シーン5 トキオ、三十三号室を訪れる

カット1 緒女河の名

 三十三号室の扉を開けると、傾き始めた春の穏かな日差しが、扉の正面に位置する窓から室内を薄明るく染めていた。


 部室は普通教室の半分ほどの大きさをした縦長の部屋だった。理科実験室の隣にある準備室ぐらいの広さだ。

 部屋の左にグレーのキャビネットが並び、部屋の真ん中には長テーブルが二つ、手前と奥に繋げて設置されている。キャビネットの中は西日で反射してよく見えないが、DVDケースや図鑑サイズの本が並べられているようだった。

 右の壁際に椅子のない学習机が一脚あって、その上に急速湯沸かし器と、この部屋には似つかわしくない高級そうなティーセットが置かれている。

「よく整理された」というよりも、殺風景と言えるほど物がない部室だ。


 長テーブルの周囲にはパイプ椅子がいくつか置かれていて、俺を呼び出した居衛戸は、そのパイプ椅子の一つに座ってミニパソコンに何か打ち込んでいる所だった。


「やあ、トキオくん。よく来てくれたね、ありがとう」


 居衛戸は手を止めて、その場で立ち上がりつつ俺に挨拶すると、目ざとく俺の後ろに立っていた理沙を見つけて、


「おや、理沙くんも一緒かい?」


と、にこやかに言った。

 いきなり爽やかだな、この野郎。


「居衛戸さんと緒女河さんに改めてお礼を言わなくちゃ、と思って」


 理沙が頭を下げる。


「そんなに気にしなくていいよ。それより、あれから身体のどこかが改めて痛んだりしていないかい? 君は本校女子サッカー部の期待の新人だと聞いたからね。何かあったら女子サッカー部の大きな損失になってしまう」

「はい、大丈夫です! ご心配いただいてありがとうございます」


 理沙が笑顔で居衛戸に頭を下げた。


 だから、落下するお前のデカいケツを受け止めたのは俺だぞ?


 俺は再び思ったが、恩を売ろうとするように聞こえるから口に出すのはやめた。昼のように、また理沙が落ち込んだりしても困るしな。


「それで、トキオくんも大丈夫だったかい? 午後の授業中にやっぱり体調が変わった、なんてことはなかったかな?」


 居衛戸が俺の方を見て聞いてきた。

 もともと呼び出されたのは俺のはずなのに、理沙のついでに聞かれたみたいになっている。別にいいけど。


「ご心配ありがとうございます。特に何もなかったっス」


 あれだけ居衛戸が人の不安を煽るので俺も気になってしまったが、午後の授業中も俺の体調はまったく問題なかった。

 昼飯抜きになったせいで腹がグーグー鳴るのを、周りの女子に聞かれないようにする方がよっぽど大変だった。


「ところで、緒女河先輩はどちらにいるんスか?」


 俺は話題を、最大にして唯一、興味のある話に無理やり変えた。


 正直、ここまで来たのは『麗しの君』に会えると思ったからだし、彼女に会えないならこんなクソイケメンと話している暇はない。


「彼女は今日、日直なので少し遅れている。もうしばらくすれば見えると思うよ。いつもなら日直を待ってでも教室から一緒に来るんだが、今日はトキオくんを呼び出していたので僕だけ先に来たんだ」


 一緒にだと? いちいち羨ましいな。


「そうっスか。じゃ、緒女河先輩が来るまで待たせてもらいます」

「あ、私も待ちます」


 理沙が手を上げて言った。


「理沙、サッカー部はいいのか?」

「お礼言わなきゃ帰れないでしょ。せっかくここまで来たんだし」


 せっかく来たんだしって、おばちゃんかよ。


 居衛戸は、むやみに敵意をムキ出しにしている俺に対しても、その爽やかな笑顔を崩すことなく、


「じゃ、二人とも座って待っていてくれたまえ。どこでも空いている椅子にかけてくれたらいい」


と言った。

 俺と理沙は居衛戸の向かいの席に、隣同士で座る。


「お客様には紅茶でも出すべきところなんだが、あいにく僕は紅茶を淹れるのが苦手でね。申し訳ない」


 なんだ。あんな立派なティーセットがあって、しかもこんなイケメンのくせに紅茶も淹れられないのか。

 俺は鼻で笑った。

 そんな俺はもちろん、紅茶を淹れるのが苦手どころか、一度だって紅茶なんか淹れたことがないんだけど。


「ところで由梨くんが来る前に、君たちに一つ、僕からお願いがあるんだが聞いてもらえるかい?」

「イヤです」


 めんどくさい。


「そんなに邪険にしないでくれよ。由梨くんについてのことなんだ」

「なんでも聞きます」


 それを早く言え。


「トキオ、ヒドくない?」


 理沙が眉をひそめた。

 仕方ない。自分に正直なだけだ。


「理沙くん、別に大丈夫だよ。さて、お願いと言っても大したことではない。由梨くんのことを緒女河の名字で呼ぶのは避けてもらえないか、というだけだ」


 居衛戸が机の上で手を組みながら言った。


 俺は少し考えて、


「それは例えば『緒女河先輩』ではなく『由梨先輩』と呼ぶようにしろ、ということですか?」


と尋ねた。


「そういうことだね」


 俺は試しに、頭の中の『麗しの君』に、何度か『由梨先輩』と呼びかけてみた。


「……幼馴染みの理沙ならまだしも、会ったばかりの緒女河先輩を下の名で呼ぶのは、さすがに気が引けますね」


 なんか照れちゃうじゃん。


「トキオくんの気持ちも分かるが、簡潔に言えば、あまり緒女河の名前を人前で呼ばないであげてほしい、ということさ」


 居衛戸は微笑みを崩さずに言う。


 なんだ、それ? 緒女河という名字にコンプレックスでもあるのか?


 などと俺が考えていると、


「それってやっぱり、由梨さんがオメガグループのオメガとなにか関係があるってことなんですか?」


 理沙が横から居衛戸に尋ねた。


「オメガグループって、あの?」


 ニュース番組には天気予報しか用がない俺でも、その名前と存在は知っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る