仮面紳士ルパン

南野洋二

第1話 アルティメット・ルパンの逮捕

 思えばおかしな旅だった。

 出だしは上々! あんなに幸先のいい旅は私にも初めてだった気がする。

 プロヴァンス号は横浜港を出港して清水港、神戸港、那覇港を経由して台湾へと向かう航路を九日間で往復する豪華客船で、私は旅行代理店の依頼を受けて体験記事を旅雑誌へ寄稿する為に乗船していた。

 船長は台湾人の李戊柳という黒髭が印象的な人物で乗船前の顔合わせの時から何故か彼に気に入られ、色々と便宜を図ってくれた。

 このせわしない時代に船旅を選択するような人々は、言い方は悪いが暇と時間を持て余した富裕層である。事実、船内で催されるイベントは普段の私には縁の無いような優雅な物ばかりであった。

 そんな縁が無さそうな人々の中にあっても波長の合う相手は見つかるもので、出港した次の日には私は二人の旅の道連れに出逢う事が出来た。

 一人は着こなしこそ嫌味にならない程度に上品ではあるが、全身ブランド品で身を固めた良辺留紗蘭夫人。初対面からしばらくは御主人の壇氏を交えて三人で打ち解けた会話をしていたが、彼は暫くすると船酔いが酷くなったらしく、船室へと引っ込んでしまった。

 するとそこへ現れたのが職業〈カメラマン〉と称する金髪の若者・路世塁。どうやら御主人不在時の紗蘭さんのエスコート役を狙っていたようだったが素気無く振られると、あろうことか抜け抜けと私を口説き始めて来た! あっさりと無視しても良かったのだが、これも旅の一興。彼を冷たく突き放しながら私はこの刹那的な関係を愉しむ事に決めた。当然若者は見返りが無い事に不満だろうが、恋とは駆け引きを楽しむもの。この外界から隔絶された孤島のような船内に閉じ込められるのもたかが九日間。やがて彼もこの関係に甘んじる事を受け入れた様子であった。

 船旅は天候にも恵まれ、プロヴァンス号は何の問題も障害も無く、六日目に台北は基隆内港へと入港した。ここでも私たち三人は行動を共にし、基隆市内で絶品と評判の〈台湾風海鮮丼〉を食した。そして、ここからが経験豊富な旅人たる私の腕の見せ所。台湾滞在時間は約八時間。船には三十分前集合なうえ、すでに食事で一時間近く要している。それでも鉄道で片道五十分の時間を掛けて首都・台北市へと向かうのだ。このハードな行程に塁は音を上げ、紗蘭さんは呆れ返っていたが、行程を終えて船に戻った時には充実した一日を過ごした満足感から皆笑顔であった。


 事件はその日の夜、横浜を目指して出港した船上で発覚した。

 さすがに疲れ切った私たちはその夜は各々の部屋でゆっくり休むことで意見が一致し、解散していた。ところが寝入り端に部屋の扉を連続でノックする音が聴こえて来て、一気に眠気が覚めてしまった。

 ──塁じゃないでしょうね!

 残された旅程もあと実質二日。夜這いをかけるには良いタイミングかも知れないが、ここでハッキリと拒絶の意志を示して関係を断ってしまっては残された時間が気まずい物になってしまう。第一、ある程度親しくなった男性からの誘いを断るにはパワーが要るのだ。勿論、だからといって受け入れる気など毛頭無かったが。

 そんな事を考えながら船室の扉を開くと、それまでの長考が杞憂であった事を知った。

 「あら? あなたは──」

 扉の前に立っていたのは船長と行動を共にしていた船員だった。確か医務部員の呂寸と名乗った気がする。

 「船長がお呼びです。付いて来て下さい」

 一体何事なのか。好奇心に駆られた私は疲れも忘れ、寝巻の上にガウンを羽織って船員の後を追った。当然船長室へ向かうと思っていたが、意外にも行き先は良辺留夫妻の部屋であった。

