第10話 サイバースペース
10-1 決行
◆
俺は空白の中を漂っていた。
終わることのない旅は、いつの間にか時間と距離、肉体と精神、それらを丸ごと彼方へ押し流し、俺という存在は極端に研ぎ澄まされ、しかしあまりにも薄く、認識が希薄になっている。
その時、首筋に痛みが走った。
そう、痛みだ。
唐突に体が輪郭を取り戻した。
◆
ヌーノはニューヨーク郊外の病院から、偽の書類やら偽の身分をでっち上げ、エドワードの体を回収した。一人では無理で、急遽、リッチーが助けてくれた。
どうして自分は車の運転しか能がないのか、怒りに駆られつつ、自動運転車のノロノロした走りにイライラして、新しいアジトに着くまで、気が気じゃなかった。
二人でエドワードを抱えて集合住宅のその一室に入る。すでに寝台やその他の家具は設置されている。あまり時間がなかったので、どれも大量生産品の安物だ。大型家具店でまとめて手に入れて、危うく足がつきそうだった。
寝台にエドワードをうつ伏せで寝かせて、ほんの十分も待つと、その男はやってきた。
見た目は医者だが、白衣があまりにも似合っていない。荒事専門の拷問屋が白衣を着ているようなものだ。手に提げている巨大なカバンも怪しさしかない。
「あんたがヌーノ・マックローン?」
「そうだ」
どうしてニールは自分の名前で契約しなかったんだ、と胸の中で呪いつつ、ヌーノは平静を装って、闇医者を室内に入れた。
「こいつをねぇ。生きているのかい?」
動かないエドワードを前にして、闇医者がヌーノ、そして部屋の隅にいるリッチーを見る。
「医者なのに死体かどうかの区別もつかないのか?」
皮肉を返すと医者は嬉しそうに笑った。
「専門は死体を作ることと、死体に細工することさ。ま、今回は例外だな」
不吉なことを言う闇医者に不安を感じたが、これもしまっておく。
早くやってくれ、と促すと、闇医者はカバンから仕事道具を取り出す。ゴーグルで目元を覆うと、両手に機械のグローブをつける。
「どの品種にする?」
医者はマインド・コンテンツ・インターフェイスの種類を、品種というのだ。少しだけこの医者を信用する気になるヌーノだった。
「ホットリミット、最新版だ」
「第九版のβ版があるが、第八版の方がいいか?」
その辺りの事情は聞いていない。
思わずヌーノはリッチーを見た。リッチーが首を横に振る。わからない、ということだ。
仲間に問い合わせてもいいが、不審だろうか。それにこれくらいの決定権は自分にある。ヌーノは強気を振るい起こして、答えた。
「第九版で良い」
「調整に余計に金がかかるが?」
その点はニールにも念を押されていた。以前はエドワードが自力で調整したが、今はそのエドワードの意識がない。闇医者に調整してもらえ、と言っていた。
今更、第八版で良い、とは言えない。
「払うよ。手早くやってくれ」
やれやれとリッチーが天を仰ぐのを睨みつけてから、ヌーノはエドワードが手術を施されているのを眺めた。
闇医者の機械のグローブがいくつもの器具に分裂し、エドワードの首筋に打ち込まれる。
始めこそ見ていられたが、どこか不気味になり、ヌーノは目をそらした。リッチーも似たそぶりだ。
手術は一時間ほどで終わった。ヌーノは事前に用意していたケースに入った札束を、闇医者に手渡す。闇医者は丁寧に中身をチェックし、毎度あり、と去って行った。
ヌーノとリッチーは、エドワードを見る。
復活する気配はない。ピクリとも動かない。
恐る恐る指先でつついてみるが、反応は当然、ない。
「生き返るのかなぁ」
情けない様子でリッチーが呟くのを、ヌーノはどんと強く肩を叩いて、黙らせた。
すぐに仲間に連絡を取る。
「ニール、こっちは順調に終わったよ」
少しのノイズの後、返事がある。音声通信だ。
「よくやった。反応はあるか?」
