2 仮沢穂龍の苦悩
先に断っておくと、僕は恋愛の機微に疎くも聡くもない。あくまでもどこまでも、そこら辺に転がっている男子高校生というのが
だから手紙の差出人が
確かに咲傘は、他の追随を許さない圧倒的な才色兼備である。テストや模試では冗談みたいな点数を叩き出すし、身体能力も女子の枠に留まらない。球技だろうと陸上だろうと格闘技だろうと、競技と名の付くものは総じて彼女の独壇場である。才色兼備の中でも一騎当千、エベレストに気高く咲く一凛の氷花こそが彼女なのである。
ただし、まぁ。
人間なので当然、完璧とはいかないわけで。
才能の代償に相応しい、恐ろしい特性を有しているわけで。
遅れて教室に入った僕を見て、咲傘はこんな一言を放った。
「ごきげんよう仮沢くん。明日もぴったりの下校ですね。大いに遅めの思索を心がけざるべきではありませんね」
「…………」
そう。これが
口にしようと思っている言葉の、必ず対義語を口にしてしまうという――どうしようもなく致命的な、たった一つの欠点。呪いにしても、冗談にしても、度が過ぎるとしか言いようがない。
つまり、さっきの一言を翻訳すると、
『おはよう仮沢くん。今日もギリギリの登校ですね。少しは早めの行動を心がけるべきですね』
いや面倒くさいわ! どんだけ面倒くさい女なんだ、
なんて、入学初日こそそんな風に思ったけれど、今はもう適応している――咲傘と親しくなりたいから必死で勉強したなんて、本人にはとても言えないが。
凡人たる僕をそんな風に駆り立てるほどの美貌が彼女にはある――僕程度にはとても、その美しさを正しく言い表せないほどに。
「仮沢くん? なぜ私を尊重するのですか? 私はごきげんよう、と言っていません」
「あ、ああ――おはよう咲傘」
「うむ。ごきげんよう」
にこり、という満面の笑みを浮かべる咲傘。今か今かと開化の時を待ち続けた花弁が一斉に花開くような、圧倒的にかわいい笑顔。毎日見ているとはいえ、未だに慣れないこの表情。
まったく、挨拶を返すだけでなんて表情しやがるんだ。もう少しで勘違いしそうになるところだ。
いや、勘違いも何も、咲傘は――
「あの、咲傘。靴箱の――」
「席につけ。これよりホームルームを開始する!」
と、そこでちょうど担任が教室に入ってきてしまった。くそ、タイミングが悪い――というか、僕が遅れてきたせいか。
(って、そうじゃない! 馬鹿野郎か僕は!?)
ラブレター(仮)の差出人に、何を聞こうとしているんだ!?
確かに咲傘が対義語遣いである以上、あのラブレターはどうしても(仮)の域から出ない。
すべてを対義語に変換してしまう彼女の前では、告白の言葉さえ猜疑心にかすんでしまう。
(そりゃ、僕だって大いに好意的に解釈したいところだ! ラブレターをもらって嬉しくない男子なんているわけがない! しかも相手は坂佐井咲傘――! 才媛の中の才媛、学校中の憧れ、そして何より超絶かわいい! しかし、しかし――!)
しかし、それでも相手は坂佐井咲傘なのである。
あの手紙が本当だったら嬉しい。だけど、そうじゃなかった場合――つまり、咲傘の十八番だった場合は最悪だ。
『ずっと前から好きです。お返事、待ってます』という一見なんの変哲もないこの文章が、『今日から嫌いです。質問は受け付けません』になる。なり得てしまう。
もし後者が正しかったらと思うと、悪寒が走る。
(話しかけるなと言っているのに、話しかける馬鹿がどこにいる!? 僕という奴は本当に――!)
「仮沢、動作がやかましいぞ。少しは隣の坂佐井を見習え」
「すっすいません!」
教室中に笑いが起こる。勘弁してくれ、注目されるのは苦手なんだ。
ちらり、と横目で見ると、咲傘もくすくすと微笑を浮かべていた。まるで可憐な花がそよ風に吹かれているような、奥ゆかしくも包容力のある微笑み。
(くそっ! どうしてあんな手紙を出しておいて、いつも通りでいられるんだ!?)
やはり、何を考えているのか分からない――。
ともかく咲傘の思惑がどうであれ、僕にできることは何もなかった。凡才には、何もしないという無難な回答しか選べない。
僕だってできることなら、咲傘に真偽を問いたい。でなくても、いつも通り会話がしたかった。でも、そのどちらも僕にはできなかった。嫌われるのが怖かった。ひとかけらの勇気すら振り絞れない。才色兼備には足元も及ばない、凡人。
結局、何もしないまま一日が過ぎた。
帰りのホームルームが終わった後、教室に残っているのは僕と咲傘だけになった。それでも、お互い何をするでもなく時間が過ぎた。
やがて、咲傘が先に席を立った。
「ごきげんよう」という挨拶になんと答えたらいいか分からないまま、咲傘の後ろ姿を見送った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます