カット4 紅茶
明日香がお盆の上に茶器を揃えていく。明日香の紅茶を淹れる手際はとてもよく、その流れるような動きを眺めているだけで楽しめた。俺は、レッスン室でピアノを弾いていた明日香を思い出した。
ティーセットを一通り準備し終えると、明日香は静かにトレーを持って俺たちのそばへ移動してきた。
「よかったら、まずは砂糖を入れずに飲んでみて、それから少しずつ砂糖を入れてください」
明日香は俺と理沙の横から、紅茶の注がれたカップと砂糖入れ、そしてお茶菓子のビスケットを置く。カップの中の紅茶は、これまで俺が見てきた紅茶の中で最も透き通って美しい色をしていた。
俺は少し吹いて紅茶を冷ましてから、ゆっくりと口にする。
「えっ! うまっ!」
直後、思わず俺は声に出していた。
飲んだ後に口内に残る独特なエグみや苦みが苦手で紅茶はあまり飲んでこなかったのに、この紅茶はそのようなものとは全然、別物だと素人の俺でもハッキリわかった。
「本当! すごく美味しい!」
俺の隣で理沙も驚きの声を上げる。
「あたしもお菓子に紅茶をつけるんだけど、こんなに美味しく淹れられないのよ」
あれほど明日香に敵対意識を燃やしていた理沙が素直に認めるぐらいなのだから、よほど上手に淹れてあるのだろう。
「喜んでいただけてよかったです」
明日香はまるで、紅茶ではなく自分が褒められたように、そこで初めて俺たちに笑顔を見せた。
その笑顔は正に名画の人物像のように美しく、俺は一瞬、目を奪われてしまった。理沙も同じようで、ポカンとした表情をしている。
「ロシアにいた頃から紅茶はよく飲んでいましたし、母も紅茶を淹れるのが上手ですから自然と覚えただけです。でも、やっぱり紅茶を淹れること自体、好きですね。ピアノを弾くのと同じくらい好きです」
そう言いながら明日香は、ティーポットに保温カバーをして俺たちの前に置き、
「よければ紅茶はまだありますのでお代わりをどうぞ」
と勧めつつ、自分は再び文庫の前に座って静かに読書を再開した。
何でもないことのように明日香は言っているが、ティーポットは映画で見るような本格的な品に見えるし、淹れ方にも俺たちには分からない
でも、明日香の先ほどの笑顔を見れば、そういう部分も含めて彼女が本当に紅茶を淹れることが好きなことがよくわかった。
そう思うと、いま飲んでいる紅茶の美味しさがそのまま明日香の内面を表しているようで、レッスン室前で会ったときの明日香の冷たい印象が知らないうちにとても柔らかいものに変わっていった。
そんな明日香が淹れてくれた紅茶を冷めないうちにいただいてしまおうと、俺は再び紅茶に口をつける。
そのとき、俺はなんとなく自分に向けられた視線を感じた。
それは先日、樫尾と芸術科のレッスン室へ明日香を見に行ったときに感じたものと一緒だった。
もしやと思い、俺が紅茶のカップから視線を上げると、やはりあのときと同様に明日香と俺は目が合った。
これはもう、俺の気のせいではないだろう。
「ねえ、明日香。この間も思ったんだけど、明日香って俺と会ったことがあるのかな?」
俺は先日から疑問に感じていたことを、明日香にぶつけてみた。
「すいません。ひょっとして視線が気になりましたか?」
明日香も謝りつつ、自ら俺を見ていたことを認めた。
「別に謝られることではないよ。でも、俺もあまり女子からジロジロ見られた経験がないから気になってさ」
ましてや、それが明日香みたいなブロンド美少女だったら尚更だ。
「トキオさんにお伺いしたいことがあるんです」
「なに?」
「ひょっとしてトキオさんは去年の夏、トラックとの接触事故を起こしかけませんでしたか?」
「どうしてそれを知ってる⁉」
俺は、明日香の意外な指摘に思わず椅子から腰を浮かせた。
一方の明日香は、俺の剣幕に驚くこともなく静かに話を続ける。
「私は、この枳高校へピアノの推薦で飛び級入学しているのですが、私の飛び級入学の話を後押ししてくださったのが緒女河家と由梨さんなんです」
へえ、そうなんだ。
まあ、緒女河家ほどの地位ならば、この枳高校の母体である刻文院学園へも多少の影響力はあるだろうから、そんなに意外ではないけど。
明日香のあのピアノ演奏を聴けば、才能を伸ばしてあげたいと思うのもわかる。
「それで、あの日は私の飛び級入学の話をするために、由梨さんと一緒に枳高校に来た帰りだったんです」
なるほど。枳高校も夏休み中だったはずなのに由梨が制服だったのは、学校の帰りだったからか。
「トキオさんが自転車で転んだのを見て、由梨さんはすぐにトキオさんのもとに駆け寄りました。私も助けに上がるべきでしたが、由梨さんが一人で大丈夫だと言うので、私は離れた場所で由梨さんをお待ちしていましたが。申し訳ありません」
「いや、全然謝ることはないよ。実際、怪我もしてなかったんだし」
逆に目を覚ましたとき、もし由梨と明日香のような美少女が二人も並んでいたら、間違いなく自分は死んで天国に召されたと思っていたことだろう。
心臓が止まらずに済んでよかった、と思ってしまうぐらいだ。
そうか。でも、これで由梨に確認する必要もなく、あの日、俺が出会った『麗しの君』は由梨で間違いなくなった訳だな。
「じゃあ、由梨先輩も俺があの時の中学生だって気付いてるのかな?」
「いえ。由梨さんは何も言っていないので、まだ気づいていないと思います。私も先日、レッスン室でお見掛けしたときは確信が持てなかったので、由梨さんにはお伝えしていません」
「それならよかった。これは自分の口から話したいし」
「わかりました。トキオさんから由梨さんに言うまで、このことは黙っておきます」
「よろしくね、ありがとう」
俺は明日香に頭を下げた。
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