第3話

「ひゃ……ひゃく……。お前、どこにそんな金があるんだ?」

 沙也加はいきなり足を止めた。琢磨に絡ませていた腕がスルリと抜ける。

「……内緒です。まあ、宝くじにでも当たったことにしてください。さ、この奥の部屋ですよ」

 琢磨が案内したのは、このホテルの最上階にして角部屋のスイートルームであった。恐らく、このホテルで一番いい部屋だ。

「一泊で、百五万……」

 これまで彼女をホテルに誘った男は数多くいたが、ここまでの部屋を用意した男はいなかった。いや、それを言うなら、使い道は別にしても一日のデートに十万も用意するような男もいなかった。

 ――コイツ……、もしかしてかなりの金持ち?

 自分自身の収入を考えると、後輩の財布の中身も想像はつく。実家暮らしだとしても、そうそう貯金が溜まっているとは思えない。仮に貯金が趣味だったとしても、たった一日のデートに十万どころか百万をポンと出すのは常識外れだ。

 しかし、琢磨本人でなくても、親が金持ちという可能性はある。

 男性に求める条件に高いスペックがある沙也加だが、豊富な財力というのも十分なスペックと言える。

 ――見た目も良い。っていうか良くなった。社会人的な有能さも……、あるにはある。財力も十分。……あれ? こいつって、もしかして優良物件?

 カードキーをリーダーに通した琢磨は、勝手知ったるといった風にドアを開け、沙也加の手を取って最高級スイートルームに導き入れた。

「う……お……。な、なかなかいい部屋だな……」

 正直、沙也加は圧倒されていた。部屋の間取りも、置かれた調度品も、沙也加が出張などで泊ったことのあるホテルとは雲泥の差である。というより、ホテルというものの概念が打ち崩されてしまうような広さと間取りだ。天井の照明も殺風景な蛍光灯などではなく、精緻な彫刻に彩られたシャンデリアが下がっている。部屋の空気にまで気を使っているのか、ほんのりとバラの香りも漂っていた。

 何もかもが、これまで沙也加の見てきたものとは別世界であった。

「奥へどうぞ、先輩。食事の席を用意してありますので」

「……今日は一日、私とお前は恋人なんだったな?」

「え? ええ」

「なら、私のことも名前で呼べ。……琢磨」

「は、はい! えと……、沙也加さん」

 その瞬間の嬉しそうな顔に、沙也加は胸が締め付けられる思いがした。

 風俗で働く女など、身体以外に売りになるものが無い底辺の存在だと沙也加は思っている。だから、一日とは言え風俗嬢の真似事のようなコトをして男に身体を開くのだから、十万円という対価は当然と思いこそすれ安売りをしているとはまったく思っていなかった。

 だが、十万円というアルバイト代に加え、一泊百万を超えるホテルを用意されたとなると話は別だ。自分が一晩で百万円を超える存在であるとはさすがに思えない。百万円もらっても抱かれるのなんてイヤ、という男もいるにはいるが、金城琢磨という男はそうではない。そもそも、十万円という対価があるとはいえ、沙也加は半分納得して彼のエスコートに乗ったのだ。最悪、遠山千佳のコーディネートの甲斐無く落第点の風貌で現れたら、待ち合わせの場でキャンセルしようかとも思っていたのだ。

 ――我ながらみっともない掌返しだな……。これは、恋人の振り……なんだからな? 本気になるんじゃないぞ。……そう言えば、昔読んだ少女マンガにこんなのがあったなぁ。庶民の娘がセレブの恋人の振りをしてて、いつの間にか本気になっちゃうヤツ。

 今回のはたったの一日の話なのだから、そんなことは有り得ないと思いつつ、沙也加の頭の中には少女マンガでヒロインが幸せになるクライマックスシーンが再現されていた。

 後輩の顔に見惚れそうなった沙也加の手を引いて、琢磨はスイートの奥へと進んだ。

 手を引かれながら、沙也加の頬は知らず知らずのうちに緩んできた。デートをしてあげる、という上から目線の思いは、この時、沙也加の心から春の光を浴びた淡雪のように溶け去りつつあった。

「ホテルのサービスって結構融通が利くんですよね。今日はこの部屋の一番いい場所に、食事の席を用意してもらいました」

「ああ、うん……」

 スイートルームとは、続き部屋のある客室の事である。男女の睦事に使われることも多いためにSweet Roomと誤解されがちだが、実際はSuite Roomといって、リビングなどと寝室が組み合わさった客室である。ホテルのグレードによっては一般的な2LDKのマンションの一室がすっぽりと収まるような間取りのスイートも珍しくない。

 琢磨にエスコートされた沙也加は、彫刻の置かれた豪勢なエントランスからリビングへと導かれた。そして、リビングの奥まで歩を進めたところで、沙也加は絵本の世界に迷い込んだのかと錯覚した。

「こ……、これは……、やりすぎだ! 私にプロポーズでもする気か!」

 リビングの奥に足を踏み入れた沙也加が目にしたのは、窓際に用意された食事の為のテーブルと、床にちりばめられた、むせ返るほどのバラの花びらであった。

 沙也加の住むマンションよりも広い、高級ホテルの最上級スイートルーム。窓の外には都会の素晴らしい眺め。そして床には情熱的にバラの花びらが撒かれている。あとは花束でもあれば、プロポーズのシチュエーションとしては完璧であろう。