 呂氏は扉をノックすると一歩後ろへ下がった。必然的に私は開かれた扉の正面に立つことになる。すると目の前には泣き腫らした紗蘭さんの姿があった。

 「ああ、音梨ちゃん! 来てくれたのね!」

 部屋へと脚を踏み入れた私の元へと彼女が駆け寄って来て、力強くハグされた。かなり苦しかったが、死ぬことはあるまい。暫し我慢する事にした。何が何だか解からないまま室内を見回すと、部屋の中には壇氏と船長と塁がいる。

 誰も口を開かない状況に不安を感じつつ嗚咽を漏らす夫人の背中をあやすように撫でていると、檀氏が近づいて来て私の目の前へとビニール袋に入れられた一枚の名刺を掲げた。

 「私たちが部屋に戻って来ると、鍵を掛けたはずの室内にこれが置かれていたのだ」

 ようやく泣き止んで落ち着いた様子の紗蘭さんが、やっと私を解放してくれたので浅く呼吸を整えてからビニール袋を手に取って中に入れられた名刺をじっくりと眺めた。

 〈予告状──明日、良辺留氏が不当に入手した財産を回収すべく参上いたします〉

 「アルティメット・ルパン!」

 私はその署名を目にして、思わず大声を上げてしまった。

 アルティメット・ルパンとは〈怪盗紳士〉を自称する巷を騒がせている強盗であった。そうなのだ、どんなに気取ろうが自分ルールを守ろうが、人の物を盗むのは犯罪だ。

 参考までにルパンの公言しているルールは三つ。

 〈犯行前には必ず予告状を送る〉

 〈悪人からしか盗まない〉

 〈殺人は決して行わない〉

 それにしても、ルパンが自己美学に従っているという事は、檀氏は犯罪者という事になる。確かに旅先で彼が何をしているのか、紗蘭さんに訊ねた事は無かった。

 とは言え、良く知りもしないルパンや檀氏について今ここでどんなに私が熟考した処で、私の中に答えは無い。現実問題に戻って船長へと問いかける。

 「それで何故私が呼ばれたのですか?」

 「ああ! それはですね、ルパンの予告した〈明日〉というのが深夜零時過ぎなのか、明日の日中なのか、全く見当がつかないので、それまで良辺留夫人をお部屋へ受け入れていただけないかとお願いしたかったのです」

 「私からもお願いします。私はこの部屋で明日一日寝ずの番をします。幸い、路世君と船長と医務部員の方が交代で一緒に居て下さるとの事ですから、妻だけが心配なのです」

 船長の言葉が終わらない内に檀氏からも懇願されて断るキッカケは与えられなかった。もっとも、船長が便宜を図ってくれたおかげて私はここまでツインの部屋を独り占め出来たのだから、断るのは筋違いだ。それに紗蘭さんならそこまで気を使わずに済むだろう。

 「わかりました。紗蘭さんさえ良ければ喜んで」

 「有り難う! 音梨ちゃん!」

 私の快諾を聴いた夫人は、再び私を強くハグした。


 その夜は女二人、朝まで語り明かすかも──と覚悟していたが台湾での無理な行程が効いたのか、紗蘭さんはあっさりと眠りについた。

 翌朝、私たちは意図的に〈例の話題〉を避けながら朝食を摂り、夫妻の船室を避けるように船内で過ごした。ちょうど娯楽室では船付きのマジシャンが本格的な手品を披露していた為、ひととき私たちは言い知れぬ不安を忘れる事が出来た。

 だが、そこへ塁が駆け込んで来たのだ!

