愛人契約?

紫陽花

第1話

「先輩の一日、ボクに十万で売ってくれませんか?」

「はい?」

 御堂沙也加が会社の後輩から唐突にこんなことを言われたのは、二人で残業しているときだった。広いオフィスには他に誰もおらず、照明も自分たちがいる一角にしかついていない。なんとなく寂しい状況で、後輩はいきなり訳の分からないことを言ってきた。

「どうです? 日給十万のアルバイト」

「あのなぁ、金城……」

 正直、沙也加はこの金城琢磨という後輩が好きではなかった。嫌いということではないが、どうにも生理的に苦手なのだ。あまり整えられていない髪。野暮ったいメガネ。着古したスーツ。背が高いのが唯一の救いだが、これでチビだったりしたら理由もなくイジメ倒したくなる。要するに、ヌボーっと冴えない風貌なのだ。

 能力は、一応ある。数字とシステムには強いようで、業務資料のデータ入力や分析、処理はなんなくこなすし、書類上の手続きでまごついたところを見たところが無い。むしろ、彼以外の社員が犯したミスをフォローしているくらいだ。それもあって、職場で特に嫌われているということはない。だが、人付き合いは少々苦手なようなので、上手く使われているドンクサい男、といった印象だ。

 ――この見た目でスペックが低かったら悲惨なことになるな……。

 そんな男が、突然二人きりの時に『十万のアルバイト』と言ってきたのだ。警戒するのも当然だろう。

「そんな怪しい話にホイホイ乗れるわけないだろう。……まあ、十万は確かに魅力的だけど」

「ですよねー。まあでも、なかなか絶妙な金額だと思うんですけど」

「絶妙?」

「レンタル彼女って知ってます?」

「……なんか、ネットで見たような気がするな? 有料で彼女の振りをするサービスだっけ?」

「そうです。先輩に、それをやって欲しいんですよ」

「……もしかして、アンタと?」

「そう」

「私が?」

「ええ」

「デートをすると」

「そういうことです。そのアルバイト代が、十万円」

 沙也加は唾をごくりと飲み込んだ。ただ単に『十万のアルバイト』と言われても、怪しさ満点で断るのが当たり前だ。だが、それが具体的に何をするのか分かれば検討の余地がある。人間、誰しも楽をして稼ぎたいものである。

 ――コイツとデートして、十万……。いやいや、やっぱり怪しいでしょ。

「あれ? やっぱり高すぎて不安ですか? なら五万でどうです? これならちょっと高いアルバイトくらいでしょう?」

「ちょ、待て待て! なんで減っちゃうんだ?」

「だって、これで増やしたりしたら、さらに引いちゃうでしょう? だから、五万でボクとデート。これでもダメなら三万にしますけど」

「いやいや、いやいやいや! 十万! それならやるから!」

「良かった。先輩ならそう言ってくれると思ってましたよ」

「……アンタの中の私がどんな先輩なのか知らないけど、十万、きっちり払ってもらうぞ」

「もちろんですよ」

「で? なんでいきなりデートなんて話が出てきたんだ?」

「あー、実は僕、童貞でして……」

「……まあ、その見た目で普通に彼女とかいたら、そっちの方が驚きだな」

「それでその……、ここの女の子たちにバカにされちゃいまして……」

「ああ、この間の飲み会でイジられてたねー。二十五にもなってドーテーとか」

「風俗でもなんで行けばいいのに、なんてことも言われたんですが、どうもそう言うのは好きになれなくて」

「私も、彼女たちと同じ意見だが?」

「そしたら、遠山さんが言うんですよ。『五万くらい出せばヤらせてくれる娘がウチの会社にもいるかもよ? あたしはダメだけどさ。沙也加センパイにでも頼んでみたら? ハハッ、チョー受ける!』って」

 その時の様子が手に取るように分かる気がする。あの娘なら言いかねない。

「それで、私に十万か……」

「……やっぱりやめます?」

 沙也加は一瞬考えたが、やはり十万というのは魅力的だ。デートといってもこの童貞坊やが相手である。テキトーに映画とか食事でもして終わらせればいいだろう。童貞がどうのこうのと言っているが、『デート』に十万である。一日付き合えば大丈夫なはずだ。『最後まで』付き合う義理は無い。

