16 彼女が経験した地獄と出会い、そして非情な別れと決断
目が覚めた時、ミコはまだ寝袋の中で丸くなっていた。
俺はそっと外に出て、テントを振り向いてみたが、ミコは起きそうもない。
少し後ろめたいけど、テントから離れて林の中を歩く。もちろん、適当にではなく、昨日、ミコがやってきた方に、だ。
季節がもっと秋くらいで、紅葉するような気候だったら、また違ったはずだ。
その時は、落ち葉が痕跡を隠してしまったかもしれないから。
でも今は、緑色の下草が、掻き分けられ、踏みつけられた痕跡が注意すれば見抜ける。
ミコは四十五分って言っていたけど、さて、どうだろう。
歩いているうちに方向感覚がおかしくなるのが分かった。これは元に戻る時も、同じように痕跡を伝って進むしかないな。
小さな小川を超え、斜面を登る。本当に風景が変わらない。目印もなかった。
もしこの森の中で、複数人がてんでバラバラに駆け出したりしたら、再会するのは至難だろう。まぁ、携帯端末があれば問題ない。
と、そうか、俺の携帯端末は、ポケットから消えているからミコが持っているんだな。
ちょっと探して掠め取るべきだったかもしれないけど、構わない。荷物とかを探っていて、ミコが目覚めたら目も当てられない。
緩やかな斜面を下ると、前方の木立の間に家のようなものが見えた。人がいる?
しかし進んでみると、それが廃屋だとわかった。壁に大きな穴が開いて、屋根が半ば崩れている。危険だから近づかない方が良さそうだ。
そばにやはり同じように激しく傷んでいる建物があった。
それよりも、道路がある方がありがたい。アスファルトはボロボロで所々、抉れているけど、森の中よりは歩きやすい。
問題はこの道を右へ行くか、左へ行くかだ。
左右を確認して、右と決めた。
それはすぐそばを川が流れているのに気付き、左から右へ流れているからだ。下流、標高が低い方が、人里に近そうだ。
歩き始めても、廃屋しかない。たぶん過疎化に飲まれた街で、ガードレールは赤錆に覆われ、折れているものもある。
どれくらい歩いたか、ちょっとまともな店舗が見えた。
かなりくたびれているけど、二十年くらい前まであったはずの、コンビニチェーンの外装に似ている。写真でしか見たことないけど。
店の前に立つと、シャッターが閉まっている。塗装はボロボロでも建物自体は手入れされてるように見えるけど、営業時間じゃないってことか。
時間を見たくても時計がない。
しかし、この店は本当に営業しているのかな。廃屋でもおかしくない。手入れされたけど見捨てられた廃屋、とか。それでも、ミコはコンビニがあると言ったのだ。この店は、コンビニだ。たぶん。
店の横に回ってみると、ジュースの自販機が一台だけあり、近づいてみると、稼働している。
なら、店もやっているんだろう。
と、自販機の横に隠れるように公衆電話があった。
これで警察に通報できる。でもそんなことをすると、ミコは困ったことになるだろう。
それでもと公衆電話を見ると、こちらは電源が落ちていた。なんだ、壊れているのか。
がっかりというか、助かったとでもいうべきか、そんな曖昧な感覚が心に満ちる。
ジュースを買いたくても、電子マネーのカードもミコに没収されていた。
でもこれで、いざという時、逃げることはできる。その道筋は立ったわけだ。
コンビニの開店時間を待ったところで買い物もできないし、戻るか。
ゆっくりと道を進み、廃屋の横手から林に入り込む。木々の間を抜けつつ、自分が歩いた痕跡を見失わないように、注意した。
目の前にテントが見え始めた。さすがにミコも起きている時間だ。
彼女は火を起こして、鍋でお湯を沸かしていた。
俺を見た彼女の表情にあるのは、安堵、だろうか。
「よく戻ってきたわね」
「逃げてもどこかで野垂れ死にそうでね」
ちょうどいい位置にある岩に腰掛け、「水、もらえる?」と聞いてみると、ミコがテントの中から小さい水のボトルを取り出して、投げてくる。
取りこぼしそうになりながら受け止めて、ちょっとだけ飲んだ。
うーん、生き返るなぁ。
「今からラーメンを作るけど、食べるよね?」
「良いね。腹は十分に減っているよ」
俺が帰ってくるのを待っていたんだろう、鍋のお湯はまだ沸騰はしていなかった。
「もうこんな機会もないと思うから、話してみる」
急にミコがそう言って、話し始めた。
「前に図書室で話したことだよ。アツヒコは知っていたようだし」
例の、天才スペシアルことか。
俺は黙って先を待った。ミコはゆっくりと、丁寧に語り始めた。
「私がスペシアルの能力に目覚めたのは、十歳だったけど、六歳の時から、山間都市学園で生活していた。三歳の段階で、検査で特別な数値が出てね。両親は自力で私の面倒を見ようとしたけど、数値はどんどん異常になって、いつ私がスペシアルになってもおかしくない、となった。で、六歳で私を都市学園に入れた」
一度、大きく薪が爆ぜた。
「それからは酷い日々だったよ。私は徹底的に検査され、テストも受けて、そんな日がずっと続いた。そのうちに薬物を注射されて反応を試されたりもした。まだスペシアルにもなっていないのにね。この金髪、不思議に思わなかった?」
思った、と俺が言うと、ミコが笑う。
「本当の私の髪の毛の色は、黒だった。でも薬物を摂取したり、検査とは名ばかりの手術を受けて、また薬物を打って、そうされているうちに、何かの拍子に髪の毛は金色に変わった。そうして私は地獄のような日々を、都市学園で過ごした」