 「大変だ! 紗蘭さん! 来てくれ!」

 動揺を隠す事も無く、狼狽した彼の姿を見て周りの船客たちがざわめく。

 「いやっ! いやぁ!」

 何かを感じ取ったのか、その場を動こうとしない夫人を置いて、私は思わず駆け出していた。背後に人の気配を感じてチラッと目線を移すと、何故か仮面姿のマジシャンも付いて来ている。

 何処か怪我でもしているのか、ぎこちない動きで先を行く塁は予想通り良辺留夫妻の船室の前で足を止めた。

 扉は開かれ、入り口を塞ぐように船長が立っている。室内では人が動いている気配がしている。中にいるのは檀氏であろうか?

 部屋へと入ろうとした私の肩を船長が優しく押し戻した。

 えっ? と驚いた私の横をマジシャンがスッと通り過ぎて行く。

 「入ってはいけません」

 船長が哀しげにそう告げた。私はそれで全てを悟った。ここに居るべき人物が出て来ない。その理由はただ一つ──彼は出て来る事が出来ないのだ。

 医務部員の呂氏が室内から顔を覗かせると、船長へ向かって唇を引き締めながら首を振った。

 「横浜港へ着くまでこの部屋は封鎖します」

 船長がそう宣言すると、封鎖用のテープを持った船員が扉を閉めるべく駆け寄って来た。船長が最後とばかりに室内へと目を遣ると、中で動いている男に気が付いて声を掛けた。

 「おい! 君そこで何をしているんだ?」

 白いシルクハットに白スーツ、黒マント姿の如何にも怪しい男は顔を隠していた仮面を取りながら船長へと呼び掛ける。

 「船長、ちょっとこれを見て下さい」

 渋々ながら船長が室内へと入って行く。呂氏もその後に続いた為、私もちゃっかりと付いて行った──。

 そして大いなる後悔をする羽目となった。やはり年長者のアドバイスは聴くものだ。凄惨な遺体を目にした私は喉元を込み上げてくる朝食を抑えながらトイレへと飛び込んだ。慌てて呂氏が追い掛けてくれて、優しく背中をさすってくれる。

 ゼーゼーと苦しみつつも、船長とマジシャンの会話だけはしっかりと耳に入って来た。

 「貴重品保管用のキャビネットが開けられています。鍵は──壊されたようですね。ルパンの仕業だとしたら余りにもスマートじゃないとは思いませんか?」

 「模倣犯だとでも言う気かい? 例えそうだとしても状況は何も変わらないじゃないか! 殺人まで犯す窃盗犯。こいつは間違いなくこの船の中にいる。横浜港へ着くのは定刻だと明後日の朝だ。那覇港なら明日の夕方には着けるだろうが、今更航路を変更するよりも横浜で手配を整えておいた方が得策だと私は考える。問題はその間、どうやってルパンを名乗る殺人鬼から乗客を守るか、だ」

 「それなのですが、いい案があるのですよ」

 「本当かね?」

 「ええ。簡単です、一人一人持物検査をするのです。夫人に訊けば引き出しに入っていた貴重品が何かは判ります。そいつを持っている者が犯人です」

 「持物検査だって! そんな事出来る訳がない!」

 「いずれ乗客は事件の事を知るでしょう。誰だって疑われたくはない。横浜へ着いてから足止めされるくらいなら自主的に協力した方がいい、そんな雰囲気を船内に作り上げるのですよ」

 だいぶ落ち着いた私は呂氏に礼を述べると檀氏の姿を見ないように気を付けながら室内へと戻り、二人の会話に加わった。

 「それ、私に協力させて下さい!」


 船長からの呼び出しで娯楽室へと集められた乗客には窃盗事件に関してのみ伝えられた。私はそこで打ち合わせ通り「身の潔白を証明したいから持物検査をして欲しい!」と先陣を切って言い出した。案の定同調する人たちがいて、室内の空気は「拒否した者が犯人だ」という雰囲気で固まった。