 そんな虫のいいことを考えつつ、沙也加は後輩の申し出を了承した。

「いや、構わない」

「ホントですか?!」

「だが、私にも一つ条件を出させろ」

「はい?」

「まともな格好で来い。ウチの男ども、いや遠山千佳に言って見栄えを良くして来い。あいつなら面白がってやってくれるはずだ」

「見た目、ですか?」

「デートなんだから当然だろう? お前が童貞なのは、その見た目に気を使わないところが原因の一つだと思うぞ」

「分かりました。遠山さんに聞いてみます」


   *


「デート? 琢磨クンと?」

「そうだ。お前のせいでな」

 琢磨からデートに誘われた翌日、沙也加は琢磨と同じ後輩である遠山千佳に声を掛けた。行きつけのバーのラウンジで、マティーニをチビチビとヤりながら千佳に苦情を申し立てる。

「うっはー、あいつマジでセンパイに言ったんですかー。五万でデートかー。良いアルバイトだなー」

 ――十万というのは黙っておこう。

「それで? あたしに頼みたいことって、なんです?」

「あいつの見た目をまともにしてくれ」

「それって、琢磨クンをコーディネートしろってことですか?」

「そうだ。あの野暮ったい風貌は見ているだけでガマンならん。どうせデートするなら、まとも格好のヤツとしたい」

「いやー、それハードル高いなー。センパイ、理想がエベレスト並みだから」

「……バカにしてるな?」

「ええ、ちょっと。だってセンパイがイケメンを何人もフってるの、知ってますから。もしかしたら、あたしと同類なのかもって期待するくらい、男を袖にしてますからねー」

「お前の趣味に付き合う気はない。女同士なんて……」

「あら? 試してもいないのにそんなコト言うんですかー? なんなら、この後にでも……」

「お前の彼女に言いつけるぞ」

「いいですよー。そしたら、あの娘も呼ぶから三人でしましょ?」

「クッ……、私の周りは、なんでこんな変なヤツばっかりなんだ」

「そんなセンパイにいい言葉を教えてあげましょう」

「なんだ?」

「類は友を呼ぶ」

「やかましい!」

 沙也加はカウンターに万札を二枚叩きつけると、憤然としてマティーニを飲み干した。

「今夜の飲み代とアイツのコーディネート代だ。とにかく頼んだぞ!」

「はいはーい♪ それにしても、センパイって結構ロマンティストですよねー」

「私が? それはないだろう? 私は現実主義者だ」

「だって、男に求めるのが、『自分よりもスペックの高い男』、なんですよね?」

「それのどこが悪い? 一生の伴侶になるかもしれないんだ。ろくでもない男に捕まって貢いでいくような趣味は無い。それに、全ての男が私よりも下ってことは無いだろう。いずれ良い縁があるはずだ」

「それ、そーゆーところですよ。それって言い方を変えると、白馬の王子様を待っているってことになりません?」

「んぐっ……」

 言われてみれば、そうかもしれない。沙也加自身、普通の男よりも高いスペックを持っているという自負はある。この場合のスペックとは会社員、あるいは社会人としてのスキルだが、それが高ければ会社の中で評価されて出世し、必然的に収入もアップする。

 沙也加は今のところ課長補佐という肩書を持っているが、彼女や琢磨たちの上司である課長は年功序列で昇進しただけの特徴の無い男で、業務のほとんどは、すでに沙也加が奪うような形で処理している。沙也加は実質的に、課内では課長職にあると言っていい。

 沙也加の年齢は二十七歳。さらなる昇進も現実的ではあるが、逆に非現実的なのが男性関係であった。入社以来、何人かの男性社員に言い寄られたが、いずれも沙也加の下につくような男ばかりであった。そして、彼女のスペックやスキルに見合うような男と言えば年上の男性ばかりで、しかもほとんどが妻帯者という状況なのである。

 別に、結婚相手は社内の人間である必要は無い。だが、外に目を向けても、彼女よりも『男らしい』男はこれまでいなかった。そして、彼女の目に適わなかった男たちの屍が、入社以来、累々と積み上げられていったのである。

 自分のスペックを超える男、それはイコール白馬の王子様。

「センパイ、焦ってますね? まあ、田舎のお母さんにせっつかれてるんじゃあ、しょうがないですけど」

「何で知ってる!?」

「あれ? 冗談だったんですけど?」

「クッ……。今のは忘れろ」

「はいはーい。それじゃ、琢磨クンの件、任せてくださいねー」

「期待している」

 期待感の欠片も無い口調で力なく呟いた沙也加は、後輩の女性社員を残してバーを後にした。

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