カット4 涙

 しまった、と思ったときには遅かった。


「誰か、いるのか!」


 理沙のそばに立っていたスタンガン男が、俺の方を見て鋭く叫んだ。


(やっちまった……。ごめんなさい)


 声も出せず口パクで由梨に謝ったが、由梨は唇に人差指を当てて止まっている。

 そうか。ここで慌てて動いて自分たちのいることが完全にバレてしまっては、それこそ理沙がどうなるかわからない。俺は息を吐くことさえ惜しむように黙った。


「そういえば、壊れた監視カメラを見に行かせてから帰って来ないっスね」


 ノートパソコンの男が、スタンガン男に言う。


「警察にしては追いつくのが早すぎる。緒女河の人間だな」


 そうだよ。勘がいいな、コンチクショー。


「いるんだろう! 出てくるんだ!」


 スタンガン男がこちらに向かって再び叫ぶ。


 落ち着け。

 奴らに俺たちは見えていないはずだ。動くな。

 俺は自分に言い聞かせていた。


 今は俺たちも身動きが取れないので、涼と明日香がどこにいるかは見えないが、俺と由梨が涼たちの後ろを付いてきていたことは、この騒ぎでおそらく二人も勘づいたことだろう。万が一、犯人に俺が見つかっても、涼たちが何とかしてくれると信じるしかない。

 完全に人任せなのは情けないが、こんな時に物音を立てるようなドジをする俺よりも、涼たちに任せた方がよっぽど理沙の無事に繋がる。



 ――それに本音を言えば、とにかく俺は怖かった。


 

 理沙の心配や由梨の安全を考えなくてはいけないのに、スタンガン男の、


「誰かいるのか!」


の声を聞いただけで俺の身体はすっかり萎縮していた。

 それは、圧倒的に暴力の空気をまとった恐ろしい声色だった。普通の人生を送っているならば、あんな声を聞くことなど一生ないだろう。一瞬にして身体の芯に氷を突っ込まれたように、俺の手足は冷たくなって思ったように動かなくなってしまった。

 さっきまでは理沙に危険がないよう、犯人を監視しているつもりだったのに、今はとてもそんな気持ちになれなかった。


『暴走機関車』が聞いて呆れる。肝心な時にビビっていては意味がない。

 しかし、本当の犯罪者を目の前にして、その人物が纏う異様な雰囲気に、俺は完全に呑まれてしまっていた。恐怖で吐き気まで襲ってきた。


 とにかく今は、無事に帰りたい。

 俺は目をつぶって、ひたすら犯人たちが警戒を解いてくれるのを待つ。


 俺は、無力だ。


 ごめん、理沙。

 ごめんなさい、由梨先輩。


 こんな情けない姿を、好きな女性の前でさらけ出すとは思ってもいなかった。

 そう思うと、俺の目には知らず涙が滲んでいた。




「トキオさん」


 急に由梨から名前を呼ばれたので、俺はゆっくりと目を開く。

 由梨は、いつのまにか俺の傍に来ていた。

 そして、俺の手の上に自分の手を重ね、俺の手を強く握った。


「大丈夫ですか?」


 小声で由梨が話しかけてきた。俺の様子が心配だったらしい。


「すいません。涼先輩たちと違って、俺には何もできなくて」


 俺は素直に自分の気持ちを伝えた。


「こんな場所に、俺みたいな何の力も持たない人間が出てくるべきじゃなかったんです。清古と一緒に学校へ残っておくべきだったんだ。そうすれば由梨先輩を、こんな危険な状態にさらすこともなかったのに」


 言えば言うほど、自分が情けなくなった。

 間抜けな自分のせいで、理沙や由梨だけでなく、涼や明日香まで危険な目に合わせていることの責任に押しつぶされそうだった。

 溢れる涙を止められず、俺は再び目を強くつぶった。



 ――そのとき、俺の身体を由梨が優しく抱きしめてくれた。


 由梨の髪の香りが、俺の鼻孔をくすぐる。

 ああ。この香りは、中庭で理沙の尻の下敷きになって気絶したときに感じた香りだ。

 懐かしく、それでいて、ちょっと寂しくなるような……。


 そして、ゆっくりと由梨が、


「トキオさん。あなたに何の力もないことはないんですよ。私もあなたと一緒でなければ、なんの力もありませんから」


と言った。

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