第9話

「はい、コレ、受け取ってください」

「なんだ?」

 朝食のルームサービスは、モーニングコールからきっかり三十分後に運ばれてきた。二人でイチャイチャとシャワーを浴びた後、室内用のガウンを羽織った二人は、朝日の挿し込むリビングで優雅な朝食をとっていた。

 トースト、バターロール、目玉焼き、ウインナー、ハムとポテトのサラダ、オニオングラタンスープ。それらを食べ、食後のコーヒーを楽しんでいた沙也加に、琢磨は手品のように取り出した封筒を差し出した。

 沙也加は一瞬、それが何か、素で分からなかった。

「十万円。約束のバイト代ですよ」

「ん? あ、ああ、そうだな……」

 この瞬間、沙也加の心に、とんでもない寂寥感が訪れた。それは、さっき琢磨を起こした時とは比べ物にならないほどの強さであった。

 ――終わり? 終わりってなんだっけ?

 朝日は色褪せ、世界が色彩を失っていく。コーヒーの香りが、どこか遠いもののように逃げていく。

 喪失感と言ってもいいその感覚は、祭りの後の夜に感じるものよりも、はるかに深く重く感じられた。

「とても良かったです、先輩」

 ――『先輩』……ああ、そうか、そうだよな。これは、一晩限りのアルバイトだったんだよな……。

 琢磨の差し出している封筒を凝視しながら、沙也加は硬直していた。

「……先輩? どうしました? もしかして、金額が不満だとか……」

「え? いやいや! 全然! そんなことは無いぞ!」

「でも、夕べは……っていうか、さっきまで、先輩の方が楽しそうな感じで、途中から少し悪いかなって思ってたんですけど……」

 楽しんでいたと言われて、沙也加は自分の顔が一気に赤くなるのを感じた。

 男の上に乗って腰を振り、男のモノを愛おしそうに咥え込む。舌を絡ませるキスを楽しみ、イチャイチャと汗ばんだ肌を合わせる。昨夜の沙也加の媚態は、これまで彼女が経験してきたセックスとは完全に別ものであった。そして、それを沙也加自身も愉しんでいたのだ。

 十万円の事も忘れ、一夜限りの情交ということも気にせず、沙也加は琢磨とのセックスを心身ともに満喫した。今の沙也加の心境では、むしろ自分の方がお金を払ってもいいくらいである。

 だがそれ以上に、沙也加は琢磨に『男』を感じていた。差し出された封筒を払いのけ、年下のイイ男に自らキスをしたくなる。

 だが。

 一晩だけ。

 これっきり。

 胸の針がどんどん大きくなってくる。

 沙也加の胸の寂寥感は、黒い帳となって心を覆いつくそうとしていた。

「先輩?」

 再度かけられた声に、沙也加の身体はビクリと震えた。そして、動揺を悟られないように、琢磨へ顔を向ける。

 もしかしたら、琢磨の方も自分と同じ寂しさを覚えているのかもしれない。一晩限りの関係で終わらせたくないと思っているのかもしれない。

 そんな思いを込めて、沙也加は琢磨の目を見た。

「……!」

 ――それは、ダメ! 琢磨はダメだ!

 そして、大きく息を吸い込み、沙也加は琢磨の手にある封筒を当然のように受け取った。

「では、遠慮なくもらおう。そんなに満足してもらえたんなら、頑張った甲斐があったというものだ」

「よかった」

「まあ、ただ、もらい過ぎという気がするのも確かだ。こんな部屋に泊まるなんて、この先も無いだろうからな。だから、まあその……、お前が良ければ、なんだが……」

「先輩?」

 滅多にないことだが、沙也加は言葉を飲み込んで言い淀んだ。会社では普段、沙也加は自分の思うところはハッキリと言い、そして相手にも言わせる。それがあるから、沙也加は上からも下からも仕事相手からも信頼されているのだ。

 だから、琢磨が不思議そうな目でこちらを見ているのも無理は無かった。昨夜の媚態とはまた別の、いつもとは違う沙也加を、封筒を渡した後輩が見つめている。

「あー、その……、お釣りというか、なんというか、たまになら付き合ってもいいぞ。食事だけじゃなくって、その後も、だな……」

 何に? とはあえて言わなかった。言えなかった。

「……それって、愛人、みたいなものですかね?」

 そこで沙也加は、再び大きく息を吸い込んだ。そして、自分の中にわだかまる曖昧で不思議な心地良い感覚を吐き出す。

 ――愛人……、愛人か……。まあ、その方が良いのかもな。愛人なら、気兼ねなく琢磨と……。

 もしも恋人と言ってくれたら、沙也加は素直に琢磨を受け入れただろうか。答えは「いいえ」である。今の沙也加には、特定の男性を受け入れられない理由がある。男をとっかえひっかえしている理由があるのだ。

 この年下の後輩にはとても言えないが。

「そうだな。お前の好きな時に私を求めろ。いつでも構わん」

 コーヒーに口を付けながら、沙也加は鷹揚に許可を与えた。いつでも身体を使って良いという許可を。

「……いつでも、ですか?」

「ぶっ! 分かってると思うがな、常識の範囲でだぞ!」

「分かってますよ。でも、それっていつまでです?」

 そう言って、琢磨はコーヒーに口を付けた。

「あー、そうだな。私が満足したらで構わん。正直、このバイト代よりずっともらい過ぎと思っているのは確かだ。この部屋だけじゃなくって、まあ、私も昨夜は愉しませてもらったしな」