立ち上がったミコがテントの中からビニール袋を持ってきて、インスタントラーメンの袋を取り出す。話は続いた。
「十歳で、私はやっとスペシアルになった。目覚めた瞬間から、科学者たち、医者たち、研究者たち、みんなの態度が変わった。腫れ物を扱うように、という感じかな。だって、私がスペシアルになったってことは、その気になれば、犯罪を躊躇わなければ、全員を容赦なくあの世にブチ込めるってわけだからね」
乱暴な言葉選びとは裏腹に、クスクスと空虚に笑いつつ、袋から取り出された麺が、鍋の中で煮立っているお湯に放り込まれる。
「ま、なんにせよ、地獄は少し変わったわけだけど、それが一つの出会いで、劇的に変わった。同い年の、オーバードライバ。男の子だった。彼も都市学園で徹底的に実験を受けて、その時には片目と片腕を失っていて、髪の毛は真っ赤だった。染めているわけではなくてね。見た目はものすごく凶悪で、これが小学生か? と思ったよ。誰だってそう思う」
けど、とミコは嬉しそうに言う。
「けど、あいつと私はウマが合った。それはもう、ピタッとね。あいつがどれだけの才能の持ち主、能力の持ち主だったかは、わからない。でも、私にとっては、あいつは翼だった。あいつがいれば、私の力はどんどん強くなって、どこまでも私を飛翔させられる。そう信じることができた」
割り箸がゆっくりと鍋の中身をかき混ぜる。
「でもそれも、中学に入学して、すぐに終わった」
空気に不穏なものが混ざる。
「あいつは特別な実験の被験体になって、私には、一週間で戻るって言って、まるで遊びに行くように研究所に消えた。一週間が過ぎた。何の音沙汰もない。二週間が過ぎた。やっぱり、誰も何も言わない。さすがに私は運営に問い合わせた。答えは、私には情報を知る資格と権利がない、だった。愕然としたよ。たぶん、あいつはもう生きちゃいない。殺されたんだ」
湯気が漂う。温かみを感じない湯気なんて、初めてだった。
「私は一人きりになって、都市学園で生活した。もしかしたら、どこかであいつのことを聞くかもしれない。どこかで、あいつと会えるかもしれない。あいつがいなくなって、私はまた実験を受けるようになった。ちゃんと、大人のスペシアル、都市学園の警備担当が見張っているところでね。正直言って、警備員なんて、木偶の坊だ。私の方が強い。でも私は、あいつのことを考えた。実験を受けていれば、またあいつに引き合わされるんじゃないか。でも、それはなかった」
三分はいつの間にか過ぎていて、ミコが鍋にスープの粉末を入れていく。
「十四歳になった時、知り合った大人が、教えてくれた。あいつは実験の結果、死んで、今は標本として研究所の一角で管理されている。信じられる? いきなりそう言われて。私は信じられなかった。だから、研究所を襲撃した」
鍋が火から降ろされ、俺の前に置かれた。箸も手渡される。
ミコは、どこか遠くを見るように、視線を林の向こうへやっていた。
「研究所の検体を管理する部屋の前で、私は結局、決断できなかった。あいつがどうなったかは、だから、本当には知らない。逃げ出す時、大人が助けてくれて、そのまま、私は山間都市学園から脱走した。二年前だよ。だからさ、ニシキ、私とあんたたちは実は一つ歳の差があって、私の方が年上なの」
「そうは見えないな」
反射的にそう言うと、この体格じゃね、とミコが笑った。
「ま、それが私の昔話だね。さ、ラーメンを食べなよ。伸びちゃうよ」
鍋の手を持って持ち上げ、俺はラーメンをすすった。
さっきまで悲惨な話をしていて、悲惨な話をしながら作られた割には、平凡なラーメンだった。
ただ、やはり美味くも不味くもない。
「ニシキは、私の味方になってくれる?」
顔を上げると、ミコが真面目な顔でこちらを見ている。
「できるだけ、そうなるように努力する」
「でも、共犯になるよ?」
「今の話を聞く限り、都市学園にも間違いはあるってことになるけど」
「大人は自分たちに都合のいいようにやるから、誰も都市学園を責めないわよ。強い奴らが弱い奴らを叩き潰す。よくあるパターン、お決まりのパターンね」
「違いない」
俺はラーメンを食べ終わると、これからどうするつもりか、ミコに訊いた。
「明日には私の仲間がやってくる。その時、自分がどうするか、決めてくれればいいよ」
「できれば、都市学園に戻りたいし、ミコにも戻って欲しいけど?」
「一人で帰る、しか選択肢はないかな。私はもう、逃げた身だし」
「そうだ」すっかり忘れていた。「都市学園で記録が改竄されていた。あれはどういうことなんだ?」
「それだけ私たちが都市学園に浸透している、ってことだね」
不敵に笑ったミコは、唇の前で人差し指を立てた。
内緒だよ、ってわけだ。
結局、俺は追求をやめた。
その日はミコと色々な話をして、しかしミコは仲間と呼んでいる誰かについては、全く触れなかった。俺が遠回しに探っても、はぐらかされる。
日が暮れる前にまた二人でラーメンを食べた。やっぱり具は何もない。初日のカレーはご馳走だったらしい。
夜になり、二人でテントの中で並んで横になった。
いつの間にか眠っていたはずが、ぱちっと目が覚めた。
横を見ると、ミコは起き上がっていた。
くそっ、と彼女が毒づいた時、明かりが周囲を照らし始めた。
(続く)
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