カット5 ジョーとベンジャミン

 俺は、ダスティン・ホフマン主演の『卒業』も観たことなかったが、映画の最後に主人公の男性が、別の男性と結婚しようとするヒロインを結婚式場から連れ去っていく有名なラストシーンだけは知っている。


「トキオさんだったら、好きな人を連れて一緒に逃げてくれそうですね」

「はい。もちろん」


 あなたのためなら、地の果てまでも逃げて見せます。

 ――とまでは、恥ずかしくて言えなかったけど。


 由梨は、俺の即答に少し笑ったあと、


「でも、高校生の私たちでさえ、自分の好きなように生きていくことが現実の世界では不可能に近いことを知っています。そんなことはお伽噺でしかないと分かっています」


と言った。由梨の声は、先ほどよりも硬く、音の少ない部室の中に響いた。


「ましてや王室出身のアン王女は、ジョーへの確かな愛情を自分の中に感じつつも、自分の思い通りに生きていくことがどれだけ難しいことか、どれだけ色々な人に迷惑をかけることになるか、あの車内での別れのときに考えたのでしょう」


 そう語った由梨の表情は、ちょうど部室に差し込んできた夕焼けの逆光に照らされて、俺の方からはよく見えなかった。


「『卒業』のラストシーンも、一般的にはダスティン・ホフマン演じるベンジャミンが、愛し合うヒロインのエレーンを連れ去ってハッピーエンドという風に思われていますよね」

「え? 違うんですか?」


 俺は由梨に尋ねた。


「はい。結婚式場から逃げ出した二人はそのままバスに飛び乗ります。でも、笑顔だった二人は、バスが走り出してしばらくすると、お互い違う方向を見て少しずつ顔が曇っていくんです。これは『二人のこれからは決して安泰なものではない』ことを暗示する監督の意図した演出だったと言われています」

「へぇ、そうなんですか。てっきりハッピーエンドのお話なんだと思っていました」


 テレビで『卒業』のストーリーが引き合いに出されるときは、愛し合う二人が最後に真実の愛に目覚めて結ばれるといったイメージだったけど。


「あれほどドラマチックな結ばれ方をした大学生の二人でさえ、結ばれたその数分後には現実に押しつぶされそうになります。ましてやアンとジョーという大人の二人にとって、一緒に逃げるという選択はありえなかったのかもしれませんね」


 由梨は話し終えると、長机の上に広げていたノートに視線を落した。それはまるで、これ以上この話はしない、という意思表示のように見えた。


 俺はそんな由梨の姿を見ながら、一つ、問いかけたい衝動にかられた。



 ――あなたも、そうなんですか?



 由梨が、今の話を自分のことに置き換えて話していることは、俺でもわかった。


 オメガグループ創業家の娘という立場を、俺は本当の意味では理解してあげられないが、由梨の中で様々な思いがあることは感じた。

 好きな相手が他の人を好きという清古と、彼女とは事情が違う。

 彼女は、たとえ好きな相手と両思いだったとしても、場合によっては別々の道を歩まざるをえないと考えているのだ。


 では、そのとき、彼女の相手はどうするべきなのだ?

 もし由梨と自分にそのような時が来たとき、自分はジョーになるのか、ダベンジャミンになるのか、どちらなのだろうと俺は考えた。


 涙を呑んで大人になり、愛する女性との人生を思いとどまるべきだろうか。


『暴走機関車』らしく、自分の思いのままに愛する女性を連れ去るべきだろうか。


 そして、と考えた。


 由梨の表情からは、それを読み取ることは出来なかった。


 涼が部室の扉をノックする音が聞こえるまで、俺はそんなことをずっと考えていた。

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