23 すれ違いの始まり

 夏休みの後半、俺は地下にあるトレーニングルームで、アサヒが体を動かしているのを見ている時間が長かった。

 じっと見ていることもあれば、飽きて、小説の文庫本を読んでいることもあるけど。

 トレーニングルームではアサヒは徐々に系統だった格闘技を披露し始めたけど、トレーナーも本気になっていて、スパーリングになるとアサヒが倒れこむのも再三だった。

 彼女の相手をするトレーナーは一番初めに彼女を指導したトレーナーではなく、もう三人目になっていた。今のトレーナーはキックボクシングの教官、と俺も聞いていた。

 トレーナーのグローブがアサヒのガードの隙をついて、どしんと腹部を打った。アサヒが息を詰まらせ、よろめいたところで、ヘッドギアの上からのハイキックの一撃がアサヒをマットに沈めた。

 気絶するレベルではないので、アサヒはすぐに起き上がるが、ハイキックの前のボディブローが効いているのか、右へ左へ揺れている。

 スパーリングは続き、トレーナーの連続攻撃を、アサヒが凌ぐが、二回、三回とダウンして、結局、アサヒはよろよろとリングを降りた。

 俺の隣に腰掛け、差し出してやったボトルを受け取ってヘッドギアを外す。

「あの教官、やりすぎじゃないの?」

「そうでもないわ」

 グローブを着けたままの両手でボトルを持って、水分補給したアサヒがぼやく。

「あれくらいの方がやりがいがあるけどね、私は」

 ボトルを椅子に置いて、アサヒがこちらを見る。

「まだ怒ってんの?」

 ミコと山中で再会して、そして別れてから、二週間が過ぎていた。

「別に怒ってないよ」

「言葉は装えても、感情が顔に出ているぞ」

「こういう顔だよ、俺は」

 どうだか、とアサヒが笑う。

「私、あれからいろいろ考えたけど、なんか、虚しくなったわね」

「虚しい?」

 初めて聞く話、アサヒらしくない言葉だった。

「スペシアルとして成長すれば成長するほど、研究者たちに注目される。そうなれば、スペシアルのためだとか、人類のためだとか言われて、結局、奴らのエゴを満たすために、私は切り刻まれて、薬漬けにされる。やってられないわ」

「そんなことは、ないと思うけど」

「そんなこと? 実験のこと? それとも私が成長すること?」

 実験だよ、と応じると、アサヒは、どうかねぇ、と応じた。

「ミコたちが受けたことを、私が受けない理由はない」

「俺がそれは許さない」

 思わず口にすると、きょとんとした後、アサヒが小さく笑った。

「あんたにどんな力がある? 何もないじゃない」

「俺はアサヒを、守るよ」

「そういう言葉は、ちゃんとした時に残しておきなさいよ。そして私は、あんたみたいなもやしっ子に守られるほど弱くない。私の方が強いしね。それに、私は私より弱い男は趣味じゃない」

 トレーナーから声がかかり、アサヒがヘッドギアを付け、立ち上がる。

「行ってくる」

「頑張って」

 短いやり取りの後、アサヒはリングに戻っていった。

 また拳打がやり取りされ、蹴りが唸る。

 トレーニングが終わり、俺はトレーニングルームの隅の椅子で読書を続け、シャワーを浴びた後のアサヒが戻ってきてから、席を立った。

「実はさぁ」

 歩きつつ、アサヒが言う。

「ちょっとスペシアルの能力を除去する方法について調べたんだけど」

 いきなりだった。

「いつ?」

「三日前かな。いや、四日前かも」

 そんなに怖い顔しないでよ、と俺の方をアサヒが見る。

「調べただけ。受けるつもりはない。だけど、いざという時のためにね」

「お前の才能を、捨てるつもりなのか?」

 その一言で、アサヒの顔が固まった。

「才能なんかじゃない、才能なんて呼べるものじゃない」

 低い声に、俺はどう答えることもできなかった。

 才能のはずなのに、スペシアルたちはその才能ゆえに、悲劇に陥る。

 やっぱり、何かが間違っている。うまく説明できないけど、間違ってるはずだ。

「いつか、権力の話をしただろ。忘れたのか?」

「ああ、したかもね。ぼんやり覚えている。暴力、権力、経済力、か。忘れたい話ね。我ながら、青かったわ」

 ゆっくりと並んで進みつつ、しかし俺たちは急速に離れていくようだった。

「スペシアルは、覚悟がある奴だけがやれば良いのよ。私の覚悟は、もしかしたら形だけのものだったかもしれない。本当の覚悟を、私は持っていなかったと、ちょっと疑っているところ。私、何も知らない立場だったし」

 隣にいるのに、声は遠くから聞こえた感覚。

 通路の先、エレベータホールで、俺たちはエレベータが地下へ降りてくるのを待った。ホールには他に誰もいなかった。

「あんたも、まぁ、オーバードライバってことは、スペシアルがいなければただの一般人だし、自由に生きればいいわ。これから十年とか二十年とかしたら、同窓会かなんかで再会すると、面白いかもね。お互い、一般人になっていて、普通の会社で事務仕事か何かしていてね。彼女がどうとか、彼氏がどうとか、話して、もしかしたら育児の話とか、一戸建てを買う買わないみたいな話をする。どう?」

 すぐには答えられなかった。

 アサヒがそんな話をするなんて、信じたくなかった。

「笑えるかもしれないな」

 そう答えるしかない。全く力が入っていない声で。

 アサヒが話したことは、普通なんだろう。一般的で、自然な道筋。

 そこから逸れていくことをアサヒに強制するのは、間違っている。

 でもアサヒが今、口にした未来予想図は、ほんの数ヶ月前にアサヒが口にした希望とは、真逆だ。

 アサヒは、挫けてしまったんだろうか?

