ルシアン・ミストラル1


『鳥籠の鳥は世界を知ったらどうなると思う?』



 最初は何も思っていなかった。ローデンヴァルトの者がレティシアにちょっかいをかけている――その程度の認識だった。



『ああ、たしかに最初は見聞が広がるだけのことかもしれない。だけど籠の外に広い世界が広がっていると知ってしまったら、飛ばずにはいられないだろう。そして鳥籠の鳥は二羽いる。どちらかが飛び立ってしまっても不思議ではない。そう思うだろう?』


 一緒にいるのを初めて見たのは、食堂でだった。紅茶の入ったカップを前に話しているのを見つけた。ローデンヴァルトが私を嫌っているのは知っていたから、私の婚約者であり聖女の子でもあるレティシアにろくでもないことを吹き込んでいるに違いないと、そう思っていた。


『そう、世界は広い。何も鳥籠の中にわざと留まっておく必要なんてないのだよ。閉じ込めていた鳥籠はここにはないのだから、好きに自由に飛んでいける』



 勉強を教えて、セドリックもいたけど一緒に出かけて、ふたりだけでアーロン先生の歌を聞いて――最初は本当に幸せだった。

 あんな男のことなんて頭の片隅にもなかった。

 ただ何年も会えなかった分を学園都市で取り返そうと思っていただけだった。王都ではできないことを色々して、ふたりだけの思い出を作りたかった。老いてからもこんなことあったねと笑い合えるような思い出をたくさん――



『もう鳥を閉じ込めておくことはできない。ただ羽ばたいていくのを見ていることしかできない。それはきっととても不安で、不満なことだろう』



 ――それなのに、いつからおかしくなったのだろう。



 レティシアが近づきたい人がいると言ったときだったろうか。

 あのときは彼女の想い人が学園にいるのかと焦りもした。でもあれは女性の話だった。


 何度話しかけてもレティシアが逃げたときだろうか。

 いや、それでもいいと思っていた。

 また話しかければいい。まだまだ時間はあるのだから少しずつ距離を縮めていけばいい。レティシアがそういう人だとわかっていたから。


 レティシアがある女の子を気にしているのに気づいたときだったろうか。

 私と入学式の日にぶつかった子を目で追って、ときには辛辣な言葉をぶつけていた。

 レティシアがお近づきになりたいと言っていたのも彼女のことだった。だから、勉強を教えてあげてほしいと頼んできたときも不思議には思わなかった。

 レティシアは人付き合いが多いほうではないから、どう接すればいいのかがわからないのだろう。これから少しずつ教えていけばいいと、そう思っていた。



『ここは誰もが平等に学べるようにと作られた場所。だからここでは波風立たないように動く必要はない。怒りがあるのならばぶつければいい。不安があるのならば嘆けばいい。それは誰にも平等に与えられた感情なのだから、隠す必要はない』



 ――きっと、あの日レティシアとあの男が一緒にいるのを見たときから。


 レティシアにちょっかいをかけている。その程度の認識だった男がレティシアの髪に触れていた。そして逃げる気配のないレティシアに怒りが湧いた。


 今にして思えば、レティシアは食堂であの男と一緒にいたときも逃げていなかった。今と同じように私が乱入しただけだ。私からは逃げるのにどうしてその男からは逃げない。


 そんな男の側ではなく私のところに来て、私の勘違いだと否定してほしかった。


「前も言ったと思うが、愛だなんだという理由でお相手を選ぶのはこの国ぐらいだ。それなのに彼女は誰かを愛したことがないと、そう言っていたよ。可哀相だとは思わないのかい」


 それなのに、どうしてこんな男に言われないといけないんだ。

 レティシアが私を愛していないことなんて、私が一番わかっている。それにどうして、この男にそんな話をした。

  愛を知らないことを嘆いたのか。愛を知りたいと縋りついたのか。私ではなく、この男に。


 違う、レティシアはそんな人ではない。わかっているのにどうしようない憤りを覚え――結局また、レティシアは私から逃げた。

 



『だけど飛べるのは彼女だけではない。言っただろう、鳥は二羽いると。君も世界を広げて、好きに飛べるんだ。広い世界には君が理想とするような魅力的な者がいることだろう。そして彼女もまた同じように、魅力的な者を見つけるかもしれない』



 レティシアが私を通して想い続けている者がいる。

 それは何度も考えて、何度も否定してきたものだった。彼女はずっと屋敷にいて、誰かと知り合う機会も、想いを抱くような機会もなかった。だからそんなことはありえないと何度も自分に言い聞かせた。


 だけど、あの男なら話は別だ。元は商会の息子でこの国にも出入りしていた。幼いときに父親に連れられてシルヴェストル家に赴いたことがあるかもしれない。

 そしてそのときにレティシアと出会っていても、不思議ではない。


 ありえない。私とレティシアが出会ったのは六歳のときだ。それ以前に出会っていたとしても、十年以上想い続けるには幼すぎる。

 しかし狭い世界に現れた同じ年の男の子に想いを寄せるのも、不思議な話ではない。

 

 ありえないと何度振り払っても、一度抱いてしまった可能性を完全には否定できなかった。


「――どうかしました?」


 訝しがる声に勉強を教えていた手が止まる。

 何度も考えては何度もかき消して、今何をしているのかすら定かではない。

 ぼんやりとした視界が少しずつはっきりとしていく。たしか――そう、今はレティシアが気にかけていた女の子に勉強を教えている最中だった。

 

 レティシアが珍しく私に頼みごとをしてきたから引き受けて、その結果がこれだ。レティシアは想い人かもしれない男に教わって、私はレティシア以外に教えている。

 難問にぶつかると少しだけ顔をしかめて、問題が解けるとわずかに口元が綻ぶ。そんなレティシアを見るたびに、どうして私が教えているのはレティシアではないのだろうと考えてしまう。

 本当は私が教えたかった。レティシアにだけ教えたかった。だけどレティシアの頼みごとだから――


「大丈夫ですか?」


 小さくひそめた声と、心配そうにこちらを見る青い瞳に惹きつけられた。


 母上は私が寂しそうにしていると心配そうに見て「大丈夫?」と聞いてくれていた。

 何故かそのときのことを思い出して、隣に座る女の子――クロエから目が離せなくなった。


 レティシアはクロエと仲良くなりたがっていた。あのレティシアが興味を持った相手であるクロエの人となりがわかれば、どうやったら私を見てくれるかがわかるかもしれない。

 そんな言い訳を自分にしながら、クロエに話しかけることを決めた。

 

 

「レティシアには理想とする令嬢像があるみたいで口調がきつくなりがちだけど、本当は君と仲良くなりたいだけなんだよ」

「えーと……そうなんですか?」

「お近づきになりたいってはっきりと言ってたからね」


 そわそわとしたクロエの様子に、あまり長話をするのも悪いだろうと思ってその日はそれだけで切り上げた。

 逃げ去るような後ろ姿がレティシアと重なって、私はまたクロエに話しかけた。


 クロエと話しているとレティシアと話しているような気分になれた。

 私を見る青い瞳が母上と重なって、見てくれることが嬉しかった。

 


 誰かを重ねるのは失礼だと自分が一番わかっているのに、止められなかった。

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