第一章 Hello Fantasy World

アルティメットラスボス

 俺の周囲が一瞬で変化した。

 今までいた部屋から、俺は草原の上空に突然投げ出されたらしい。

「な、なんだっ」

 座っていた体勢のまま、ほぼ二メートルくらいの高さにいた。

 もちろん、俺に空中浮遊の特殊能力なんてない。

 あたりまえのように空中から落下するほかなかった。

 左足から地面に落下し、当然のようにしこたま身体を痛めつけられた。

 俺は痛すぎて声も出ないというのを初めて経験する。

 しばらくゴロゴロのたうち回っていたけど、少しだけ冷静さを取り戻してまずいことに気がついた。

 たぶん左足が折れている。地面に付いたとき、衝撃に耐えられなかったんだろう。

 左足のすねのところが変な形で曲がっていた。

「やばいっ」

 立ち上がれない。

 痛みも治まらない。

 周囲は草原で誰かがいるとは思えない。

「何だよ、これっ。どういうわけだよ」

 俺は涙目で、折れた左足をじっと見つめた。

 その瞬間、俺自身のプロパティが現れる。

 その属性情報の中に赤い部分があった。

『左足:骨折』

 俺のステータスの属性情報だった。そこは淡色表示ではなく、赤い表示だった。

 俺はひょっとしたらと思って、その部分を『正常』に変えてみる。変更できた。

 そして効果は劇的だった。

 あっという間に痛みが治まり、立てるようになった。

「すげえ。そっか、ステータス属性は悪くするためじゃなくて、治療に使えるんだな」

 足を触ってみたけど、完全に治っているようだった。

 どんな病気でも回復できるんだろうか。

 だとしたら、ブラックジャックを超える最強に近い医者になれそうだ。

「でも、一体ここはどこなんだ?」

 周囲を見渡してみたけど、草原しかない。

 いったい何が起きたんだろう。


 俺はぼーっと空を眺めてそんなことを考えていた。

 メニューが現れる。

『Hello Fantasy World - World Integrated Develop Environment(WIDE)』

 そう書かれていた。

 何かおかしい。前と何か違う気がする。

「何がおかしいんだ?」

 俺はしばらく考えて気がついた。

 Hello Fantasy World?

「ファンタジー? ファンタジーって書かれてるぞ!」

 前は確か――。

 必死に思い出そうとする。

 そうだ。たしかリアルワールドだったはずだ。

 リアルワールドからファンタジーワールドに変わった?

 突然なんで?

 そう考えて、直前に何をやったか必死に思い出そうとした。

 たしか、メニューのファイルの部分を見て――。

 あっ!

 分かった。

 分かってしまった。

 分かりすぎてしまった。

 WIDEという統合環境の基本ファイル。

 その名前がReal Worldとなっていた。

 俺は他にファイルがないか探して、同じ場所に一つだけあったんだ。

 それが確かFantasy Worldというファイルだ。

 それを開いてしまった気がする。

 ヤバイ。

 このファイルって、世界そのものの構成を規定しているらしい。

 慌てて、俺がファイルを元に戻そうと試みる。

 だけど――。

 ――いや、まてよ。

 俺はちょっとだけ考えてみた。

 元の世界は間違いなくクソゲーだ。

 そこに戻る前に、この世界がどんな世界か体験してもいいんじゃないか?

 だって、ファンタジーだ。

 魔法や、猫耳を持った女の子とかが存在してもおかしくはないはず。いや、絶対に居るはずだ。

 確かバイトの日程はこちらから連絡することになっていた。

 数日くらい不在でも問題ないだろう。

 そう考えた俺は、この世界のことを少しは楽しんでみてもいいんじゃないかと思った。

 その時の俺は、この世界に来たことをちょっとした旅行気分で考えていた。

 だけど、今俺が置かれた状況は、実際にはそんなに甘いものじゃなかったんだ。

 つまり、それは世界に対する責任、みたいなものだ。


 ドラゴンは空想上の生物だ。

 生物学的には存在するはずもない。

 ただその設定は、一言で言い表せる。

 最強。そして無敵。大抵はボス扱いで、ラスボスの場合も普通にある。

 亜種も多数存在するが、そのいずれも同様に強力だ。

 もしドラゴンを倒せる人間がいれば、それはドラゴンスレイヤーと呼ばれ、最強の英雄として欲しいままの栄光が得られるだろう。

 ファンタジーの定番だ。

 故に、ファンタシーワールドでは、空想上の生物ではない。

 それに早く気付くべきだった。


 地に響くような低い音が遠くからやって来る。

 黒い色の点が遠くに現れ、そしてあっという間にこちらに接近してきた。

 近づいてくると、そのサイズは信じられないほど大きいことに気付いた。

 確か、プロパティが見えるのは一キロ程だったはずだ。

 この距離からでも明らかに視認可能な大きさを持っている。

 全長は軽く十メートルを超えるたろう。

 じっと見つめていると、プロパティが現れた。

 全長は二五メートルだった。

 タイプを見る。

『エンシェントドラゴン』

 そう書かれていた。

 ファンタジーで、最初に出会う奴がドラゴン?

 それも、レッドとか、ブラックとかの色つきのドラゴンじゃなくて、色の関係ない万色にして無色とか言われる類いの伝説的な存在のエンシェントドラゴンだ。俺だってそのくらい知ってる。

「これ、無理ゲーじゃないの?」

 現実がクソゲーとかいったけど、ファンタジーは無理ゲーだったりするの?