 持物検査を終えた私は船室で嘆き悲しんでいる紗蘭さんの元へと戻る気分になれず、医務室にいる塁の見舞いに行くことにした。

 呂氏によると大量の麻酔ガスのような物を吸わされたらしく、手足が麻痺状態となっていたらしい。

 私が医務室へと入って行っても、塁はこちらを見なかった。しばらく室内は沈黙に満たされていたが、やがて塁がポツポツと言葉を紡ぎ始めた。

 「悔しいよ──良辺留さんと二人でルパンを捕まえて有名になろうと思っていたのにさ」

 彼の言葉は天井へ向かって弱々しく吐き出されて行く。

 「何で俺だけ生き残ったんだろう──」

 その頬を一筋の涙が伝った。

 「塁──」

 私は彼に掛ける言葉を何も見つけられなかった。しかも悔しい事に少しキュンとしてしまった。

 不意に塁が起き上がりたいのか、体を動かし始める。慌てて彼の傍へ行き、手を貸した。

 「動けるの?」

 「ああ、だいぶ良くなったみたいだ──外の空気を吸いたいんだ。カメラ、取ってくれる?」

 彼の目線の先にカメラバッグがあった。二台のカメラが収納されており、私はその片方を手に取った。

 「あっ、そっちはフィルムを替えないとならないんだ。この手じゃ無理だから、別のを取って貰える?」

 私は言われた方のカメラを肩から掛けると、彼に肩を貸しながら甲板へと向かった。


 甲板に出ると塁はポートサイドギリギリまで行き、思いっきり背伸びをしながら、大きく息を吸い込んだ。

 「ウーン! 海は広いな大きいな! 嫌な事を全部忘れられそうだ!」

 子供のようにはしゃぐ塁の姿を見て、隣に立った私にも思わず笑みが零れた。

 「おっ! いい笑顔! カメラを貸して」

 ショルダーストラップを手に持って、塁へと差し出す。

 ところが手の震えのせいか、塁はしっかりと掴む事が出来ず、カメラは二人の手の間をすり抜け、海へと落下してしまった!

 「ごめんなさい!」

 動揺した私は身を乗り出してカメラを目で追おうとしたが塁は怒る事もせず、私の背後へと移動すると優しく両肩に手を置いて私の体を引き戻した。

 「いいって。落としたのは俺だ。君が気に病む事じゃない」

 ああ、素敵! キュンキュンが止まらない!

 彼の方へと向き直ると、両手で肩を抱いたままの彼の唇が近づいて来た。目を瞑ってその瞬間を待つ──。

 ん? 最近の男子の唇はゴムのような感触がするのね!

 驚いて目を開けると二人の間を遮るように、顔と同じくらいの大きさに膨らんだ赤い風船が存在していた!

