第4話

「……」

「……」

 二人の間に不自然な沈黙が流れた。俗に言う、天使が通っているという状態である。

 それまでは自身満々な風で沙也加をエスコートしていた琢磨であったが、予想外といった表情をしている。

 だが、予想外なのは沙也加も同じであった。食事を楽しみつつ、次にどんなサプライズを用意してくれているのか、結構、楽しみになっていたのだ。

 十を数えるほどの時間、気まずい沈黙が流れた。だが、お互いに相手を見つめ合ったままの沈黙を先に破ったのは、この不自然な雰囲気に耐えきれなくなった琢磨であった。窓の外に目を逸らし、申し訳なさそうな声を出す。

「すみません、ボクが用意したのはここまでです。この後は、その……、お願いしようかと……」

「……はい?」

 つまり、次の行き先はベッドルームということである。

 沙也加は思わず腕時計に目をやった。昼の一時過ぎ。窓の外に目をやれば、陽の光に照らされたビルの林が目に入る。空は青く、太陽はほとんど天頂にあり、夜の気配は微塵も感じられない。

「先輩と恋人でいられるのは一日だけなんで、だから、最初に目一杯楽しんでもらって、あとはもう、ずっと、えと……ベッドルームで……」

「つまり、この後はずっとセックスばっかりということか?」

「ダメ……、ですか?」

 今日一日のデートと言ったが、具体的に何時まで、という話はしていなかった。仮に二十四時間とすると、デートは明日の昼頃までとなる。実際はこの部屋のチェックアウトがあるだろうから、十時までであろう。となると、残りは二十時間以上……。

「ふ……、ふふ……。はははっ、あはははははっ!」

 沙也加の口から、おかしな笑い声が漏れ出した。

「お前、そんなにセックスがしたかったんなら、なんで今まで童貞だったんだ。こんな部屋を用意できるくらいだ。私じゃなくても、いくらでも誘えるだろうに。人付き合いが苦手と言っても、私とはこんなに楽しく喋れるんだ。今みたいな恰好をして、真面目に口説けば恋人の一人や二人は出来たんじゃないか?」

「別に、ボクは女性に興味が無い訳じゃないんですけど、積極的に特定の女性と仲良くなろうとは思ってなかったんですよ」

「一人が好き……。さっきも言っていたな。今話題の草食系男子ってやつか」

「たしかに、遠山さんにけしかけられたというのもあります。でも……、身近にいる特定の女性って考えた時、ボクは沙也加さんが思い浮かんだんです」

 後輩の目は、沙也加の目を捉えて離さない。沙也加は真っ直ぐに自分を見つめる琢磨から目が逸らせなかった。

「それから想像してみました。沙也加さんと手を繋ぐ。沙也加さんと一緒に歩く。沙也加さんと食事をする。沙也加さんを抱き締める。沙也加さんと……、その……、キスをする。それから……、えと……、その先も……」

 沙也加は自分の顔がどんどん熱くなってくるのを感じていた。恐らく、耳まで真っ赤になっているだろう。そんな状態になっても、視線は後輩から離せない。

「一日だけとはいえ、ボクが恋人になって欲しいって思ったのは、沙也加さんだけなんです」

 ――こ、こいつは……。自分が何を言ってるのか分かっているのか? っていうか、これって真面目に口説かれてる?

 『私には、あなただけ』

 レンタル彼女どころじゃない、完璧な口説き文句に、沙也加の心は激しく震えた。

 沙也加はこれまで、男性からの告白を何度も受けたが、ここまで悦びの感情が沸き立ってきたことはなかった。意中の男性から告白を受けた初心な少女のように、沙也加の心が情熱的な感情に満たされてくる。

 だが……。

 ――痛い。

 頬を染める嬉しさとは裏腹に、沙也加の心には一つのトゲが刺さっていた。しかし、それを無視して、沙也加は目の前の男を見つめ続ける。そして、沙也加は答えた。

「……分かった。今日は一日中、寝る間も惜しんで愛し合おう」

 そう言って席を立った沙也加は、琢磨の手を取って立ち上がらせた。そして年下の初心な後輩の首に腕を絡めると、自分の方から唇を重ね合わせた。

「ん……」

「……」

 心が沸き立ってくる。身体が軽い。キスなどこれまで何度もしたことがあるはずなのに、初めての感覚が沙也加を満たしてくる。喉元にせりあがる甘くて蕩けた何かが、沙也加の口元からとめどなく溢れ出てくる。

 例えようもなく甘い、甘いキス。

 唇を重ねた沙也加は、より深く琢磨を求めて軽く口を開いた。だが、相手から舌が挿し込まれてくる気配はない。

 ――キスも、初めてなのか?

