常識すらヒロインより疎いのだから、もはや打つ手がない。


 どうしようか、どうすればいいのだろうと考えていたら気付いたら一時間が経とうとしていた。

 ヒロインの補修も終わるようで、魔法を使うことなく何かを教師と話している。


 怒られに行くのに遅刻するのはまずい。

 私は急いで約束の場所に向かった。



 学舎の裏手にはすでに王子様がいた。壁に背を預けて空を眺めている。これは遅刻かもしれない。


「……殿下」


 恐る恐る声をかけると、王子様がゆっくりと私の方を向いた。やはり笑っていない。冷たい目に気圧されかけたが、なんとかその場に踏みとどまる。今日は逃げることなく、王子様と話をすると決心したのだからここで足を止めては駄目だ。


「遅くなり申し訳ございません」

「いや、私の方が早く来ていただけだから気にしなくていいよ」


 おいでと手招きされて、大人しく従う。


「それで、何を話したいの?」

「あの、婚約について――」

「ああ、それなら考えなくていいよ。解消する気はなくなったから」


 被せるように言われて言葉に詰まる。

 おかしい。私は今日王子様に婚約を解消されに来たはずだ。会話して数分もせず雲行きが怪しくなっている。


「あ、後……謝りたくて」

「何について?」

「逢引疑惑と盗人疑惑について……」


 あれ? これってどう謝ればいいのだろう。どちらも疑惑止まりだ。疑われるような真似をしてごめんなさいと言えばいいのだろうか。王子様の怒りを鎮めるには少々軽すぎるような気がする。