 二歩下がってペッペッと唾を吐く塁。さすがに私にはそんな下品な事は出来ない。だが、気持ちは解かる。

 圧力から解放された風船は空へ舞い上がり、風に乗って海の向こうへと飛んで行った。

 「お邪魔だったかな?」

 おどけた調子で話し掛けて来たのは白いシルクハットのマジシャン。

 「おまえの仕業か!」

 いい雰囲気を台無しにされて怒り心頭の塁がマジシャンへと詰め寄る。

 「いかにも。ところで、これは君の仕業かな?」

 マジシャンが右手を振ると、そこには海に落ちたはずのカメラがあった。

 「あっ! それは!」

 慌てた様子の塁がカメラを奪い取ろうと手を伸ばした。すると彼の指に弾かれたカメラは甲板へと落下し、その衝撃で裏蓋が開いた。同時に中から眩しい輝きが零れ出して来る。

 「えっ? 何?」

 不思議に思った私が近づいて行くと、カメラの中から色とりどりの宝石が転がり出しているのが目に留まった。

 「どういうこと?」

 思わず塁へと詰め寄ると、私たちの間を遮るようにマジシャンが体を割り込ませて来た。

 「マドモアゼル。勇敢なのは大変結構ですが、殺人犯が捕まっていない事をお忘れなく」

 そう指摘されて、初めて私は己の浅慮に気づいた。

 「塁が殺人犯ですって?」

 「まだ〈可能性〉だけですがね」

 マジシャンは塁から目線を逸らさずに答える。

 「違う! 待ってくれ! 殺したのは俺じゃない!」

 慌てて塁が弁明する。

 「では、どこまでが君の犯行か教えてくれ」

 「それは──」

 マジシャンの問いかけに対して塁は口を噤んだ。

 そんな彼を見て、マジシャンが言葉を続ける。

 「ならば私が説明するから間違っていたら訂正してくれたまえ。私が見たルパンの予告状は本物だった。本物のルパンの予告状──夫妻は相当慌てたはずだ。だが悪知恵の働く良辺留氏は、ルパンよりも先の宝石を盗み出せば良い事に気づいたのさ。そこで夫人を通じてこの計画に君を巻き込んだと言う訳だ。君がどんな理由で夫妻に従ったのかは知らないし、興味も無い。君の役割は良辺留氏と二人きりになった時に、宝石をカメラに詰めて保持しておく事。そして睡眠薬入りの飲み物を二人で飲み、朝にはルパンに宝石を盗まれた状態で発見されるはずだった──」

 「そう! その通りだ! 凄いな、あんた!」

 殺人の濡れ衣が晴れそうだと判断したのか塁は興奮気味に賛同し、訊かれてもいない事を自ら進んで打ち明けた。

 「宝石をくれるって言ったんだ! 自分たちは保険金を得るからと──」

 塁の告白を聴いて、マジシャンは寂しげに微笑んだ。

 「ムッシュー、残念ながらそんな条件は有り得ないよ。なぜなら──」

 「だったらルパンに盗まれても同じ事だから」

 マジシャンの言葉を遮るように私が呟いた。

 「おっしゃる通りです、マドモアゼル」

 マジシャンが私に敬意を示すかのように一礼した。

 「それって──」

 「つまり殺されるはずだったのは良辺留氏ではなく、君だったということさ」

 塁が心に抱いた疑問の答えをマジシャンはあっさりと告げた。

 「でもそうなると檀氏殺害の犯人は──紗蘭さん?」

 私は自分が出した結論が恐ろしくなって身を震わせた。

 「そうは断定出来ません。ルパンだという可能性もあります。そもそも犯行に使われた凶器も見つかっていませんし、彼らが吸わされたガスの出処も判っていない。状況的に一人の女性だけでは無理な犯行ですよ」

 その言葉を聴いて、私はほっと胸を撫で下ろした。

 「じゃあ彼女と一緒にいても大丈夫ですか?」

 その問いに対してマジシャンは真正面から私の顔を見据えると、不気味なくらい満面の笑みを浮かべながら返答した。

 「やめておいた方が良いでしょうね。今夜から彼を拘束して貰いますから、彼の部屋で寝ると良いでしょう──ああ、決して事件と絡めて部屋を移る言い訳をしないように。警戒していると思われたら何が起きるか判りませんからね。部屋を移らざる得ない状況だと、上手く話を誘導するのです」