 唇を離した沙也加は琢磨の首に噛り付くように抱き着くと、後輩の耳元で甘やかに囁いた。

「キスはね……、唇だけじゃない……。舌と舌も絡ませるんだ。そして、相手の口の中も犯すといい」

 『犯すといい』という部分を、特に艶めいた口調で沙也加は囁いた。それはまるで、琢磨の耳に媚薬を注ぎ込むようなものであった。甘く蕩けるような、言葉の媚薬。

「こう……、ですか?」

「んん……」

 今度は琢磨の方から唇を重ねてきた。沙也加の腰に手を回し、覆いかぶさるようにして先輩の唇に吸い付く。そして沙也加に言われたように、唇を薄く開いて舌を差し出した。

「んん……!」

 沙也加の口内を犯そうと舌を挿し込んだ琢磨の舌は、しかし、思わぬ反撃に迎えられた。

 舌先が挿し込まれたところで沙也加は逆に舌を突き出し、琢磨の舌を自分のそれで絡めとってきたのだ。それ自体がまるで別の生き物のように、後輩の舌に絡みつく。そして舌先をさらに挿し込み、琢磨の口内へと侵入した。同時に、首に絡めた腕に力を込め、身体を琢磨に押し付けるようにして抱き締める。

「ん、んん! ふ……、む……」

 『口の中も犯す』という言葉通り、沙也加は唇を押し付け、琢磨の口の中を思うままに舌で犯した。味わうように、舐め回すように舌を絡め、突き、そして後輩の舌を吸い出すようにして自分の口内へ導き入れる。

「ん……は……」

「はっ、はあっ、はっ……」

「どうだ? もしかして、ファーストキスかな?」

「ええ……。キスが……、こんなに気持ちいいモノなんて思いませんでした……」

「ふふ、そうか。初めてか……」

 沙也加の心が、さらに浮き立つような感じがした。

「それじゃあ、お前の初めては、全部私が貰えるんだな」

 少し悪そうな笑顔で、沙也加は長身の琢磨を見上げた。

「はい……。全部沙也加さんに上げます」

「ふ……、くっくっくっ」

「先輩?」

「いや、普通はこういう事を言うのは男女が逆だと思ってな」

「……じゃあ、ちょっと男らしいことをしてもいいですか?」

「なに? うわっ!」

 琢磨は沙也加の脇と膝の裏に腕を入れると、無造作に年上の美女を抱え上げた。

「お、お前……、意外と力があるんだな……」

「ん? いやいや、沙也加さんが軽いんですよ」

「……!」

 軽いと言われて悪い気のしない女はいない。ましてや、お姫様抱っこをされてベッドへ連れていかれるなど、普通ではなかなか感じることの出来ない嬉しさが込み上げてくる。

 沙也加を抱き上げた琢磨は、リビングを後にしてベッドルームへと入った。

「広っ……」

 リビングもホテルの一室というには常識外の広さであったが、ベッドルームも桁外れの広さであった。部屋の真ん中にはキングサイズのベッドが一つ。その向こうの窓際には、そこだけでリビングと言えるような、ゆったりとしたソファセットがある。壁の一角にはグラスやデキャンタが収められたチェストがあり、値段を調べる気にもならない高級酒の瓶がならんでいた。

 そして、床の一面には、リビングと同様に真っ赤なバラの花びらがちりばめられていた。むせかえるようなバラの香りがリビングよりも強いのは、リビングと違って、バラの花そのものも部屋の隅にうずたかく積み上げられているからである。

「バラの花をちりばめて、シルクのベッドで朝まで愛し合おう、なんて曲が昔あったな……」

「沙也加さん、アニメなんて観るんですか?」

「……は? いやいや、昔、昔の話だ」

「そうですよね。アレ、結構前のヤツですもん」

「お前は観るのか?」

「ええ、割と好きですよ」

「そ、そうか……」

 ――むぅ、どうしよう。共通の話題が見つかってしまったが……、でも、私のイメージには合わないしな……。黙っておこう。

 浮き立つ心を抑えて、沙也加は琢磨の腕からベッドに降りた。その隣に後輩は腰を下ろしたのだが、そのまま固まってしまい、動く気配がない。

 ――ああ、初めてなんだよな。私がリードしてあげないと……。

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