 嫌味の数々については謝ったら悪役ではないから謝れない。

 やはり私の作戦には穴しかない。


「……その、疑われるような真似をして、私が軽率だったせいで、えぇと」


 どう言えば誠心誠意伝わるのだろう。言いよどんでいる時点で手遅れかもしれない。


「レティシア、謝るのならちゃんと顔を上げて」


 頬に手を当てられて顔を上げると、すぐ近くに王子様がいた。いざとなったら土下座しようと思って多少距離を取っていたのに、いつの間に。


「ああ、あの、殿下」


 あまりにも近い。私を見下ろす冷たい目に体が震える。

 ああ、そういえばこの世界に土下座の風習はない。土下座したところでただの奇行になるだけだった。危ない。


 思わず現実逃避しかけるぐらいには怖い。


「続きは?」

「は、はい……私が軽率だったせいで、殿下の心象を損ねるような真似をしてしまい、申し訳ございません」

「何が軽率だったの?」

「その、ディートリヒ王子と逢引しているように見えたのと――」


 騎士様に王子様の私物を盗ませたように見えたことを言おうとして、できなかった。


「そうだね。あいつはこうやって君に触れていた」


 そう言って王子様があのときの再現をするように、髪を一房持って口づけを落とした。

 同じことをする必要はないのではないでしょうか。

 どうしよう。王子様が何をしたいのかわからなさすぎて怖い。怒りから完全におかしくなっている。


「他には?」

「あの、殿下、少し深呼吸でもしませんか」


 少し落ち着こう。私も少し落ち着きたい。逃げ出したくて仕方ない。これでもかと気合を入れて、ようやく逃げずに済んでいるぐらいだ。


「どうして?」

「だ、だって、その、いつもの殿下らしくありません」


 すっと殿下の目が細まる。表情なく見下ろされて、逃げたい。

 駄目だ。今日だけは逃げないと決めたんだ。ちゃんと向き合って、王子様の怒りを鎮めないといけない。


「いつもの私の方がいいの?」

「え、ええ」

「それでは見てくれなかったのに?」


 腰に手を回され引き寄せされる。

 バランスを崩したせいで王子様に体を預ける形になり、土下座できるだけのスペースが完全になくなった。


「そうそう、あいつはこんな風に触れてもいたね」

「あの、こんなに密着してはいませんでした、けど……」


 あれはただ横から手を回されただけだ。これではまるで抱きしめられているようではないか。いや、ようではなく抱きしめられている。


「他には?」

「え、他って……?」


 何をしていたのかわからなくなってくる。私は謝りに来たはずで、こんな――こんなことになる予定はなかった。

 どうすればいい。予定通り謝罪を続ければいいのか。私の手札はそれしかない。


「ヴィクス様が殿下の私物を持ち出して、それを受けとって――」

「そんなことはどうでもいいよ」


 はっきりと言い切られてぴくりと体が震える。不機嫌な声色に、もはやどうすればいいのかわからなくなる。

 後は何を謝ればいい。どうすれば殿下の怒りは静まる。

 ああ、そもそも喧嘩ではないから、謝っても無駄なのか。


「あの、殿下……どうすれば怒りを鎮めていただけますか」


 鎮まりたまえ、鎮まりたまえと心の中で念じる。祭事で使う紙の垂れさがっている木の棒を振り回したい。あれの名前はなんと言っただろうか。


「……レティシアが鎮めてくれるの?」


 現実逃避している場合じゃない。口元にだけ笑みを浮かべて、目が笑っていない王子様が私を見下ろしている。

 しくじった感じがすごくする。


「そうだなぁ。それじゃあ、あいつがどこに触れたのかを教えて」


 さっきからあいつあいつと言っているけぢ、隣国の王子のことでいいのだろうか。これがもしもリューゲのことだったら、正直どこに触ったかなんて覚えていない。あの魔族は気軽に私の頭を叩いてくるし、従者としてどうかと思うぐらい気安い。


「ああ、そういえば君の手に触れていたこともあったね」


 王子様が自己完結してくれた。隣国の王子が私の手に触ったことなんてあっただろうか。つい最近ペットの如く連行されたときは腕だった。あいつというのは隣国の王子のことではなかったのかもしれない。