 マジシャンのアドバイスは複雑すぎて正直困惑していた。

 「何て言えばいいの?」

 「そうですね──」

 マジシャンは肩を落としている塁をチラッと見た。その頬が悪戯っぽく歪む。

 「彼氏が出来た、で察すると思いますよ」


 マジシャンの言う通り、紗蘭さんは私が別の部屋で寝る事を引き留めるどころか、むしろ歓迎してくれた。

 「私も明日は誰にも会いたくない気分だったの。ゴメンね、悪いけど一日部屋を貸してくれる?」

 願ったり叶ったりの展開となり、私は塁の部屋で夜を過ごした。たった一日で色んな事が有り過ぎた。紗蘭さんじゃないけど、私も明日は気が済むまで惰眠しよう──。

 そう心に誓って眠った翌日早朝、私は激しく扉をノックする音で起こされた。

 「またか──」

 うんざりしながら起き上り、ガウンを羽織る。

 「今度は何事ですか」

 そう言いながら扉を開けると、部屋の前にはマジシャンが立っていた。

 「船室に忘れ物をしましたよね? 行きましょう」

 先に立って歩き出すマジシャンの勢いに押され、何故か私も付いて行ってしまう。

 「いえ、別に忘れ物など何も無いですよ!」

 慌てて彼の言葉を否定したが、馬耳東風であった。

 紗蘭さんの部屋の前に着くと、マジシャンは黙ったまま身振りで私を促す。仕方なく私は扉越しに彼女へと呼び掛けた。

 「紗蘭さん! 真下です! 忘れ物があったから入りますよぅ」

 返事は無い。ゆっくりとドアノブを回してみたが、当然鍵が掛かっている。

 「船長でも呼んできますか?」

 まだ続けるのかと、皮肉混じりに彼へと問いかける。

 「必要ないですよ。こんな事もあろうかと合鍵を借りておきました」

 そう言いながら鍵穴へと手を伸ばすマジシャンの手元に目を遣ると、その指先に握られていたのは鍵ではなく、細長いピンであった。

 「ちょ、ちょっと!」

 神様! 目の前で未亡人の部屋へと不法侵入しようとしている男がいます。私はどうしたら良いのでしょう?

 カチャンと鍵の外れる音がした。

 「──慣れてますね」

 その一言が私の精一杯の抵抗であった。

 「マジシャンですから」

 私の嫌味に対して爽やかな笑みを返す男。厚顔無恥という四字熟語が私の脳裏をよぎる。

 「女性の部屋ですから私が先に入ります」

 そう宣言して、扉を開ける。

 次の瞬間、私はマジシャンに押し倒された。

 「何! 何! 何!」

 久しぶりに男性に押し倒されたのにも驚いたが、それよりも頭上を横切った猛烈な風圧に脅威を感じた。

 「参ったな、まさか日本でメリュジーヌに遭うとは」

 私の上に乗っかったままマジシャンが毒づいた。

 「メリージェーン?」

 私が彼の言葉を復唱するとあっさりと否定される。

 「かなり違います。メリュジーヌ。上半身は美女、下半身は蛇、背中に龍の翼を生やした怪物です!」

 マジシャンは体を起こすと部屋の真ん中に立つ〈紗蘭さんの顔をした物〉へと向き直った。

 「沐浴は水曜日だったと言う訳だ」

 彼は言葉を紡ぎながら、何処からかタンバリンのような金色の環を取り出した。

 「こんな私でも愛してくれると誓ったのに──彼は私を犯人に仕立てて殺そうとしたの」

 怪物は紗蘭さんの瞳から涙を流しながら訴えかけて来る。

 「なるほど。大量の麻酔ガスと聞いて疑問に思っていたのだ。人間相手にはそんな物は必要無いし、そもそも路世君はすでに眠っていたしね。大方こういう事だろう。睡眠薬を飲む振りをした御主人はあなたが来るのを待っていた。あなたは爆睡している真下さんの隣りのベッドから抜け出し、御主人と二人で協力して路世君を海にでも放り込むつもりだったのだろう。ところが御主人の企みは別で、あなたが室内に入った途端に部屋の中は麻酔ガスで満たされた。誤算だったのは、あなたにはそのガスは効かず、彼の企みが露呈してしまった事。あなたは怒りに任せて御主人を殺害し、何食わぬ顔で爆睡する真下さんの隣りのベッドへと戻ったと言う訳だ」

 へぇー、って一瞬は感心したけど、私の爆睡場面、二度も要る?