「今のところ何もない。そっちはどうなっている?」
「クリアラインへの道筋を作って、要塞を作っている。同時にエースを孤立させるように動いている」
「アンガスは?」
計画通りさ、とニールが答えるが、どこか不安が滲んでいるような気がするのは、ヌーノには自身の勘違いか、それとも真実かどうか、わからなかった。
「そっちは防御に徹してくれ、ヌーノ。何かあったら、教えろ。こちらの作戦はすべて予定通りに進行している。中止もありえない。決行だよ」
「ニール、幸運を祈るよ」
「お前の前にいる生きた死体に祈ってやれ」
通信が切れる。
生きた死体。ひどい言い分だが、その通りだ。
エドワード、戻ってきてくれ。
柄にもなく、目を閉じて指を組んで、じっとヌーノは祈った。
復活をじっと、願った。
◆
俺の首筋の痛みはどんどんひどくなる。
急速に真っ白い世界が輪郭を持ち始め、巨大な透明な網目の球体が、現れた。そこにどんどん自分が近づいていく。
編み目ははっきりと見て取れ、無数の情報が行き来している。
しかし不自然なほど、編み目は綺麗だった。透き通っていて、もし柔らかく脈動するガラスの血管があれば、こんな具合だろうな。
そう、この球体は生きている。
何か大きなものが、目の前を走り抜ける。
ぐんと引きずり込まれる錯覚がある。
目の前に編み目が広がり、隙間をすり抜け、俺が今度は網に取り囲まれるようになる。
周囲を見回す。何か、強力な力が走っていく。それに視線が吸い寄せられた。
その何かが、唐突に現れた道筋に乗って、こちらへ向かってくる。
◆
アンガスはマックス・コード社の南米工場、その地下空間で、林立する金属の円筒、そのうちの一つの前に跪いていた。
ユキを助け出すために一度、侵入したため、道筋はわかっていた。
円筒には端末が接続され、その端末から接触端子によりアンガスのマインド・コンテンツ・インターフェイスに情報が流れ込む。
サイボーグ化に合わせて大容量の回線を組み込んであるため、仲間の中ではマーティと同等の通信量を捌けるのだ。
円筒から、分離されていたエドワードの思考の基礎構造が、もう一度、クリアラインに戻っていく。
エースがすぐに気づくだろう。
まさか自分がいざという時に逃げ込むはずの場所に、宿敵がいるとは思わなかったはずだ。
だがもう事態は次に進んでいる。
今、エースの目の前には、無防備な、動きのないエドワードが浮かんでいる。
攻撃はすぐ始まる。もう始まっているかもしれない。
アンガスの前で、端末が小さな電子音を立てる。全情報を吸い出し終わったことの合図だ。
端末を回収し、アンガスは撤収を開始した。
無事に帰れるはずだが、油断が出来る場所ではない。敵地のど真ん中にいるのだ。
意識的に呼吸を一度、二度として気を引き締めると、足音を潜めて、アンガスは動き出した。
◆
クリアラインの所定の位置に秘密裏に張り巡らせた防壁の中に、極端に分割された情報体が流れ込み、形を成していく。
エドワードだ、とニールは直感した。
しかし、すでにエースの攻撃が始まっている。
ニール、ウォーレン、マーティが知恵の限りを尽くした防壁も、見る間にすり減っていく。
貫通した情報攻撃が、ニール自身の防壁を焦がしていく感覚。
こいつは危ないな。そう長くは保たないぞ。
仮想空間にエドワードの思考構造が姿を表す。だが意識がなく、どこかぼやけている。
その情報体を、事前にヌーノと打ち合わせていた座標へ流し込む。
そこがエドワードのマインド・コンテンツ・インターフェイスの座標である。
エドワード、起きろ。
起きてくれ。
膨大とも言える情報が一筋のコードとなり、一点で火花を上げる。
火花が瞬き、消えた。
(つづく)
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