 クソゲーでないとしても、無理ゲーだったら意味がない。

 他の属性情報を慌てて確認する。

 生命力が、三万二千七百六十七という数字を見て呟くしかない。

「はいはい。符号付き十六ビットの上限数値ってことは、最強の生物ってことですよね?」

 俺はため息をついた。

 念のため、他の属性を見てみる。

 攻撃力、防御力、魔法防御力、敏捷性、魔法攻撃力、その他諸々の数値が全部一緒だった。

 つまり、符号付き十六ビットで普通使える上限の数字だ。

 三二七六七。

「こいつ、 ラスボスじゃん。どんな攻撃だって通用しないよ。絶対イベントキャラだろ? しかも負けイベント確定だよ」

 数値が一六ビットの上限なんだから、こいつ以上の攻撃力も、防御力もあり得ない。

 俺はそう思って、自分のプロパティの数字を見てみた。

 俺の生命力は、なんと十六だった。

 アルティメットラスボス相手にまったく話になりそうもない。

 だけど、その瞬間気がついた。

 前の世界だったら淡色表示されていた属性項目が、軒並み青い表示になっている。

「え? この世界だとプロパティが書き換えられるの?」

 現実感がないまま、伝説のドラゴンが大きくなってくる姿を見つめる。

 属性が書き換えられるなら、このドラゴンと同じ数字までは上げられるかも知れない。

 ただ、そんなことをしても、元々の能力が種族毎に異なる可能性が高い。その場合、エンシェントドラゴンは、どんな事をしても人間には勝てない存在であると認識できるだけだろう。

 というか、物理属性だけ同じにしても、まったく勝てる気がしない。

 魔法やら特殊攻撃やら、一撃必殺の攻撃手段がなければ無理筋だろう。

「いや、まてよ?」

 ――本当に三二七六七が上限か?

 マイナスがあり得ない属性値のパラメータで、わざわざ符号付きの十六ビットを設定するだろうか。

 整数の値だから、何も考えずに普通使う符号付き十六ビットの変数のことを考えたけど、生命力や攻撃力にマイナスなんて使わない気がする。アンデットとか考えるにしたって、単に数値にマイナスを入れると色々面倒な問題が起きそうだ。少なくとも俺だったら、そんなことはしない。

 そう思って、自分の生命力に六万五千五百三十五という数字を入れてみる。

 六五五三五は、符号無しunsigned十六ビットの上限の整数だ。

 生命力にマイナスがないのであれば、その分大きい数字が使えるはずだ。

 次の瞬間、なんと俺の生命力が六万五千五百三十五に書き換えられていた。

「おっ、出来るじゃん。生命力は実際は符号無しunsignedのパラメーターだったのか?」

 だが、本当にそうだろうか。

 俺はさらに考えてみる。

 もし開発環境が俺が使ったものと同じだったら、整数値のバイト数は二バイトか四バイトだ。二バイトは十六ビット。だけど、四バイトなら三十二ビットだ。

 本当に属性値は十六ビット限定か?

 今時のソフトウェア環境は三十二ビットが普通で、場合によっては六十四ビットだ。

 ――OSを見れば、どこもかしこも六十四ビットが花盛りだしな。

 さすがに整数で八バイト、つまり六十四ビットを使うというのは開発環境で見たことはない。

 普通、整数を変数として使う場合に、わざわざ符号無しの設定unsignedなんて使わない。

 考えてみれは、俺自身も符号無しの整数なんて使ったことはなかった。

 つまり、最初に符号付き二バイトで数値を使っていて、ギリギリ数字が足りない場合で、かつ、利用バイト数を増やしたくないような場合。そういう場合は、バイト数が同じで符号無しに変えるという行為はあり得る。

 だけど、普通はそんな綱渡りなんてしない。上限の数値を上げるときに一番よく使うのは、元々の数値のバイト数を単純に拡大する行為だ。

 もし開発環境が俺が使ったものと同じだったら、整数値のバイト数は二バイトか四バイトだ。二バイトは十六ビット。だけど、四バイトなら三十二ビットだ。

 つまり、生命力を符号付きのまま十六ビットから三十二ビットに増やした設定をする。

 これがプログラム開発するのであればあたりまえの行動だろう。

 ――なのに、俺の生命力に六五五三五という数字が入れられたのはなんでだ?

 あのエンシェントドラゴンは、恐らく二バイトの属性値だったときに設定されたままだったので、三二七六七という数値になった可能性がある。

 そうでなければ、六五五三五が最大の数字なのに、三二七六七なんて中途半端な数字をエンシェントドラゴンに与えたりした理由がない。

 つまり、それは――。

 その確証を得るために、俺はもう一度変更してみることにした。

 つまり六五五三五から、符号付き三二ビットの上限値に俺の生命力を変更するのだ。

 だが、俺のその試みは出来なかった。

 先ほど生命力を変更した直後に、そのパラメーターは淡色表示に変わっていたんだ。

 そして、その部分を眺めていると、『アクティブなオブジェクトのプロパティは、それぞれ一日に一度しか変更できません』と表示されてきた。

 なんと、プロパティは一日に変更できるのは一度だけらしい。

 ただ、他の属性はまだ青い表示だから、属性毎にそれぞれ一回ずつなんだろう。

 そんなことを俺がやっているうちに、そろそろと運命の時が近づいてきていた。

 俺が気配に気付いて顔を上げると、恐ろしいドラゴンが火を吐くところだった。

 俺は恐怖に声を上げる前に、炎に包まれていた。

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