第7話 The Strange World(数奇な世界)


 私はこの世界が嫌いだ。汚らわしく、ずる賢く、そして醜い。こんな世界ならば生など受けない方が幸せだったかもしれない。


 こんなことを考えているとふと思い浮かぶ詩がある。学生時代に読んだ物で、内容はこうだ。


 少年が英語のI was born.「(私は)生まれる」という英文から、生命の誕生はあくまで受け身系の事象であると父に語る。それに対し彼の父は蜉蝣の話をする。


 蜉蝣という虫は生まれてから2,3日で死ぬ。一体何のために生まれてきたのか、と。


 また蜉蝣の雌の体は口が全く退化しており食べることも上手くできない。ところが卵だけは腹の中にぎっしりと詰まっていて、ほっそりした胸の方にまで及んでいる。


 それはまるで目まぐるしく繰り返される生と死の悲しみが咽喉もとまでこみあげているように見える。


 そんな内容の詩だった。当時の私にとってこの詩は衝撃的だった。


 世間一般において生命の誕生は半ば思考停止的に”良い”ものとされている。私は常々違和感を覚えていたのだ。生命の暴力的で利己的なサイクルに我々は弄ばれているのではなかろうか、と。


 種の存続を目的としたプログラム的な働きを持つDNA、脳に我々の感情がコントロールされているのではなかろうか、と。


 ヒト科として、動物種における1個体として捉えた時、私のような考えの者は存在してはならない、例外的個体である。


 だが、私はヒトであると同時に人である。そして私自身、私の理論的思考を何よりも重んじて生きてきた。誰がなんと言おうと、どう思われようと関係ない。私の心にあるのはこの世に対する怒りと憎しみ。それだけだ。





 ――しばらくして部屋を出ようとしたとき、突然のノック音。


 覗き穴を見るとそこには大野木、そして、彼の背後には弥富の姿が。


「おとなしく開けてください。さもないと……」


 ドア越しでは良く見えないが恐らくは刃物を突き付けられているのだろう。外には気を付けろと言っておいたのだが、大野木、まさか意図的に……?