 十万円の入った封筒を振りながら、沙也加はなんでもないことのように、後輩と愛人契約を結んだ。

 これで、琢磨とは一晩限りの関係ではなくなる。

 これからも、琢磨と肌を合わせる関係になる。

 目の前の後輩に惹かれている自分を心の奥底に仕舞って、沙也加は後輩に淫らな作り笑顔を返した。


   *


 休み明け、沙也加も琢磨も普通に出社した。

 特に目を合わせるでもなく、話をするでもない。これまでと変わらない、接点の無い一日が過ぎようとしていた。

 同じ課に所属しているとはいえ、二人の担当は別である、業務内容以外の会話はほとんどしたことが無く、むしろ言葉を交わさない日の方が多い。

 琢磨と愛人関係になったとはいえ、沙也加の立場としてはただ待つだけである。気にならない訳ではないが、こちらから積極的にアプローチするつもりもない。もともと一日限りのレンタル彼女であったのだ。こちらから愛人契約みたいことを言い出したものの、琢磨の方から誘ってこなければ、自然消滅しても構わないとも思っていた。

 しかし、そんな沙也加の思いなどまるで気にもかけず、不躾な視線を送り続けている後輩がいた。

 遠山千佳である。

 仕掛けの張本人であるだけに、結果が気になるのは仕方がない。だが、琢磨との関係を素直に話すわけもいかないし、するつもりもない。だから、朝から送られてくる興味津々な視線を、沙也加はのらりくらりと交わしていた。千佳の方も視線を送ってくるだけで、直接訊ねてはこなかった。

 琢磨とも、千佳とも、一言も話すことなく一日が過ぎようとしていた。

 このまましらばっくれようと考えていた沙也加であったが、終業時間も間際になって、結局は沙也加の方がまとわりつく視線に耐え切れなくなってしまった。

 ノロノロと白々しく帰宅の準備をしている千佳にツカツカと歩み寄ると、沙也加は不機嫌さを隠そうともせずに言い放つ。

「飲みに行くぞ」

「待ってました♪」


「で、どうでした? 琢磨クンとのデート」

「まあまあ楽しめたな」

 いつものバーに入った二人は、これまたいつもと同じカクテルを前にしていた。沙也加はドライマティーニ。千佳はカシスオレンジである。

 仕事のグチやテレビの話題など、他愛のない話をしていたが、差し出されたカクテルに口を付けた千佳は、早速といった感じで訊いてきた。

「へえ、あれがアリなんですか?」

「やっぱりお前か。少女マンガ的な趣味がとんでもなかったぞ」

「少女マンガ? あたしはコーディネートと、琢磨クンに聞かれたから、センパイの好きな花とかを教えただけですよ? いきなりプロポーズでもされたんですか?」

「ぶっ! そんなワケあるか! 初めての……っていうか一日限りのデートだったんだぞ?!」

 ――好きな花だけ? ってことは、あれは遠山の仕込みじゃないのか……?

「ふーん。少女マンガが何か分かりませんけど、あたしが聞きたかったのは、琢磨クンの見た目ですよ。コーディネートしろって言ったのはセンパイじゃないですか。けっこう普通の見た目になってたと思いません? すっごくフツーだったでしょ?」

「ふ、普通?」

「そうですよ」

「普通……。そうだな、うん、普通だったな……」

「でもー、見た目は超フツーになったんですけど、人間、中身まではそうそう変わりませんからね。童貞坊やのお守りは大変だったんじゃないですか?」

「ああ、確かに、大変な目には遭ったな……」

「で、どうでした?」

「何がだ?」

「センパーイ、とぼけないで下さいよ。童貞ですよドーテー」

 二人が居るのは、雰囲気の良いショットバーである。飲み会の後など、沙也加は帰りの方向が同じ千佳と、この店で時折飲み直したりしている。

 マスターも女性ということもあってか、セクシャルな話を千佳はあけすけに普通の声でしたりする。

「まあ、卒業させてやったよ」

「マジっすかー。センパイすごいですねー」

「な、なにがだ?」

「見た目がフツーとはいえ、あの琢磨クンですよ? なーんかセックスの時もマグロみたいになって『お、お願いします』とかいうんじゃないかと思ってたんですよ」

「いや、そんなことは、無かったが……」

 沙也加はイラついていた。

 千佳はなぜ、こんな話をするのだろう。結果が気になっているのなら、普通に聞けばいいのにそうしない。

 見たわけでもないのに、見てきたかのように同僚を小馬鹿にする。

 普通に聞いてくれば、せいぜい渋々といった表情を作って琢磨の童貞を卒業させてあげた、という話で終わるはずなのに。

 小さくなっていた胸の針が、沙也加の胸の奥でチクリとした。

「焚きつけたあたしが言うのもなんなんですけどー、セックスの時も無言のままでいそうな男とするなんて、ちょおっと無理かなー」

「いや、お前には彼女がいるじゃないか……」

「まあこれで、琢磨クンもメデたく童貞卒業かー。でも、彼女とかは出来そうにないから、風俗とかにハマっちゃったりして……」

 その瞬間、沙也加のこめかみで何かが切れた。

 カウンターに平手を叩きつけ、立ち上がって千佳を睨みつける。

 そして、感情のままに怒鳴りつけた。

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