七話 熱帯夜の怪人

熱帯夜の怪人 1


 烏堂 社にとって、それは必然の邂逅であった。

 いや、琥珀の主で有る者にとって、と言うのが正確かもしれない。

 霊鎧という存在に絡み付いた因果の鎖、その始点から、それはやってきたものだからだ。辿れば、当然やってくる。


 そこは、明かり一つ無い、路地裏の端。

 闇黒が支配する、暗く狭いその場所。

 で、有るにも関わらず――

 まるで黒天に輝く一番星のように、赤い光だけが爛々と、燃えるように輝いている。


 ――美しい/悍ましい。

 それを見た社は、矛盾するようでしない二つの感情を、同時に得た。

 ……燃える二つの赤が、その高さを上げていく。

 社の視線よりも上の位置で、それは止まった。


「ほう……」

 漏れた声は男のもの。

 低く、大気を怯えさせるようなそれは、社のものではなく、社の視線の先、路地裏に立っているものから放たれたものだった。


 闇で出来たような、黒いコートを羽織った、長身の男。彫りの深い顔立ちは、彼が日本人ではないことを示している。

 銀の髪をした、堂々とした体格に似合わない病的に白い肌をした、緋の目の男。


 その白い肌を、赤く汚すものが有る。

 それは血だった。

 男の口元からは、赤々とした血が、滴り落ちていたのだ。

 そこから覗くのはそれだけではない。大きく開かれた男の口からは、はみ出ているものがあったのだ。


 歯というにはあまりにも鋭く長い、刃の如きもの。それは獲物の肌に突き立てて、その血を啜るための、牙であった。

 男の下には、流れ出した血の、本来の持ち主……力を失って、ぐったりと倒れた女性がいた。

 怪物だ。


 そう、社は認識する。

 目の前に居るのは、怪物なのだ。

 人を襲い、人の命を喰らう存在は、たとえ人の姿をしていたとしても――或いは、それ故に? ――怪物なのだ。


 自分の手に有る、じっとりとした汗の存在を、社は感じていた。

 焦り? ――いや、これは明確な恐怖だった。

 肌の悪寒と粟立ちからも、社はそれを理解させられる。

 怪異、悪霊の類を何度も何度も撃ち祓ってきた。だが、ここまでの怪物は、居なかった。


 ――勝てるか? いや――

 そう、考えて、社は気付いた。目の前の、赫眼の怪物は、その視線を社へと向けていない。

 視線は社の隣。高さとしては、社より下。

 そう、そこに居るのは――

 怪物が口を開く。


「……ベルンシュタイン」

 琥珀、であった。

 夜魔の王たる威厳すら漂わせる声音で言いながら、男は右腕に携えた剣――握りも、鍔も、刀身さえも、血を固めて作ったかのような剣を琥珀へと向けて言う。


「何故、お前がここに居る」

 琥珀は答えない。

 ただ、社の耳には、その歯が、かちかちと震えて鳴っている音だけが聞こえていた。

 その音が止まった。

「社――逃げるぞ!」


:――:


 年を重ねるごとに、日本の夏の暑さはその険しさを増している――日中の事務所でぐったりと机に突っ伏しながら、社はそんなことを考えていた。

 それが人類へと向けられたしっぺ返し的な何かなのか、或いは単なる惑星の気まぐれなのかは知らないが、兎に角、気温の上昇は、社にとって看過し難いものとなっていた。


 というのも――

「なぁ、社……なんでエアコンが止まってるんだ……ここはこの世の地獄か何かか?」

 ぐったりとして床に倒れ込んだ――なんでも、そこが一番ひんやりとしていて涼しいらしい――琥珀が言う通り、エアコンが止まっているからなのだった。


 季節を問わず喪服を着ている琥珀も、この暑さには流石に音を上げて、キャミソールにミニスカートという薄着姿になっていた。

「……文句はオーナーに言え……いや、もう言った……」


 エアコンの不調は、社達が住む烏堂特殊清掃だけではない。なんでも、ビル全体の空調を管理する室外機の不調であるらしく――結果として、烏堂特殊清掃が入っているテナントビル全体の空調が不全になっているのだ。


 テナントビルのオーナー曰く、修理はもう頼んでいるらしいが、それが来るのは今日明日とはいかないようだ。

「くそ……私、大きくなったら涼しいところに住むんだ……シベリアとか……」

「それは寒いところだろうが……」


 息も絶え絶え、といった様子の琥珀には、いつものキレが無かった。

「まぁ、夏もそろそろ終わるだろ……」

「我慢しろって言うのかぁ……つらい……」

 最早地面に溶け出しそうになりながらも、そんな事を言う琥珀。相当弱っている。

 そんな時だった。

 インターホンが鳴った。


「あー。どうぞー」

「失礼しま……大変そうですね」

 ドアを開けて入ってきたのは、市役所職員の奈美川だった。いつもと違い、ノースリーブ等の夏の装いを身に纏っている。


「奈美川ちゃん……君はこんなところに来ちゃあいけない……君はもっと陽の当たる場所で生きて……いや今は死ぬな陽の当たる場所……今ばかりは日陰を歩いて欲しい。それが私の最後の願いだ……」

「……琥珀ちゃん?」


 その声で床に大の字で倒れている少女の姿に気付いて、ぎょっとした奈美川は僅かに後ずさった。

「あー……気にしないで、そこ座ってくれ」

 そう言ってから、応接用のソファに手をやって、社は自らもソファへと移動した。

「は、はぁ」


「おい、琥珀。仕事なんだからそろそろ起き上がれ」

「きびしい……」

 社の対面に奈美川が座り、うんざりした顔で立ち上がってのそのそと歩く琥珀が社の隣に腰掛ける。


 そうして全員が席に着くと同時に、奈美川がソファの間のテーブル上に、資料を並べ始めた。

「これは……」

 資料に並んでいる写真を見て、社は眉を顰めた。

 社の様子を確認して、奈美川は口を開く。


「はっきり言って、これは今の所事件としては小さなものですし、それどころかもしかしたら事件性も何もないかもしれません。ただ……」

「まぁ、これは気にしておいたほうが良いし、動くならうちじゃないと不味いな」

 琥珀が言う。

 並んでいる写真は女性の首筋に、まるでアイスピックで開けたような傷跡が二つ並んで付いている写真だった。


「病院から、うちの課に連絡があったんです。奇妙な傷跡の女性の来院が複数あった、と」

「それがこれか」

「はい……問診の結果によると、女性達は皆、その傷が何故出来たのかが分からなかったそうです。そして共通して、傷がついたと思われる時間帯の記憶が抜けているとのことで」


 奈美川の言葉に、琥珀が頷いた。

「それはまぁ、そうなるだろうな……これが本物だとするならば、って話だけれども。けどなぁ、本物ならこんな加減するかがなぁ……」

「死体を転がすよりも、この程度で済ませておいたほうが、煙に巻いて逃げやすい、とかじゃないのか?」


 社の問いかけに、琥珀は首を横に振る。

「同族を増やす様子もないし、割と不可解な相手だと思う。何か、別の理由があるのかもしれない……」


「あの……」

 資料を手に取りながら言う二人を見て、奈美川が言う。

「やはり、これはそうなのでしょうか」


「調べてみないとわからないが……疑って損はないと、俺は思う」

「私もだ」

 頷いてから、琥珀は続ける。

「吸血鬼なら、それぐらいの警戒は必要だ」

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