「分かった、入れ」


 渋々扉の鍵を開け、彼らを向かい入れた。状況にも関わらず冷静そうな大野木と対照的に弥富の表情は緊張と僅かな恐怖が感じ取れる。


「ここは何?」


 "302号室"の異様な光景に弥富は呆気にとられたようだ。


「見ての通りだ、遺体置き場とでもいうべきかな」


 敢えて挑発的な言葉を選ぶ。


「ほら、そこのじゃないか?」


 大野木が部屋の奥の遺体袋を指さす。


「あぁ……あぁぁ……」


 弥富は大野木を解放しオロオロと兄の亡骸へと引き寄せられる。大野木はただ遠い目をして彼女を見ていた。


「おにいちゃん……?」


 弥富は嗚咽交じりに少女のような言葉を漏らす。袋を乱暴に開けた後、雫が数滴床に滴り落ちた。


 数分間の沈黙の後、彼女のナイフを握る手に強く力が入ったように見えた。


「なんでこんなことをすることが出来るのですか?絶対に許しはしません!あなた

 を!」


 彼女の瞳には確かな怒りがあるようだ。


「そうだ。真実を知り、絶望し、己の生きる意味を失い、怒りに身を任せるがいい」


「――うるさい!」


 彼女は私の言葉を遮るようにして怒鳴る。


「君に一つ問おう。君の兄を死へと追い詰めたのは誰だ?」


 構わず私は言葉を続ける。


「知らない!」


「少なくとも私ではない。そもそも明確な個人かどうかすら怪しい。彼は自分を責め

 ていたんだ。自分は何をやっても上手くいかない、周囲の人間の期待を裏切るよう

 なクズであると」


「そんな……」


 弥富が急に弱々しくなる。


「お兄ちゃんは私なんかよりずっと賢くて、いい会社にだって入ったのに!」


「人の心の何と脆いことか……人生において挫折は付き物だ。しかしそれとの付き合

 い方を学び損ねるといざというときに大きな痛手を負うことになる」


 私の言葉の前に彼女は黙りこくっている。


「――君もどうやらその類の人間だろう。その腕、失礼ながら袖を捲ってもらえない

 だろうか?」


「――ッ!」


 彼女の表情に怒りが滲み出す。弥富は乱暴に左腕の袖を捲ると幾度も繰り返された自傷行為の痕跡が見られた。一般的なリストカット、根性焼き、安全ピンによる刺傷。


「想像以上だな」


 傍観に徹していた大野木が思わず言葉を漏らす。


「これがなに?!悪い?!人殺しよりよっぽどマシよ」


「兄君は気苦労しただろう。”こんな妹”の面倒を見なければならないとはな」


 私の言葉に彼女の目が鋭く光る。


「あぁぁぁぁ!」


 彼女が素早く駆け寄り、力任せにナイフを振るう。容易く身をかわしこちらも次の攻撃に身を構える。


「認めろっ!君自身も兄を追い詰めた元凶であると!私は彼を苦しみから解放したの

 だ!」


「うるさいっ!!」


 両手で握ったナイフを構え、真正面から突進してくる。


 ――容易いな。


 限界まで引き付け、一気にナイフを握る両手に掴みかかる。


 ――そして素早く蹴り込む。


「うっ」


 呻き声と共に彼女は強く床に叩きつけられ、衝撃でナイフが遠くに落ちた。すかさず駆け寄り、マウントポジションを取り首に手を掛け絞め込んでいく。


「ぅ…っ….」


 必死に足をばたつかせ、か弱い手で私の腕を引きはがそうと藻掻く。生へしがみ付こうと藻掻く彼女の姿に心打たれる物を感じた。


「君は最期の最後まで私を憎んで死んでいくんだな……」


 彼女の赤く充血した眼は私を鋭く睨みつける。


「君は今日で解放される。すべての苦しみから。仮に私を殺したところで君はまとも

 な生活は送れなかっただろう。


 もう自分を責める必要も無い。もう他者を憎む必要も無い。他者から拒絶される事

 も無い。


 君の魂はようやく休むことが出来る。ただ眠れ……」




 もう彼女は動かない。彼女の眼はこの世への負の感情が溢れ出たかのように紅蓮に染まっていた。




 その後、彼女の遺体を片付けた。遺体は兄の遺体の横に。せめてもの手向けだ。


「そろそろ戻るか」


 大野木がいつもと変わらない様子で言った。


「あぁ…」


 大野木への怒りは無い。彼が何を考えて彼女を此処へ導いたのかは分からん。だが、彼女との決着の付け方として、強引ではあるもののこれで良いと思えた。




「――明日はいよいよ俺の番か」


 夕飯を食べ終えた大野木がいつもの口調で言った。


「リーダー、ちょっと外を歩かないか?」


 何か思う物が有るのだろう――当然だが。


「あぁ、丁度夜風を浴びたい気分だった」


 白山は机に伏して寝てしまっていたのでそのままにしておき、我々は部屋を出た。




 街中を数分ぶらつき、人気の少ない公園でジュースを買って一服しているとき、ふいに大野木が口を開いた。


「あんたにとって死ってのは何なんだ?」


 妙にぼんやりとした問いだった。


「私にとっては唯一の救い、いや、逃げ道か。多くの人間にとって死は恐怖だ。しか

 し、一部の人間にとって地獄のような日々を終わらせるための唯一の救済と成り得

 る。私はそう考えている」


 大野木の求めた答えかどうかは分からない。ただ自分の思いを言ってみた。


「なるほどな。俺は幼い頃に両親を亡くした。それからは母方の祖父に引き取られた

 がまさにその地獄だったよ」


 大野木は遠い目をしていた。


「何があったんだ?」


「いろいろさ。食事もロクに食わせてもらえず、何かあれば殴られ、1日中拘束され

 て何度も殺されそうになった。


 もともとそういうタイプの奴なんだろうなアイツは。俺の親の結婚も良く思ってな

 かったんだろう。


 結局14の時に家を飛び出すまで続いたよ」


「それからどうしたんだ?」


「なんとかネットカフェとかを転々として運よく老人介護施設の仕事に付けた」


「老人介護施設?!」


 私は嫌な予感がした。


「あぁ」


「だが、そこはお前の――」


「そう、俺の殺しのターゲット」


「なぜ…?」


「現実はドラマみたいにいかねぇんだ。自立してからも何で俺ばっかりこんな目

 に……っていっつも考えちゃって。自分はなんでこんな目に合いながら必死に生き

 ているんだろうって。


 生きる意味なんてない。そんなことを常に考えてきた」


 私は大野木の話を息を飲んで聞いた。


「――そんなときにアイツが来た。祖父が施設に入ってきたんだ」


 なんという数奇な運命か。


「アイツは認知症を患ってた。俺の事も覚えていなかった。そんなアイツを見てたら

 自分が酷く惨めに思えてきてな。なんだってこんな思いをしなきゃいけない!こん

 なことなら……」


「――死んだ方がマシ、か」


「あぁ、だがアンタの話を聞いて気が変わった。あんな奴を生かしたまま人生終わら

 せたくねぇってな。アイツだけじゃねぇ。あの施設にいる恩知らずなクソ共も全員

 纏めてぶっ殺してやるってな」


「入居者を無差別にか?」


「アイツらはもう十分人生を楽しんだろう。そろそろ死んでもいい頃合いだ」


「我々がやろうとしていることは無差別殺人だ。覚悟はいいか?」


「なんで俺みたいなのがあのジジババ共の世話しなきゃいけない?毎日毎日めんどく

 さいんだよ。見舞いに来てくれる家族が居て、入居する金も持って……自分が惨め

 に思えてきやがる」


「何れ変わる。我々のような存在が居続ける限り、社会はこの怒りから目を背けるこ

 とはできん。


 我々は悪だ。だが人に悪を成させるのもまた人であるという事実を、彼らは己の痛

 みで理解する」


 大野木は軽く頷くと闇夜の奥に視線を移し、しばらく黄昏ていた。それからは無言のまま帰路に着いた。




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