「他にも触られた場所があるの?」

「いえ、そんなことは……」

「どこ?」


 有無を言わさぬ威圧に正直に腕と答えるしかなかった。

 そして王子様の指が腕をなぞる。いや、そんな触られ方はしていない。ただ掴まれただけだ。


「これでは手に触れられないね」

「え、そんなことはないと思いますけど」


 手に触るだけならこの体勢でもなんとかできる。その腕をなぞっている指で手に触ればいいだけだ。

 そもそも、わざわざ触る必要がない。


「名残惜しいけど、仕方ないか」


 そう言ってようやく私を抱きしめるのをやめた。よかった、解放されたと安心したのも束の間、手を取られ指先に唇が落ちる。

 されていない。間違いなくそんなことはされていない。


「あの、殿下! 何を……!」

「何って、見てわからない? ああ、それとも事細かに何をされているのか説明してほしいの?」


 いや、そんなことは望んでいない。

 王子様が完全にご乱心だ。静まりたまえ、静まりたまえと念じても効果がない。丁寧に一本一本の指に唇で触れている。

 これはあれか、私に辱めを与えて留飲を下げているとか、そういう感じなのかもしれない。

 これで怒りが静まるのなら、耐えるしかないのか。いや、無理だ。


「……殿下、お戯れはおやめください」

「どうして?」

「だ、だって、そういうのは想いを寄せている方にしてください」

「なら問題はないね」


 そしてまた手を引っ張られて抱きしめられる。問題しかない。


「レティシア、顔を上げて」


 言われるがままに顔を上げると、冷たい目がそこにはあった。声色は優しく、口元には笑みが浮かんでいるのに、やはり目が笑っていない。怖い、怖い、怖い。

 これ以上は無理だ。いますぐ逃げ出したい。だけど逃げられない。王子様を引き剥がせるだけの腕力が私にはない。魔力も王子様の方が優れている。完全に手詰まりだ。


「殿下、駄目です、いけません」

「どうして? 大人になったら体を寄せていいと言ったのは君だよ」


 そんなことを言った覚えはない。いや、覚えていないだけで言ったのかもしれない。

 王子様がそんな嘘をつくとも思えないし、多分言ったのだろう。過去の自分が恨めしい。問題を未来に先送りにするのはやめてほしい。

 問題を先送りにした結果が、今のこの状況だからなおさらそう思ってしまう。


「大人というのは、成人の儀を迎えてからでは……」

「一昔前には十六で大人だったよ」


 その話は誕生日の贈り物のときに聞いた。だけど、今は成人の儀は二十になってからだ。一昔前を今持ち出さないでほしい。


「殿下の言いたいことはわかります。でも、今は――」

「名前で呼んで」


 成人の儀は二十からだと言おうとして遮られる。有無を言わせない冷たい声に体が震えそうになる。王子様と話そうと決めてから何度震えたかわからない。


「名前で呼ぶとも約束したよね?」


 感情の感じさせない無表情が怖い。


「ルシアン殿下……」

「そうじゃないよね」


 突き放すような声に泣きそうになる。


「ルシアン、様」


 喋り方は優しいのに、私を見る目も声も冷たい。


「敬称はいらないよ」

「ルシアン……」

「よくできました」


 幼子を褒めるように言って、私の額に唇を寄せた。

 怖い怖い怖い。なんで、どうしてこんなことになってる。謝って、婚約について話して、それで終わるはずだったのに。

 婚約については早々に話が終わって、謝ろうと思ったらこうなって、もう何がなんだかわからない。


「他に触られたところは?」

「ない、ないです」


 あったとしても言えるはずがない。何をされるかわからない。


「本当に?」

「本当です。他にはどこも、触られてません」


 実際触られていないのだから、これ以上何も言えない。そもそも隣国の王子なんてほとんど喋らない相手だ。勉強会以外で接した機会なんて数回しかない。その数回でこれだけ触っているとはすごいな遊び人。

 いや、王子様の触り方がおかしいからそう錯覚しそうになるだけで、スキンシップ程度のものもあるはずだ。多分。



「じゃあいいか」


 終わったのか。ようやく辱めを終えた。やり遂げた。もうこれ以上は無理だ。私が死ぬ。


「でしたら、殿下……」

「名前」

「……ルシアン、あの、離してください」

「どうして?」


 心底不思議そうに首をかしげられた。終わったのではないのか。まだ何かあると言うのか。もう逃げたい。怖い。


「私はまだ怒っているよ」

「は、はい」


 冷ややかな声に頷くことしかできない。物理的に逃げ出せないというのがこれほど心細いとは思わなかった。


「レティシア、ちゃんと私を見て」


 怖くて少しでも目を逸らそうとしたら咎められた。じっとこちらを見る冷たい瞳を仕方なく見つめる。もうやだ、逃げたい。


「ああ、なんだ。こんな簡単なことだったのか」


 満足そうな声に、何が簡単なんだ、こっちの心情は複雑だと悪態をつきそうになる。王子様が怖いのでつけるはずもないけど。

 王子様から離れようと胸元を手で押すがびくともしない。抵抗もむなしく、すぐに手首を掴まれて押し返せなくなった。しかも手の平を唇でなぞるというおまけ付きだ。そんなおまけいらない。


「る、ルシアン、お戯れはもうよろしいでしょう」

「戯れ?」


 怒気を含んだ声に息を呑む。そうだった、王子様は本気で怒っている。戯れとか言ってごめんなさい。でも怒るのならもっと他に方法があると思う。


「お叱りはいくらでも受けます。ですが、その、これは……ルシアンにも私にも、よろしくありません」


 とくに私の精神によくない。怖いし怖いし怖い。普通に叱られる分には心構えができていたけど、こんなおかしなことになるとは思っていなかった。

 婚約の話だって早々に終わらせられたけぢ、もっとしっかり話し合うべきだと思う。


「……これでもまだ伝わない?」


 手首を掴む手に力がこもる。

 王子様がおかしいことは十分伝わってきたので離してほしい。痛い。

 

「――殿下!」


 ぴたりと王子様が止まる。

 声のした方にゆっくりと視線を巡らせると、こちらを睨みつけるヒロインがいた。

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