第2話
「さて、二十五にもなって童貞な坊やはどんな格好をしてくるかな」
待ち合わせ場所となっている高級ホテルのラウンジで、スマホの画面をまんじりと眺めていた沙也加は呟いた。沙也加は二十七歳で、琢磨より二つ年上であるに過ぎない。だが、異性経験という意味では、十歳以上の開きがあると言える。もしかしたら、年齢分の開きかもしれない。いずれにしても、実年齢以上の年上という感覚で、沙也加は後輩と待ち合わせていた。
メール画面で待ち合わせ場所と時間を確認した沙也加は、残ったコーヒーを一息に飲み込むと席を立つ。
ラウンジとロビーの仕切りになっているガラスに自分の全身を映した沙也加は、軽く身なりをチェックした。彼女の着ているのは、いつものビシッとしたタイトなビジネススーツではない。薄いピンクのブラウスに濃紺のプリーツスカート、上にはゆったりとしたテーラードジャケットを羽織っており、質素な麗人といった出で立ちだ。化粧も、普段の仕事モードより少し濃い目といった程度である。十万円のアルバイトということもあるにはあるが、あまり気合の入りすぎた格好もどうかと思ったので、むしろ地味目の格好をしてきたのだ。だから、髪もいつもの仕事時と同じように、アップにしてバレッタでまとめている。うなじにセックスアピールを感じる男であれば興奮するのかもしれないが、パッと見にはやはり地味な印象だ。
時刻は正午の少し前。採光を十分に考慮された造りのロビーは、昼の柔らかい光が差し込んでいる。天井の高いホテルのロビーは開放的で、普段こんなところには来ないせいか、自分の心も開放的になったように思える。
と、沙也加の背後で声が聞こえた。
「先輩!」
呼ばれて沙也加は振り返ったが、視界の中には後輩の姿は見えない
「先輩! こっちですコッチ!」
「??」
こちらに向かって手を振っている男がいるが、後輩ではない。メガネを掛けていないし、白を基調とした爽やかなサマールックは清潔的に過ぎる。知らない人間の顔をマジマジと見るのも失礼だからまともには目を向けないが、金城はあんなに光るような笑顔ではないはずだ。
「先輩ってば!」
「…………うわおっ!」
「何、変な声を出してるんですか?」
「いや、だって、お前……」
ハキハキとして輝くような笑顔で手を振りつつ近付いて来たのは、見間違えや勘違いや気の迷いではなく、正真正銘の後輩・金城琢磨だった。
「……先輩?」
沙也加は改めて、上から下まで琢磨の全身を眺めた。
いつもボサボサだった髪はキチンとブラシを通したようで、整髪料も使って綺麗に整えられている。黒縁の野暮ったいメガネは掛けておらず、どうやらコンタクトにしているらしい。着ている服も着古したダルダルのスーツではなく、グレーの綿パンにベージュのワイシャツ、そして白麻の爽やかなサマージャケットを羽織っている。
十人中八人が振り返るであろう、実に爽やかな好青年ぶりだった。
「えと、先輩?」
「ああ、すまん」
――遠山め、やり過ぎじゃないか?
想像以上の見事な変身ぶりに、沙也加は不本意ながらも後輩に見惚れてしまった。
デートの報酬が十万というアルバイトだが、当然、額に見合ったデートとなれば、最後までということである。そもそも、この話の発端は琢磨が童貞を卒業するというところから始まっている。先日この話を引き受けた時には、テキトーに誤魔化して最後に逃げようなどと考えていたが、予想外に好い男となって登場したからには、希望通り最初の女になってもいいのかもと思えてきた。あくまで、思えてきた、というレベルであるが。
「さ……さて、デートだな。どこに連れていってくれるんだ?」
「まずは食事にしましょうか」
そう言って、琢磨は沙也加に向かって軽く腕を出した。
沙也加は反射的に、後輩に腕を絡める。思わず無意識に絡めてしまってから、あまりにも自然なエスコートぶりに不信感を抱いた。
――本当に童貞なのか?
だが、絡めた腕をすぐに離すのも不自然である。琢磨に導かれるまま、沙也加は大人しくついていった。
「ここでか?」
「はい。上に用意してありますので」
――なるほど、ホテルの展望レストランで食事か。まあ、最初のデートとしては無難かな。だが、こんな高級ホテルなら夜の方が良かったような……。
恋人のように腕を絡めつつ、二人はエレベーターに乗って上階へ向かった。
二人が待ち合わせたホテルは、この辺りでは一番グレードの高いホテルである。海外の要人が宿泊することも多く、最上階の展望レストランはリッチなデートコースとしても知られている。恋愛ドラマのプロポーズシーンにも使われたことがあり、沙也加はそのドラマを鮮明に覚えていた。
――白馬の王子様を待ってるの?
「違う! あれはドラマが純粋に面白かったからで!」
「先輩?」
「……! ああ、すまん。考え事をしてた」
「ヒドイな。先輩は今日一日、ボクの恋人なんですから、ボクのコトだけを考えて欲しいんですけど」
「あ、ああ、本当にすまない……」
「ボクは先輩のコトだけを考えてますよ」
「……!」
沙也加の失言に寂しそうな顔を見せたかと思ったら、後輩は極上の笑顔を年上の同僚に向けてきた。会社では一度も見たことの無い、実に爽やかな笑顔である。
――い、いかん、今、マジでグッときた。こんなヤツに……。だが、金城の言う通りだ。今日は一日コイツと付き合うんだからな。まあ、身体も許してやらんこともない……ような気がしてきた気もする……。なに、十万は惜しいが、私をその気にさせられなかったら逃げればいい。
それがすでに逃げ腰の思考であることも気付かず、沙也加は後輩の笑顔に胸を高鳴らせていた。
と、軽やかな音がしてエレベーターが止まった。だがそこは、展望レストランのある最上階ではなく、その下の客室フロアであった。
ホテルの最上階付近の部屋といえば、普通はスイートを始めとしたリッチな部屋が並ぶフロアだ。実際、このホテルも通常階は二十ほどの客室があるのだが、今、エレベーターの止まったこのフロアには三室しかない。
沙也加に腕を絡まれたままの琢磨は、このフロアで降りようとした。
「……? 展望レストランは上のフロアだぞ?」
「ここで良いんですよ。部屋をとってありますので」
「待て、このホテルの最上階だと、一泊ン十万とかじゃないか?」
「ええ、百五万です」
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