深くて蒼い海の底から 3
急に、床が消えた――社が得た感覚はそれだった。極端な浮遊感は、足元が消失して落下しているかのようだった。
だが、そうではないということはすぐに理解できた。
呼吸が出来ない。身体が重い。いや――
――水中か!?
口から泡を吐き出しながら、社はそう理解する。先までは水槽の中にすら水がなかったというのに、何故か、暗い水の中に飲み込まれてしまっている。
通常では有り得ない。
つまり――間違いなく、異界に飲み込まれている。
――琥珀……!
異界に飲み込まれているということは、悪霊が存在しているということだ。そして、害意をもってこちらに相対している。
ならば、琥珀もまた――そう考えて琥珀を探したときだった。
『
琥珀の声がすると同時に、社は息苦しさが失われた事を実感する。そして、自らの身体が、霊鎧・ブラッドアンバーに覆われていることも。
「助かった、琥珀」
『ふふふ、私の貸しは高いぞ、社……と、言ってる場合じゃないな。下から来るぞ!』
「……下?」
鎧と化した琥珀の声に従い、社は下方へと視線をやる。
そこには、在るはずだった床が消えており、無限の冥闇が広がっていた。これもまた異界化の影響だ。
そして、社は見た。
「……は?」
思わず、そんな言葉が漏れた。
迫ってくる、巨大な穴。鋸のような細かい歯で縁取られたそれは、間違いなく、巨大な
『馬鹿! 良いから避けろ!』
呆気にとられた社に向かって、琥珀が激を飛ばしてくる。その言葉で我に返り、社は直様身を翻した。
水の重さが、まるでしがみついているかのようで、ブラッドアンバーの動きが鈍る。
身一つ分だけの僅かな移動に過ぎなかったが、それでなんとか十分だった。社が先まで存在していた場所を、まるでミサイルのような鋭角で高速な影が貫いていく。
横からその様を見ることで、社は自分達を襲っている存在を把握した。
『サメだ! サメだぞおい、社!』
「やかましい」
声だけだが、やたらと興奮している琥珀に向かって社は言う。
間違いない。ブラッドアンバーに攻撃を仕掛けてきた悪霊の正体は、サメだった。
しかし、同様に、異界を展開したあれが、ただのサメではない事も確かだ。
「しかし、なんだアレは……」
『事故で死んだのは人間だけじゃない、サメだって当然死んでるんだ。だったら当然、サメだって悪霊になってもおかしくない。つまりアレは、死んだサメが悪霊になった、悪霊サメなんだよ!』
「……なんだその確信は」
『サメ映画で見たから分かる!』
「分かるな分かるな」
――とは言ったものの。
琥珀の気の狂ったような推論が外れているという感じも、社はしないのだった。
アレは確かに、事故の際に死んだサメの悪霊だろう。
認めるのに恐ろしいほど抵抗は有るが。
「しかしどうする……水中環境で戦えるのか、霊鎧は?」
『極限環境での戦闘を想定されているし、異常は出ていない。まぁ性能が十全に発揮できないことは否定しないが。例えるなら地形適正:Bって感じだ』
「Bかぁ……」
そんな事を言い合っていた二人へと、悪霊サメが上方で向き直ってくる。巨体が名が荒れるように身を翻す様は、在る種の優美さすらあった。
「水中機動用の
『流石に無いぞ』
「だよなぁ」
ならば、この状態でなんとかするしかない。
悪霊サメの位置を把握して、向き直る。機動力でなんとかすることは出来そうにないのなら、カウンターを狙うだけだ。
幸い、サメが飛び道具を撃つことは無さそうだし、近寄って攻撃してくる筈だ。先と同じように。
『来るぞ!』
大顎を開けて、サメが突撃してくる。水をかき分け、凄まじい速さで。
『実在のサメよりはるかに速いな! 悪霊だけあって、物理的な限界を超越してくる!』
「いらん薀蓄を!」
言いながら、社は自らの身体を、向かってくる大顎の内側へと潜り込ませた。
無数に生えた歯を避けて、自ら飲み込まれたのだ。
悪霊サメがブラッドアンバーを飲み込まんと、口を閉めようとする。
だが――
「させるかァ!」
腕と足を伸ばして支え棒のようにして、サメの顎が閉まろうとするのを防ぐ。飲み込もうとするサメと、それを防ごうとするブラッドアンバー。
しかし、その均衡は容易く崩れる。
「琥珀!」
『ああ、分かってる!
琥珀の声とともに、サメの上顎を押し留めているブラッドアンバーの右腕下腕部が変形する。腕そのものと同じくらいの大きさをした、四角い箱――魔弾タスラムの射出機へと。
タスラムの射出機が砲口を向けているのは、当然サメの上顎だ。
連射。
水中だろうと、密着した状態だろうと、魔弾タスラムはその威力を減衰したりはしない。
無慈悲なまでにサメの上顎には大穴が明き、サメはその身を捩る。
「ぬ……」
大顎が開き、その内側から、ブラッドアンバーが吐き出される。そのまま、身体を翻して、背を向け、悪霊サメは離れていこうとする。
かに見えたが――
『社!』
琥珀の声。同時に、サメの尾が飛んできた。
「くっ……」
咄嗟の事に、攻撃も防御も間に合わない。悪霊サメの、強靭極まりない一撃を胴体に受けてしまう。
水中を吹き飛ばされ、ぐるぐると身体を振り回される。サメとの距離が離れていく。
『損傷軽微、だけど、これはどう戦う……?』
琥珀の声がを聞き、社は思考する。
速度では圧倒的に不利だが武器ではこちらに分がある。ならば――
「有利を活かして行くしか無いだろう。琥珀、敵の捕捉を頼む」
『了解、任せとけ!』
琥珀の声に合わせて、悪霊サメの位置を霊的視覚でより正確に捕捉出来るようになる。レーダーでミサイルの動きを見ているような感覚に近い。
悪霊サメの動きは速い。ぐるりぐるりとブラッドアンバーの周囲を回遊するように泳ぎながら、こちらを狙っている。
その方向へ、社は魔弾タスラムを放つ。
弾速と悪霊サメの軌道、速度から次の位置を計算し、偏差射撃で、更に数発。
水を裂き、殺到する魔弾の群れ。
しかし、それは全てが命中したというわけではない。悪霊サメの動きは素早く、社としても水中では射撃が安定しないためだ。
『当たってはいるが、致命傷にはなりそうにないぞ。さすがはサメだな』
「なんでサメを褒める」
『サメだぞ?』
「なんだその理屈は……ともあれ、口の中からブッ放しても致命傷にならないことは分かっていたんだ。射撃は牽制に使う」
言いながら、魔弾タスラムを放ち、社は泳ぐ。
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