完全な世界 4
廊下もまた、ダイニングキッチンと同じように彩度が下がっており、まるで生物のように脈打っていた。
『異界化の範囲は、ダイニングキッチンだけじゃない――と。まぁこれも当然だな』
「そうでなかったらあのキッチンから出られないところだったぞ」
琥珀に向かって社は言う。
この家全体が異界化しているからこそ、異界の中を歩き回るという形で、こうして家の中を歩き回ることが出来ているのだ。
人格的には二人であり、物理的には一人であるブラッドアンバーは、そんな会話をしながら廊下から繋がる階段を登っていく。
本来はそれなりに新しいはずの階段だが、ブラッドアンバーが一歩一歩と段を踏みしめる度に、ぎしりぎしりと、まるで築数十年の家屋のように床板が悲鳴を上げる。
『ぎしぎしみしみしと……幽霊屋敷扱いも当然だな、これは』
「異界化したところに足を踏み入れたわけじゃないだろう、言ってる連中だって」
『いやー、呪怨ごっこしたかもだし』
「本気で言ってるか?」
『いや全然』
傍目には独り言めいた会話を続けながら、ブラッドアンバーは二階に足を踏み入れる。
窓にカーテンはかかっておらず、本来なら陽光が差し込んで明るくなっているはずなのに、一階と同じように薄暗くなり、彩度が下がっている。
寝室は階段を登りきって左手。ドアを開いて、ブラッドアンバーはその中に入って行く。
中にはダブルのベッドが置かれており、ここがやはり寝室である事を示していた。
『不自然なくらいに明るいな』
琥珀の言葉通り、その部屋は二階廊下とは逆に、まるで陽光の下ででも有るかのような明度を誇っていた。
「ろくなものじゃないだろうな」
社はそう返しながら、部屋の中へと足を踏み入れる。
身体が完全に光のうちに入ると、さも当然とでも言うかのように、扉が勝手に閉まった。
同時に、示し合わせたかのように、部屋の明度と彩度が下がる。
『何だこれは。まさか、罠のつもりなのか?』
琥珀の言葉に、社は返す。
「かもな。見ろ」
『言われなくても見えているぞ社。なんともまぁ……悪趣味だな』
二人――ブラッドアンバーの視線の先で、部屋に入るまでは存在していなかったものが生み出された。
それは悪霊。
数は先と同じ、男女二人。
しかし――それは一つの存在でもあった。
その悪霊は、二つの肉体が、途中で溶け合って一つの何かになっているのだ。
接合部は二人の胴体。まるで抱き合っているかのように、向かい合わせになり、胴体の部分が服も人体も合わせて、まるで硫酸か何かで溶かしてから接着したかのような有様になっている。
その『一つ』の悪霊が、身体の側面を社に向けたまま、二つの頭だけを動かした。
ぐるりと向き直ったその目があるべき場所には、先の悪霊と同じように黒い空洞が広がっていた。
『しかしなんでまた合体してるんだ、あの二人は。おしどり夫婦って話でも無かったのに』
「知るか……それ以前に、おしどり夫婦でも物理的にああはならん」
『そりゃそうだ』
言って、ブラッドアンバーは構える。両腕には、先と同じ武器――魔弾タスラムの射出機を形成している。
どんな理由でそうなっているかなど、社にとってはどうでもいいことだ。大事なのは、これが悪霊であるということ。
社は魔弾タスラムを射出する。
左右の腕からの砲撃。連射されるそれは、局所的な破壊の嵐を作り出す。
しかし、それが悪霊へと到達することはなかった。
「いない……!」
瞬間的に、悪霊の姿が社の視界から消える。
『上だ社!』
琥珀の言葉。光学だけでは捉えきれなかった悪霊の姿を、琥珀は捉えていた。
社が上を見る。
天井。
まるで暗い闇を固めたかのようなそこに、悪霊は上下逆さまになって張り付いていた。
そして髪を垂らした悪霊は、その四本の腕を下に――ブラッドアンバーへと向けて垂らした。
悪霊はその四本の足だけで、蝙蝠のように天井に張り付いていた。
『避けろ社!』
瞬間、垂らされた悪霊の腕が伸びる。
悪霊の攻撃だ。
即座に社は跳躍し、その場から離れる。
社が離れたその場所に、四本の腕が突き刺さる。まるで、地面が泥沼ででも有るかのように、ぬるりと。
「喰らえッ」
空中。跳躍した社は、両腕を天井の悪霊へと向ける。発砲。
両腕から連射される魔弾タスラムが敵へと襲いかかる。
しかしてそれが命中するよりも、悪霊が動くほうが早い。
地面に付けた四本の腕を支点として、自分の身体をまるで叩きつけるかのように振る。
その軌道上に存在するのはブラッドアンバーの鎧だ。
高速で自らの身体をハンマーとする悪霊。その速度と霊的な質量が暴力となって、タスラムの暴雨を掻い潜る。
『
対応。
琥珀の声に合わせて、ブラッドアンバーの躯体に変化が起こる。
背面が盛り上がり、工業用の機械腕にも似た四本の巨大な腕へと変化する。
アスラ。
それは日本では、阿修羅として名が知れている、インド神話で語られる戦神の種族である。
有名なのはその腕の数だろう。アスラには三対計六本の腕が生えている。その伝承を元にした
琥珀が呼び出したアスラの多腕は前に突き出され、盾として悪霊の身体を受け止める。
「くっ……」
霊的な圧力が物理的な衝撃として受け止められる。しかし、その衝撃を受け止めきれず、ブラッドアンバーは弾き飛ばされた。
まるで素手で掴んで投げられたかのような勢いで地面へと叩きつけられ、ブラッドアンバーは地を転がりまわる。
しかし、それもわずかの事。勢いが止まるよりも早く、増腕アスラを駆使して、跳ね上がるようにしてブラッドアンバーは立ち上がる。
『手ひどくやられたなぁ、社。どうする? 運転を変わろうか?』
「いや、何する機能だそれ」
社はそう返しながら、悪霊を確認する。天井から落ちてきた悪霊は、ぼうっと四足で立ち、四つの空洞でこちらを見ていた。
さらに口を開けて――
「あ、あ、あ、あ、あ、あ……」
掠れているような、ひび割れているような声を立てる。
人間の神経をすり減らす、奇妙な声音。
ブラッドアンバーでその影響は緩和されているものの、完全に遮断できているわけではない。社の脳髄にも、きりきりとした鈍痛にも似た感覚が有る。
「さて……」
長引かせるわけにはいかない、と社は地を蹴った。
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