深くて蒼い海の底から 2


 それから数日後、社と琥珀は水族館の前に立っていた。

 それなりに広い入口は、横に数台の自動券売機が設置されており、多数の来場客を見込んで作られたことが分かる。

 実際、けっこうな来場者数があった事を、社は記憶していた。


 だが、そんな水族館も、今は立入禁止のチェーンがかけられ、人の立ち入りを拒んでいる。

「ふふん」

 楽しそうに鼻を鳴らし、琥珀はポケットから鍵を取り出した。

 鍵は奈美川から預かったもので、水族館の従業員入り口のものだ。

「……お前、なんでそこまでテンション高いんだ?」


 行きの足取りの軽さを思い出して、社は半目になって言う。

「いやだって、サメだぞ?」

「いや、サメは出ないだろ……」

「まぁ、それはそうだろうけども……でもサメ映画みたいな事件の現場だぞ?」

「死人が出てるんだがな……」

 はぁ、とため息を吐いて、社は額に手を当てた。


「まぁ、まぁ、そう意気を下げる事はないだろ? 仕事は楽しくしたほうが、人生有意義でいい感じだと思うぞ?」

「お前が人生とか語るかね」

 そんなことを言いながら、二人は歩いて、関係者通用口の前へ。その鍵を開けて、水族館の中へと入っていく。


「薄暗いな……」

 天井を見て首を左右に回している琥珀の言う通り、水族館の中は暗かった。まぁ、それも当然の事だ。なにせ――

「電気は通っていないか」

 言って、社は天井を見上げた。

 外はまだ明るかったが、照明が一つも点いていない水族館の内部は、薄ぼんやりとした暗さを纏っていた。


「対策は」

「それはもちろん、有るさ」

 言いながら、社は内ポケットから懐中電灯を二つ取り出して、一つを琥珀に向かて投げ渡した。

「ランタン型の方が雰囲気出て良いんだけどなー」

 言って、琥珀は投げられた懐中電灯を受け取った。

「勝手なことを」


 そんな事を言い合いながら、二人は懐中電灯の灯りを前方に投下しつつ並んで歩く。

 関係者入り口から入り、大ホール……通常入り口から繋がっているそこへと辿り着く。高い天井がガラス張りになっている都合上、それなりの明るさは確保されている。

 中心地だけあって、大ホールからは通常の順路の他に、特別展示が行われていた展示室や、フードコート、土産物店への通路が伸びている。


 懐中電灯を一度消し、社は印刷された資料を広げる。

 その内容は、水族館が開館していた当時のパンフレットだ。

「おいおい、私が見えないじゃないか」

「あぁ、そうだな……」

 言って、社は屈んで、広げた資料を琥珀に見せる。

 琥珀はその資料に向けてスマートフォンを向けた。

「あ、写真撮ったからもういいぞ」

「そうか……」


 妙に寂しい気分になり、社は立ち上がる。

「で、どうするんだ社? とりあえずお土産を抑えてから回るか?」

「いや、営業してないだろ」

「ノリが悪いなぁ、社。そんなんだからモテないんだぞ? 分かってるのか? ん?」

「やかましい」


 そんな事を言いながら、二人は順路通りに進んでいく。大ホールから離れれば、当然のことながら、再度朧気な闇が覆う。

 数人が横になって歩ける幅の通路。その両脇には水槽が埋め込まれている。本来は小さな水生生物を眺めるためのそれは、今は生物どころか水すら失われている。

 主を失った住処という意味では、ここもまた廃屋なのだと言えた。

 廃屋の中で、二人の足音だけが高く響いている。そういう意味で、いつも通りの仕事なのだ、これもまた。


「一通り歩いて回ることにはなると思うが、やっぱり事故現場が最優先かね?」

 歩きながら、琥珀が問う。スマートフォンの画面の灯りで、その顔だけが暗がりに浮かび上がる形になっていた。

「まぁ、そうだな。何かあるとしたら、まずそこだろう」


 事故現場は、大水槽の底辺部。

 今歩いている連絡通路を進んでいくと、大水槽を取り囲む、二重らせん型の通路へと辿り着くことになる。

「っと……これが大水槽か」

 足を止めて、琥珀は左手に持った懐中電灯の灯りを正面に向けた。そこに有るのは、巨大なガラスの円筒――いや、大きすぎて、通路の四角に切り取られた透明な面としか認識出来ないものだった。


「当たり前だが、中身は空だな」

 今までの水槽と同じく、大水槽も主を失った廃屋となっていた。もっとも、水槽であった名残とでも言うべきだろうか、水垢による濁りや、苔の跡は、痕跡として残っていた。

 二人は連絡通路から、二重らせんの通路へと足を踏み入れる。

 二重らせんの通路は、大水槽の周りをぐるりと回りながら下っていく構造になっており、その一番底辺部が事故現場となっている。


 そして、底辺部から更に進むと今度は上り坂のらせんになっており、入ってきたのとは逆のの通路から出る事になるのだ。

 水族館の営業中なら、サメを含む多種多様な水生生物の舞い泳ぐさまを鑑賞することが出来たのだろうが、社と琥珀がらせんを下りながら見ることが出来るのは、円筒形の虚空だけだった。

 足元を懐中電灯で照らしながら進みつつ、社は言う。


「ああ、これは居るな……」

「居るのは確かだけれど、なんだこれは」

 社の言葉に合わせて、琥珀が懐中電灯の灯りを動かす。

 サーチライトのように、投げ出された光のラインが動き、二人の下方を照らす。

 照らされたのは、ちょうど大水槽の底辺部に当たる部分だった。無論、そこには何もない。ただ、空虚な透明が広がっているだけだ。


 だが、社も琥珀も、そこに何かが居ることを確信していた。

 してはいるのだが――

「これは……悪霊なのか?」

 社は言葉に疑問を含ませる。

 なにか、悪霊のような、常ならぬ存在がそこに在る事は確かだ。

 常に見ている悪霊よりも、総量が大きく、形もなにかおかしい――それが、社が霊視をして得た感触だった。


 距離が有るから、というわけではないだろう。

 そんな理由ではごまかしきれない、奇異さがそこにはあった。

 そして、それは琥珀もまた感じ取っていることのようだった。

 眉を寄せて、小首を傾げながら、琥珀は言う。

 

「悪霊……だとしたら、複数が合体したか?」

「この間みたいにか?」

 言って、社は先日の依頼で祓った、男女の合体した悪霊を思い出す。

 対して、琥珀は首を横に振った。


「いや、もっと多数が繋がってるんじゃないか? ムカデ人間みたいに」

「……いや、なんだよムカデ人間。ショッカーの手のものか?」

「え? 知らないのか? ムカデ人間。一般常識だろ?」

「いや、生まれてこの方一般社会と縁が無さそうなお前が一般常識を語るな。そして間違いなく、ムカデ人間は一般常識じゃない」

 えー、と心底不本意と言いたげに、琥珀は声を上げる。


「シリーズ化した人気作なんだぞ、ムカデ人間。こう、人間の口を別の人間の肛門に数珠つなぎに――」

「もういい、大体わかった」

 社は溜息を吐いた。

 底に居るのが何なのかはまだ分からないが、まぁ、どう考えても、琥珀が言うところのムカデ人間ではないのだけは確かだろう。


 そうこうしている内に、二人は底面に辿り着きつつあった。

 急に緩やかになった傾斜。そこに二人は足を着く。

「さて、鬼が出るか蛇が――」

 そこで琥珀の声は、途切れた。

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