 エレベータが降りてくる表示を眺めている間、俺たちは無言だった。

「アサヒは、何になりたい?」

 思わず訊ねたけど、アサヒの方を見る勇気は出なかった。

 俺の隣にいるアサヒは、やっぱりどこか遠くにいるように感じられた。

 そうだね、と呟く彼女は、果たしてそこにいるのか。

「普通になりたいかな」

 何かが俺の中で瓦解した気がした。

 エレベーターに二人で乗り込んで、やっとちらっとアサヒを見た。彼女は平然と、大口を開けてあくびをしていた。

 それから夏休みが終わるまで、俺はアサヒのトレーニングを眺め続けて、夏休みの最終週、希望者だけのスペシアルの力を使っての練習試合が実施された。

 自然と、アサヒは参加する。

 戦闘服姿のアサヒと一緒に試験場に入る。

「ちゃんと見てなよ」

 お互いの手のひらをぶつけ合い、俺はオーバードライバの控え席に腰を下ろした。

 相手の生徒もすでに入場している。オーバードライバも。

 アサヒと相手が向かい合う。

 アサヒの髪の毛が真っ白に染まる。火花が散る。

 おかしい、と思ったのは、アサヒの髪の毛が発する光が、どこか弱く見えたからだ。

 相手はドラグーンで、すでにコンテナをマテリアル・スイッチングで取り込み、機械の鎧に覆われている。

 両者がぶつかり合う。

 やっぱりどこかおかしい。

 アサヒの攻撃が相手に当たらない。超高速の攻防で、俺にはよく見えないけど、いつもなら二発、三発とヒットするはずの打撃が、空を切り、もしくは防がれる。

 本人も違和感を感じているからか、後退し、よろめき、受けに徹する。

 強く床を蹴り間合いを作ると、今度は壁を蹴って、空いているスペースを目指す。

 だがこれは予測されていた。

 ドラグーンの鎧から無数の鎖が発射され、アサヒの行く手が塞がれる。

 彼女が鎖に飛び込み、しかし振りほどこうとするが、振り解けない。

 おかしい。やっぱり変だ。

 鎖は見たところ、一般的なドラグーンのそれだ。特別に頑丈には見えない。

 今までのアサヒならあっという間に引きちぎって解体している。

 拘束されたアサヒが宙吊りになり、さらに新しい鎖が走り、巻きつく。

 完全に行動不能になり、ブザーが鳴った。

 アサヒが負けた、という判定だった。

 ドラグーンがガッツポーズをしてから、そっとアサヒを床に下ろした。二人が握手をして、離れた。こちらへやってくるアサヒは、自分の手を見て、握ったり開いたりしていた。

「お疲れ様」

 俺は花道の入り口でアサヒを待って、二人で下がっていく。まだアサヒは自分の手を見ている。何か感じるのだろうか。

「どうしたの?」

 訊ねると、うーん、とアサヒが低い声を出した。言葉はない。それだけだ。

 結局、その日はアサヒは何も言わなかった。

 またトレーニングの日々になり、俺は読書に打ち込む時間が増えた。でも本を読んでいても、忘れられないこと、頭を離れないことは、多い。

 夏休みの宿題は毎日、アサヒと別れてから、夜に寮の部屋で片付けた。計画通りに、最後の三日間は完全にフリーだった。

 そういえばアサヒは宿題はどうしたんだろう?

「私にも計画性はある。馬鹿にするなよ、ちょっと頭がいいからって」

 そんな返事だった。心配したのが馬鹿みたいだ。

 夏休みの最終日、アサヒと少しくらいは長く、腰を据えて話そうかな、と思ったけど、アサヒは俺の誘いを「あんたと話すより、よっぽどスパーリングの方がストレス解消になって有意義だ」などと言って、軽くあしらった。

 ストレスか。

 地下のトレーニングルームへ行き、俺は自然さを装って、

「俺もスパーリングをやってみたいんですけど」

 と、言ってみた。トレーナーが軽い調子で快諾したのに、驚いた。

 服を着替えてヘッドギアを付け、グローブをはめた。

「私が相手をしてあげる」

 アサヒがそう言って、リングに上がった。トレーナーはニヤついている。

 雑なトレーナーの合図で試合が始まったけど、トンデモなかった。

 殴られるとほとんど足が宙に浮くし、蹴りを受けると足が滑って転倒する。

 殴り返そう、蹴り返そうとしても、できない。

 結局、トレーナーが止めるまで、俺は一方的に、まるでサンドバッグのように暴力を受け止めただけだった。

「しょっぱいなぁ、素人は」

 そんな感想を、アサヒが口にしたのが、リングに寝転がっている俺の耳に届いた。

 こうして夏休みは終わった。



(続く)

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