 「愛していたのよ、心から。でも人間は──必ず裏切る!」

 激しく翼をはためかせると室内を突風が吹き荒れる。舷窓が砕け、怪物はそこから外へと飛び出して行った。

 「想い出と共に沈めぇ!」

 怪物の叫びと共に船が大きく揺れた。どうやら蛇の尻尾を船体に打ちつけているようだ。

 船内のあちこちから阿鼻叫喚の叫びが聴こえて来る。

 「やれやれだ。怪物が僕を呼ぶのか、僕が怪物を惹き付けるのか──」

 マジシャンはブツブツと文句を言いながら金色の環を構えた。

 「変身!」

 次の瞬間、さっきまでマジシャンが立っていた場所に金色の亜人が立っていた。

 「ティラール!」

 亜人の呼び掛けを受けて、金色の環が変形し銃型の武器へと変わった。

 怪物が飛び出した舷窓に向けて武器を構える。怪物が近づいて来た瞬間、その翼の付け根を正確に撃ち抜いた!

 「ギャァオ!」

 逃げるように高く舞い上がった怪物は、すぐに片方の翼が羽ばたけない事を悟り、自由落下で船の甲板へと着地した。それを追うように部屋から亜人が飛び出して行く。よせばいいのに私も彼の後を追った。好奇心というか、使命感というか、良く解からない感情に突き動かれていたようだ。

 私が甲板へと出ると、すでに亜人は怪物と格闘を始めており、金色の環が今度は剣のように刃を光らせている。その刃が怪物の無傷だったもう片方の翼を切り裂いた。

 「グギャァ!」

 怪物は最後の力を振り絞るように亜人に向けて尻尾を叩きつけたが、彼はいとも容易くその攻撃を躱した。そして刃を紗蘭さんの顔の目前へと突きつける。

 「メリュジーヌは水の中で暮らせると聴いたことがある。本当かい?」

 紗蘭さんの顔をした怪物は黙って頷いた。

 「もう君に翼は無い。人としても生きていけない。だったら水妖として生きてみてはどうかね? 私は無駄な殺しをしたくはないのだ」

 「──彼が一緒なら」

 怪物の返答を亜人は微塵も迷う事無く、あっさりと受け入れた。

 「いいだろう」

 亜人がマントを振ると、その腕の中に檀氏の亡骸があった。

 「連れて行くがいい」

 差し出された遺体を受け取ると、怪物はそのまま海へと飛び込んだ。

 ──そして二度と浮かび上がる事はなかった。


 プロヴァンス号が沈没の危機を免れた事を知ると、乗員乗客は消えた遺体や、破壊された客室、姿を消した良辺留夫人に関して様々な憶測を述べ合った。

 そこでマジシャン──ゾルーク東条氏の提案により、帰港前に船長から正式な事件の報告が行われる事となった。

 「えーっ、今回の事件はルパンの名を語ったテロリストによる犯行だと判明しました。テロリストの目的は良辺留夫妻の殺害であり、宝石盗難はカモフラージュに過ぎなかった模様です。犯人は台湾から荷物に紛れて乗り込みました。そして最後は夫妻を巻き込んでの爆死、という事です。以上はテロリストが残した犯行声明によって判明した事実であります。なおこれらは他言無用の事実である事を念押ししておきます──」

