最後の三週間9
キャインという鳴き声と鈍い音が聞こえた。だけどそちらに目を向ける余裕はない。何が起こったのか、それだけを考える。壁がまだ残っていた。魔法で作られたものは使用者の意識が途切れたら自然と消える。ということは、まだ三つ目狼が残っていたということで――
「殿下」
顔を上げると、そこには苦悶の表情を浮かべている王子様の顔があった。私を抱きしめている腕は、振りほどこうと思ったらいつでも抜けられるほど力が入っていない。
「何故、ですか」
守られるべきは王子様であって、私ではない。私を守ったところで、有益なことなんて何もない。男の矜持だとか、そんなものは命の前では塵も同然だ。
王子様は何も答えず、代わりに崩れ落ちるように私にもたれかかる。
必死にその体を抱きしめると、ぬるりとした感触が手に伝わってきた。肩から背にかけての深い爪痕と、そこから溢れる血に頭の中が真っ白になる。
「殿下」
震える唇から出てくるのは、不安と怯えの混じった情けない声だった。大丈夫だよね、と確認したくて何度も何度も呼びかける。
ふ、と息が漏れるような笑い声が聞こえた。よかった、やっぱり大丈夫だった、と安堵しながら肩に乗せられている王子様の横顔を見ると、白い肌がよりいっそう白くなっていて、青ざめていると言ってもいいほどだった。
「……君は、こんなときでも名を呼んではくれないんだね」
耳元で囁くように言われ、私は唇を噛んだ。か細く、力ない声は先がもう長くないのだとわかってしまった。
「ええ、呼びません」
「意地悪だなぁ」
「城に戻れたらいくらでも呼んでさしあげます。ですから、呼んで欲しかったら生き延びてください」
また意地悪という声が聞こえた。
「駄目です、殿下。あなたは生きないといけないんです」
抱きしめている体が重みを増す。
「お願いです、生きてください」
もはや自分の体重を支えることができなくなった王子様に、私は何度も生きて、と呼びかけた。
だけど反応は返ってこない。聞こえてくる僅かな呼吸音だけが、王子様がまだ生きているのだということを教えてくれた。
どうして、なんで。
真っ白な頭の中でその言葉だけが繰り返される。
おかしい、ありえない、こんなこと起こるはずがない。
何度否定したところで目の前の光景は変わらない。
鬱蒼とした森の中は薄暗く、ランタンの明かりだけが頼りなく揺れている。
静かな森の中で聞こえてくるのは僅かな呼吸音。だがそれもひどくか細く、いつ消えてもおかしくない。
「駄目、駄目よ」
縋りつくように抱きしめても、反応は返ってこない。
今手放すと永遠に失われてしまうのではないかと怯え、湿った服を握りしめた。
「助けて」
震える声で紡がれる懇願に応える人はいない。
ここにいることを知る人は誰もいないのだから当然だ。
―ーたとえ近くにいたとしても、助けられる人はいなかっただろう。
「助けて」
だけど、ひとりだけ助けられるものを知っていた。
今の今まで忘れていたけど、確かに知っていた。
他の誰も知らないものを、私は知っていた。
「助けて――」
だから私はその名を呼んだ。
この世界は続編だ。正確には続編の少し前で、前作は今から百年前を舞台にしていた。
人に仇なす魔王が魔物を従え、魔族と呼ばれる者達を使役していた頃から数年後を描いた前作『ハートフルラヴァー』は、魔族と人間の――どこまでも
メインヒーローと思わしき魔族にヒロインが声を奪われ、魔物に襲われ、別の魔族に助けられる。散々な冒頭部分に嫌気が差した私は電源を落とした。「正しくハートフル」「魔族よりもライバルを助けてあげたい」「救いがない」という感想を見てからはゲーム機にセットすることすらしなかった。
だけど、冒頭部分だけでもやっていたことに感謝したい。
私が呼んだのは、冒頭でヒロインを助け、治癒魔法を施す――魔族だ。
「呼んだ?」
まるで昔からの知り合いのような気さくさで彼は現れた。透き通った湖のような水色の髪に、血のように赤い瞳、そして人とは違うということを見せつけるような横に長い耳。
記憶にあるまま、老いもしていなければ若返ってもいないその姿に安堵の息を漏らす。
「たす、けて。彼を助けて」
彼が治癒してくれれば、きっと王子様は助かる。だからと縋る私を彼は一瞥して、首を傾げた。
「なんで?」
「え、だって、あなたは治癒魔法が使えるのでしょう?」
「んー。珍しく呼ばれたから来たけど、何でそのことを知ってるのかな? ねぇ、キミはボクの何を知ってるの?」
「そんなことよりも、早く、助けて」
「だから、なんでボクが助けてあげないといけないの。そっちだって魔物を殺してるんだから、痛み分けってことでいいでしょ」
不快そうに眉をひそめる姿に、何も言えなかった。前作ではヒロインを助けてあげていた。だから、彼は優しい人なのだと、そう思っていた。
助かる道があると縋りついたのは、無意味だったのか。
力が抜け、必死に掴んでいた王子様がずるりと落ちかけたとき――何かを思いついたかのように彼は赤い瞳を細めた。
「ああ、だけど……そうだなぁ。そのうちキミがボクに手を貸してくれるなら助けてあげてもいいよ」
にっこりと、優しそうに笑う姿に私は即座に頷いた。
「じゃあ助けてあげる。キミもボクの後に続いて詠唱してね」
「え、でも」
治癒魔法を使えるのは教会の人だけだ。彼が使えるのは魔族だからだろうけど、人間の私には無理だ。
「キミはそれと親しいんだろ。だったらボク一人でやるよりも効率的なんだよ。それともボクひとりですべてまかなえっていうの?」
「い、いえ、私も唱えます。でも呪文を知らないから……」
「ボクの言ったとおりに言えばいいし、後は治れって考えてればいいよ」
彼の機嫌を損ねたら私たちを置いてどこかに行ってしまう気がした。だからとりあえず頷いて、彼の言葉に従う。
それは歌だった。聞いたことのない言語で紡がれる、讃美歌のような呪文に私は呆気にとられる。
彼に睨まれてとりあえず私も同じように歌うが、聞き覚えのない言語を繰り返すのは中々難しい。
だけど何度か繰り返すうちに、背筋を走る寒気と共に魔力が奪われていく感覚を覚えた。
そして王子様の体温が少しずつ戻ってくる。呼吸も落ちついてきたところで、歌が終わった。
「さて、そろそろ時間切れだね。失われた血は戻りきってないけど、このぐらいまで戻れば問題ないでしょ」
「あ、ありがとうございます」
「別に礼を言うことじゃないでしょ。キミにはそれ相応の対価を払ってもらうつもりだし」
穏やかで、優しい笑みとは裏腹に赤い瞳は冷たく私を見下ろしていた。
「それじゃあ、またね」
ひらひらと手を振って彼は去っていった。その背を追うように、何匹かの狼が木の間から出てきて暗い森の中に消えた。
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