第9話 The Feminine(女性)


 多くの人間は自己愛に熱い。己の事を自分自身で良しとできないとき、人はストレスに押しつぶされてしまうだろう。


 ところで、人はどう自分を評価しているのだろうか?「みんな違ってみんないい」などという言葉はあるが、実際は違う。他者との比較、所謂ところの相対的評価しか結局はできないのだ。


 インターネットなどの情報技術の発展により、我々は他人の”良い部分”をより目にしやすくなった。その暴力的な情報の中で自我を保ち続けることが出来る人間は幸せだ。


 劣等感に苛まれ、己の中の負を突き付けられる。それから必死に目を背けても何れコップの水は溢れ出す。自信を失い、己を責め続け、自己を否定する。


 人は弱い。アイデンティティの形成など現代においては無意味だ。そんなものは一瞬で崩れ去る。


 ――だから私は憎む。この世に生きる私以外の人間を。私に劣等感を与える元凶を。


 幸福に群がる蛆虫どもを。


 私の心、私の幸せ、私の人生のため、私は彼らを殺すんだ。




 窓の外はすでに眩いほどのオレンジの光に照らされている。昨晩、白山だけを乗せ、帰宅してからそのまま寝てしまったらしい。


 夕日に照らされ暖かくなり過ぎたソファーから体を起こす。テーブルのほうを見ると白山が椅子に座りながら私の方をぼんやりと眺めていた。


「先に起きていたか」


「ゆっくりでいいよ」


 暫しの沈黙が部屋を包む。


「私が誰か分かっているのだろう?」


 ふと思い立ったかのように私の口から出てしまった言葉。


「その喋り方かわらないね」


 白山は笑いながら答えてくれた。


「――西くん」


 ――西雄介(にし ゆうすけ)。この私のかつての名前。もう呼ばれることは無いと思っていた名前。


「その名はひどく懐かしいな、白山」


 あの日のように。




「西くん、いつも放課後ここに残ってるね」


 教室から外を眺めていると不意に彼女が声を掛けてきた。


 ――白山愛華。あまり目立たないタイプの女子。


「あぁ、外を眺めていた」


「ふぅん。ところで西くんは、人生の、生きる目的って何かわかる?」


 突飛な質問に困惑した。


「たまに友達に聞いてるじゃん」


「あぁ」


 私が友人に問うたのを聞かれていたのか。


「答えが分からん。ただ生まれ落ち、ただ死んでいく。私にはどうも弄ばれてるよう

 に思えるんだ」


「あはは、西くんって変わってるね」


 彼女の笑顔は夕日を浴びて華やかに輝いていた。


「私は確かに異常かもしれない。生物の枠からはずれたような、異質な……」


「――良いじゃん」


 私は呆気にとられた。


「わたしだって考えたことはあるし、答えなんか分からない。辛いことばっかりのと

 きとか、なんでこんな無理して生きてるんだろうって……」


 辛いこと、か……。快活そうに見える彼女も人知れず何かに悩んでいるのだろう。


「だが君は賢い。何を悩んでいるかは知らんが人に悟られず社会に溶け込んでいる。

 私は――」


「――弱いだけ。」


 白山が私の言葉を遮るようにして言う。


「わたしは弱いだけ。西くんが羨ましい。それだけまっすぐに、正直に、自分の気持

 ちと向き合えるの」


 彼女は少し憂いを見せてそう言った。


「そう思うか。だが、大人になったときまた別の視点を得られるといいな。お互い

 に。」


「――うん……」


 それから無言のまま夕暮れの教室でのんびりと過ごした。




 それ以降、白山は気まぐれで度々話掛けてきた。


 生きることの愚痴や哲学的な話、多くの人が面倒くさいと感じる話題だ。私達は好んでそういう話をした。だが、不思議なことに気分は晴れやかだった。


 生や死についてあれほど長々と話せる相手は初めてだった。


 いや、それだけではないな。――私自身、彼女に惹かれていたのだろう。


 その思いを秘めたまま、月日は過ぎ去った。





「昔はよく語り合ったな」


「うん」


 沈黙が生まれる。学生時代の心地よい沈黙とは異なる、気まずい静寂だ。



 一体どれほどの時間がたったのだろうか。


「ねぇ」


 白山が口を開いた。


「なんだ?」


「今日やるべきことわかってるでしょ?」


 言うな。”それ”を言わないでくれ。


「あぁ」


 白山のターゲット。それは


「お前を殺すことか」


 ――白山愛華自身。



 再び気まずい沈黙が漂う。空気は鉛のように重く、喉が詰まる。己の中の感情が高ぶり道が見えない。


「西くん」


「――黙ってろ!」


 彼女の言葉を思わず遮ってしまう。私の声が部屋に響き渡った。


 白山の表情は強張っている。そんな表情をさせたくはないのだが。


「なぜなんだ!なぜ君が死を選ぶ?!君は……――生きてくれよ」


 感情的な言葉が零れ落ちる。いくら表層を繕おうとて、一度剥がれてしまえば私もこの程度。


 内心、脆い自分にウンザリしながらも感情のままに言葉を繋ぐ。


「君は生きるべき人間だ。まだ……」


「――もう遅いよ。もう、遅いんだよ……」


 白山の瞳には涙が滲んでいる。


 私はなんと愚かなのだろう。彼女はこれほどまでに追い詰められているというのに。私は他の偽善者どもと同じく、自分の為に甘い言葉を掛けようとしている。


 彼女は決断したのだ。今更それをどうこう言う権利は私には、無い。そう、私にはそんな権利は無いのだ。私はもう既に罪人なのだ。


「すまなかった。君がどんな苦しい思いをしてきたかは問わない。だが、これだけは

 伝えさせてくれ。


 ――私は君を、愛していた」


「そう……」


 白山は別段驚くことも無く、ただ一言答えた。私はなんと残酷なのだろうか。


 注射器と薬剤を棚から取り出し、机に準備する。ソファに横になってもらうように促す。


 目を閉じ静かに横たわる白山の姿は私にはあまりにも美しすぎた。


「ん……」


 針を静脈に刺すと彼女は小さく声を漏らした。


 ゆっくりと薬剤を注入していく。


 そして針を外す。


 大切な人の命を奪う行為は驚くほど簡単に終わった。


「ありがと」


 白山はそれだけ言うと眠りについた。




 それから白山は二度と目覚めなかった。


 私は思わず彼女の手に触れた。まだ温もりの残る彼女の手に触れてみるととてつもない孤独感に襲われた。


「なぜだ!なぜなんだ!なぜ死ななければいけない?!


 生きてくれ、生きてくれよ!私の為に生きてくれ……」


 嗚咽交じりに私の感情が誰も居ないリビングに響き渡る。


「あぁぁぁぁ!!」


 テーブルを引き倒し、椅子を蹴り飛ばし、食器を投げつけ、手あたり次第に当たり散らしてやった。


 生きてほしかった。こんなことに関わらず、幸せに生きていてほしかった。なぜ彼女ほどの女性がこんなにも苦しまなければいけない。


「理由を教えてくれよ!理由を!!なにが辛かった?何に悩んでいた?仕事か家族関

 係か?なんだ!?」


 私は彼女の亡骸に問い続けた。理由を聞けば救えたかも知れない――否。


 私などに彼女を救うことなどできなかっただろう。――そんなことは分かってる。


 私は、彼女よりも遥かに深い底に居る。――私は異常者だ。


「あぁ……」



 私の激情が虚空へと消えていった。


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