 娯楽室に集まった乗客の前にて台本通りの〈事実〉を話し続ける船長から離れた所で、私は東条氏へと問いかけた。

 「宝石盗難事件が無くなったという事は、塁はどうなるの?」

 「どうもこうも釈放されますよ。容疑者Aは無実だったと言う事です」

 「そうよね。宝石も無くなっちゃったしね」

 私の何気ない一言を耳にした途端、東条氏の頬が微かに動いた。

 「あっ! もしかして盗ったでしょ! あなたひょっとすると──」

 私の言葉は東条氏の立てた人差し指に遮られた。

 「参ったな、あれは蟹丸警部じゃないか! 何もこんな事件に彼を寄越さなくてもいいのに」

 東条氏は近づいて来る岸壁へと集まっている警官隊を眺めながら独りごちた。

 「お知り合い?」

 「どうでしょう? 少なくとも〈ゾルーク東条〉の知り合いでは無いですがね」


 横浜港大さん橋国際客船ターミナルは乗客を出迎える家族と、群がる新聞記者、事件を検証しようとしている警察官たちで溢れかえっていた。

 岸壁にタラップが下ろされると、始めに警官隊が乗り込んで来た。警官たちは手際良く配置に着くと、タラップの手前で一人一人の乗客をチェックしながら下船を許可し始めた。

 「あなたと一緒にいたら捕まっちゃうのかしら?」

 私の疑問を東条氏は鼻で笑った。

 「それは大丈夫だと請け負いますが──これはまずいな」

 今、タラップには塁が立っていた。だがその挙動は明らかに不審だった。案の定、呼び止められて荷物検査へと回された。

 「大丈夫よね、宝石入りのカメラを持っている訳じゃあるまいし」

 話しかけながら振り向くと私の隣りから東条氏は居なくなっていた。彼は荷物検査を受けている塁の元へと向かっていたのだ。

 「おーい! 路世君! 降りる前に私のカメラを返してくれよ!」

 警官たちの間をすり抜けて、検査前のカメラバッグから見覚えのあるカメラを取り出す。

 「すみません、これ私のなんです。後で他の荷物と一緒に検査を受けますから持って行っていいですか?」

 検査担当の警官は塁の同意を得ると、持って行けとばかりに顎を突き出した。

 「有り難うございます!」

 カメラを片手に警官たちの輪から抜け出た東条氏であったが、その行く手は一人の私服刑事によって塞がれてしまった。おそらくこの人物が蟹丸警部なのだろう。

 「今そのカメラを調べさせていただいたら、後の検査は全て免除しますよ。いかがです? 私に渡して貰えませんかね」

 警部は朗らかに述べていたが、軽く微笑み合う二人の間に水面下で火花が散っているのが手に取るように解かった。

 「どうぞ、どうぞ! いつ調べて頂いても同じ事ですからね」

 東条氏はシルクハットを取りながら慇懃に御辞儀をすると、カメラを警部へと差し出した。警部は暫くあちこち開きながらカメラを弄っていたが、やがて諦めたように東条氏へ返した。

 「確かに何も問題ありません」

 「お手間をお掛け致しました。それでは私はこれで」

 再び御辞儀をして踵を返した東条氏へと蟹丸警部が呼び掛ける。

 「ああ、失礼ですがお名前をお伺いしても?」

 東条氏は大仰に振り返ると名乗りを上げた。

 「東条──ゾルーク東条です」

 「お会いできて良かった、東条さん──いや、アルティメット・ルパァーン!」

 警部の叫びに呼応するかのように、東条氏の周囲を警官隊が取り囲んだ。

 「事前に乗客乗員名簿は調べておいたのだよ、虱潰しにな。私が名前を問いかけた者がいたら、そいつがルパンだと指示してあったのだ。知ってるか、ルパン。ゾルーク東条は死んでいる。三年前に、マケドニアでな。そして彼は当時八十七歳だった!」

 勝ち誇ったように種明かしをする蟹丸警部。だが東条氏──いや、ルパンは何ら動じる事なく冗談めかしながら訴えかける。

 「おやおや、私が九十歳に見えないなんて驚きだ! もっと年寄りを敬いたまえよ」

 「ふん! そんな戯言を吐けるのも今日までだ! 連れて行け!」

 警部の指示でルパンは手錠を嵌められ、周囲を警官たちに囲まれながら船のタラップを降りて行った。私はそんな彼の姿を見て、思わず大声で呼び掛けてしまった。

 「東条さん!」

 私の声を聴いて顔を上げたルパンは微笑みながら言葉を紡いだ。

 「路世君に伝えてくれ! 真っ当に生きられないのは、辛い事だと──」

 

                                    おわり

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