五話 峠の主

峠の主 1


 暗い夜道が、凄まじい速さで後方へと吹き飛んでいく。空気を斬り裂く音すら、車内に入り込んできそうな程の速度だ。

 今の自分は、地上に存在する何者よりも速い――そんな錯覚、いや自惚れすら覚えてしまいそうになる。


 右に見える白いガードレールが、急に正面に現れる。左向きの急カーブだ。

 即座にハンドルを切る。

 タイヤが路面と擦れ、派手なスキール音を立てる。それはまるで、車が絶叫しているかのようだ。


 悲鳴を上げながら、後部を振り回してカーブを曲がる。

 ――つまりは、ドリフトだ。

 法定速度など知ったことではない速度で、車は峠を征服していく。


 ただ、峠を速く走る。そんな事に、何の意味が有るのだ――というものも居るだろう。それは全くもって正しい見識だ。

 だが、何の理解もない。

 この、全てを置き去りにする速度。この能力を出せる車。その実力を開放することに、意味を見いだせない? なんとまぁバカバカしい!


 この速度の前に、そして速度を自由に操る事が出来るという事実の前に、一般的な常識や良識が、何の意味があるというのだ。

 そんな物は全て置き去りにして、ただ走る。

 それこそが全てだ。


 そのためなら、全てを捨て去っても構わない。

 今、この瞬間、この峠の主は自分だ。


 ふと、視線の先に別の車が現れる。思わず舌打ち。

 誰であろうと、今、この時、自分の前を走らせはしない。

 アクセルを踏み、速度を上げる。加速が、身体をシートに押し付ける。

 目の前を走る車の姿が、だんだん大きくなってくる。

 自分に比べれば、大した速さではない。


 なんだそれは。そんな戦闘力の車で、この峠を攻めに来たのか。

 あっという間に、先行車両の真後ろへと車をつける。車の排ガスを浴びるかのような距離――これで、相手にも、こちらの意図は伝わるだろう。

 そう、勝負だ。


 先行車両との距離が僅かに開く。

 それはつまり、速度を上げたという事であり、勝負に乗ってきたという事だ。

 さぁ、ここからは戦闘だ。


 車は移動するための乗り物ではなく、相手を抜き去って捻じ伏せるための武器になった。

 降りることなど許されない。勝つか負けるか、それだけが全てだ。

 示し合わせてなど居ないが、峠の勝負、ルールは決まっている。


 先行する車に、後続の車が着いて来れなくなる――後続の車の姿が、バックミラーから消えてしまえば、先行する車の勝ち。

 そうなる前に、後続の車が、先行する車を抜き去れば、後続の車の勝ちだ。

 先行車は、然程速くはない。抜き去る事自体は難しくないだろう。そう考えて、速度を僅かに落とす。密着しすぎていては抜くに抜けない。


 闇夜に光る、真紅のテールランプ。

 まるで人魂のように、夜の中で揺れるそれを、追いかけていく。

 カーブになると、残光を残すそれを追うのは、難しいことではない。二度、三度と、コーナーを曲がるごとに、先行車のドライバーの癖が見えてくる。

 コーナーの度に、速度が落ちる。それも、あまりにも急激に。


 峠を攻めるものとして、不出来と言っていいレベルだ。その上、速度を落とすのが遅いから、車が振り回されて外を回る形になってしまっている。

 抜くなら、次のコーナーだ。

 大回りする結果、ガラ空きになっている内側。そこに攻め入る。

 幸い、次のコーナーは、ほぼ一八〇度の急カーブ。間違いなく先行車は速度を急激に落として、大回りする。


 そう確信して、車間距離を詰める。

 相手が勝手に抜き去るルートを開けてくれるのだから、距離を保つ必要はない。

 じりじりと距離を詰めて、待つ。

 獲物が動くのを待って襲い掛かる、鷹のように。今は待つ。


 そして、時が来た。

 ガードレールの白が、側面から前面へと伸びる。

 次いで、先行車の車体が外にブレる。


 結果として、抜いてくれと言わんばかりの穴が開いた。

 アクセル。

 目の前に開けたスペースへと、車体を差し込んで行く。同時にハンドルを切る。


 速度を落とさず、内側に。後部だけを振り回すことによって、限りなくコーナーの内側ギリギリで曲がる。

 タイヤが悲鳴を上げ、熱を帯びる。二台の車が、スキール音の重奏を生み出す。

 先行車と一瞬だけ並ぶ。


 何故だろう。その瞬間、並んだ車に対して、奇妙な感覚を覚えた。何かが違うような気がする。普通の車とは、何かが。

 それが何かも分からないまま、先行車を抜き去っていく。

 更にアクセルを踏み込んで、加速。

 

 あっという間に、バックミラーから消える先行車両――いや、今となっては後続車両。

 まるで何事もなかったかのように。

 奇妙な感覚、変な雰囲気というのも、ただの気の所為だったのだろう。そう思ったときだった。


 一際高いスキール音が、後ろから聞こえてくる。それから少し遅れて、重い音。

 あぁ、曲がりきれずに事故ったのだな、と理解する。

 峠では良くあることだ。ガードレールにぶつかっただけで済んだのか、或いはそれを突き破って落ちていったのか。


 後者でないことだけは、祈っておく。同じ、峠で走るものとして。

 だが、止まって様子を見に行ったりもしない。そういうものだ。

 さらばだ、先に行く。そう考えて、アクセルを踏み込む。


 吹き飛んでいく風景を、迫ってくる路面を、楽しむ。

 今、この瞬間。ただ、車で峠を走っている瞬間こそが、永遠になってしまえばいいのに――そう考えたときだった。


 何かが、来る。

 そういう、感覚があった。

 具体的な何か、反応があったというわけではない。だが、確信があった。

 何かが来る。それも、先とは別の後続車両のような、尋常のものではない何かが――

 そう考えて、バックミラーを確認した。


 ――そこに映っていたものは、紛れもなく怪物だった。


:――:

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