「やだなあ、せん……沙也加さん。ただのデートですよ」

「これがただのデートのわけあるか! 私でもコロッと結婚にオーケーを出してしまいそうだ! こんな……、白馬の王子様でも出てきそうな少女マンガ趣味……」

 そこまで叫んだ沙也加の脳裏に、悪戯ッ気な小悪魔の顔が思い浮かんだ。

「遠山か!」

「ええ。彼女にアドバイスをもらいました。どうすれば女の人が喜ぶかって。せっかくボクのお願いを聞いてもらえるんですから、沙也加さんにも喜んでもらいたくて。ボクだけが良い思いをするのも申し訳ないですし」

「だからって、これは……、やりすぎだ。フツーでいいんだよ、フツーで……」

 沙也加は眩暈のする思いがした。

 沙也加としては例えば、お茶→映画→美術館→ディナー→ホテルという普通のデートコースを想像していた。それが当たり前というものだろうし、常識と言っても良い。

 ところが、いきなりこんな、恋愛ドラマのクライマックスシーンのような場を用意されては、思わず引いてしまうのも無理はない。

「すみません……」

「ああ、いや……」

 いつもの会社での叱責と同じ口調で言ってしまった沙也加は、シュンとなった後輩の姿を見て心が痛くなった。実際のところ、会社での琢磨はミスをすることがほとんど無く、沙也加や他の上司から叱責をうけたところは見た事が無い。

 それに、このゴージャスに過ぎる食事の場を設けたのも、他でもない沙也加を楽しませるためだという。

「あー……、すまん。私の方こそ怒鳴って悪かった。お前は自分の得意なことには非常に有能だが、こういう事には疎いんだったな。……それに、まあ、なんだ、童貞だしな。加減が分からんのだろう」

「……ええ、まあ」

「気にするな。何よりお前が一生懸命に私のコトを考えてくれたというのは伝わった。それに、やりすぎだとは思うが、その……、悪い気はしないのも確かだしな」

 良い仕事をしたときのように琢磨の肩を叩くと、後輩は少し赤くなって目を逸らした。

「ま、それも今日卒業するんだ。それまで、私を楽しませてくれ」

「は、はい!」

 ――おーおー、嬉しそうになって。ご機嫌な犬の尻尾が見えるみたいだ。

 気を取り直した様子の琢磨は、ホテルの人間を呼び、食事の用意を始めてもらうよう伝えた。すると、たちまち数人のホテルマンが現れた。

 一人はうやうやしい態度で二人の上着を受け取ると、別の一人が椅子を引いて二人に着席を促す。白いテーブルクロスだけだったテーブルの上に、定規で測ったように整然とスプーンやフォークなどの食器が並べられていった。何もかもがスムーズで、音も無く流れるように用意されていく。

 運ばれてきた料理は、最高級ホテルに相応しいものであった。誰かに聞いたのか、メインの肉料理は沙也加の好きな鶏肉で、嬉しくなった彼女は食事を存分に楽しみつつ、お互いの気分を盛り上げるような会話を交わしていった。

 ついさっきまで、沙也加は童貞坊やがどんな風に自分を楽しませてくれるのか、といった上から目線で考えていた。だが今は、目の前の不器用な男を楽しませてあげようという気分に変わっていた。それは、十万円のアルバイトだからというだけではない。ここまで思われるのは、むしろ女冥利に尽きると思ったからだ。

 たとえ一日だけの、恋人の振りだとしても。

「……っ」

 と、沙也加の胸に何かが刺さったような気がした。

「どうしました?」

「いや、何でもない。それにしても、昼からアルコールというのは、社会人としては中々の贅沢だな」

「そうですね。僕もワインとかはあまり詳しくないんで、一番良いものを用意してもらいました」

「うっく……」

 ちょうどそのワインを口に含んでいた沙也加は、グラスに残った赤い液体をマジマジと見つめた。

 ――まさか……、これも一杯で何万円とかするのか……?

 さすがに、もうこれ以上は精神衛生上良くないと思った沙也加は、値段も銘柄も聞くまいと誓った。今はただ、目の前の不器用な男が用意したこれらを最大限に楽しもうと、グラスを一息に煽る。

 話題の大半は仕事や同僚の事ばかりであった。だがそれでも、普段はあまり話をしない間柄であったせいか、思ったよりも話は弾んだ。やれ上司が無能だとか、やれ今年の新人は使えそうだとか、そういった他愛のない話ではあるものの、普段とは違う話相手のおかげで、沙也加は意外なほど琢磨とのお喋りを楽しむことが出来た。

「……お前、意外と喋るんだな」

「はい? ええ、まあ、ボクはあんまりお喋りとかは上手くないんで、あまり人とは話しませんから」

「それでよく社会人が務まっているな……」

「必要な事は話しますよ。でも、そうでない話はそんなに好きじゃないんで。喫煙ブースで、誰とでも延々と喋りまくっている先輩とかいますけど、あれは単純にスゴイなって思いますね。でも、ボクはそれよりも一人で何かをしている方が好きなんです」

「……なるほど、お前が童貞なのはそう言うところが原因か。一人が好きなんだな」

「ええ。でも、今は二人も良いなって思います」

「そうか……」

 やがて食事も終わり、二人の前には芳しい香りのコーヒーが残っているだけとなった。

 あまり上品ではないと知りつつ、満足のため息を大きく吐き出す。

「ふーっ……。で? この後はどこへ行くんだ?」

「え?」

「え?」

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