結晶樹の街のエデンズフィールド
広咲瞑
1.怜和二年の夏
1-1.ピエトロ氏の招待状
夏至をわずかに過ぎた時期だった。夕方六時の
俺――大月高校一年の
硬度1.5ってとこか、小学生にしてはなかなかやるな――などと思いながら、暮れてゆく空を見上げる。都心の方向、対岸に見えるビル街の向こうには、夏の始まりを告げるような積乱雲が沸き立っている。かすんで見える東都スカイツリーの表面の、あちこちに取り付いて蔦を這わせた結晶樹が、空に向かって無数の枝を伸ばしている。それらの景色のすべてが夕焼けに染まり、
手に取ることはできない。だがそうだとしても、俺は――。
沈みゆく夕陽に向けて左手を伸ばす。指と指の隙間をすり抜ける眩しい光に、喉から湧き上がる吐き気を堪えながら、ゆっくりと拳を握り込む……。
「見ーちゃった」
斜め後ろから声がした。
慌てて振り返る。ベンチを挟んだ反対側に妙な男が立っている。年齢は三十路手前だろうか。肩まではわずかに届かない程度のやや長い髪にはゆるいパーマがかかっている。ワインレッドを基調にした派手なストライプのスーツ、頭には同系色のシルクハット。インナーのドレスシャツはツートンカラーのダイヤ柄、ネクタイはダークブルー。
そして極めつけに、上に羽織った純白の
何のコスプレだこいつはと俺は思う。
「いやいや……アナタ、それはちょっとないですよ……」
怪しい輩を見る目を向けていると、男がヒクヒクと癇に障る笑い方をしながら近付いてきた。
「意味深なモノローグをつぶやきながら太陽に手を伸ばす人なんて、
「やってねえよ」
なぜそれを、と言いかけたのを社会性フィルターに通して凌いだ。
「『だがそうだとしても、俺は――』」
「おいやめろ」
沈む夕陽に向けて左手を伸ばす男を全力で止める。客観的に見るとこんなに痛かったのか……。正直カッコいいつもりでいたわ……。そんな自分にゾッとなるわ……。
俺はどうにか冷静さを取り戻し、尋ねる。
「つか、あんた誰だよ」
「失礼。ワタクシ、こういうものです」
男はすぐさま態度を切り替えてきた。如才なく差し出された名刺にはこうある。ピエトロ・ドーケン、有限会社エデンズフィールド運営代行。会社の住所と、電話番号と、二次元コードが印刷されている。
名刺とピエトロ氏の顔を見比べた。明らかに日本人、そうでなくてもせいぜい東南アジア系の顔立ちで、偽名としか思えなかった。
「どこの詐欺師だよ。偽物の名刺なんて使ったら、偽造文書行使で引っ張られるぜ」
「オヤ、これは手厳しい」
ピエトロ氏は気分を害した様子もない。
「ワタクシはね、アナタのような方を探しているのです」
「はあ」
「そうですね――アナタ、こんなふうに思ったことはありませんか?」
ピエトロ氏は話し始めた。ベンチを回り込み、俺を囲い込むように、教師を演じる舞台役者めいた動作でゆっくりと、円を描いて歩きながら。
「昨日と同じような今日。退屈な日々。代わり映えのない人間関係、本音を話せないクラスメイト、友情という名のオブラートに包んで飲み下した苦く不快な感情の数々。ご立派に仕立てた保身と惰性の衣を纏ってご満悦な教師連中、社交性の仮面の裏に醜悪な欲望を隠す大人共……」
正面に立ったピエトロ氏の目が、逆さまの三日月のように歪んで、俺をのぞき込んでくる。
「出口のない迷路のような、ゴールの見えないマラソンのような、閉塞した/息苦しい/くだらない社会――この世界にどんな意味がある? 明日消えてなくなっても、何一つ困らないのでは?」
「いや困るだろ」何言ってんだこいつは。
「本当に?」
驚くべきことにピエトロ氏は念を押してきた。メンタル鋼か? 突っぱねれば多少なりと動揺すると思っていたのに。
ほんのわずかな一瞬、返答に詰まったのは――返すべき言葉の選択に手間取っただけだ。
「……当たり前だ」
「なるほど。では先ほどの戯言は、ワタクシの私怨、とさせていただきましょう」
ピエトロ氏は俺に背を向け、架空の客席へと語りかけるような振る舞いで言葉を続ける。ああ、こいつはヤバい、本気の奴だ――逃げ出すべきと思ったが、立ち去るタイミングがつかめない。
「ワタクシもこの世界に責任ある大人の一人として思うわけです。こんな時間にこんな場所で黄昏れている若者を見ているのは忍びない。夭逝した著名な作家に曰く、『人生は何事も為さぬにはあまりにも長い』、故にわれわれ人間は皆、生き甲斐を見つけなくてはなりません。それは人それぞれ違うものです、例えばスポーツであったり、勉学であったり、恋であったり」
言葉を切り、
「――あるいは、《ゲーム》であったり」
「……」
「ひとつネタバレをご容赦くださいな。《エデンズフィールド》とは、ワタクシどもの携わる《ゲーム》のタイトルです」
ピエトロ氏が再び近付いてくる。少女漫画のように長い指が、俺の手元の名刺を差した。
「すべてはその、QRコー……ではなくて、二次元コードの中にあります」
「なんでわざわざ言い直すんだ」
「商標権侵害で引っ張られるのはごめんですから」
皮肉めいた言い方でピエトロ氏は言う。
「ついでに言いますと、その名刺に文書偽造罪は適用されませんよ。ちゃんとした本物ですので。それに」
左手をピストルの形に伸ばして、ぴっ、と俺を指差してきた。
「仮に偽物であったとしても、アナタには何一つ実害がありませんから――ねえ、苑麻真一郎君?」
は?
と思った瞬間、強い風が吹きつけた。砂と零結晶の欠片が目に飛び込んでくる。両腕で顔をかばい、やがて風の止んだときには、ピエトロ氏の姿はかき消えていた。
いつの間にか辺りからは小学生の姿もなくなっていた。
手元に目を落とす。
幻でなかった証に、渡された名刺が残っている。
……手の込んだ詐欺に巻き込まれつつある。
騙されるな、関わるな、可及的速やかに全て忘れるべきだ――俺は自分に言い聞かせる。
だが、その一方で、気分が高揚しているのも確かだった。
困ったことに、一連の出来事が俺の何かに嵌ったらしい。
「いやいや、三十路で厨二とか完全にヤバい奴だろ……」
わざわざ口に出した言葉は、思った以上に震えていた。
これから、何か特別なことが始まる――
そんなひどく陳腐な、それでいて理性では押さえられないこれからへの期待で、ざわつく心を抑え込むのは、どうも難しいようだった。
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