カット2 ピアノ

「やっと……着いた……」


 建物の八階まで階段で上がるなんてほぼ経験がなかったから、想像以上にしんどかった。

 考えてみれば、今日は昼休みの最後も本館四階までダッシュしたんだしな……。


「ここで俺の友達が待ってるはずなんだが……おい、トキオ! 早く来いよ!」


 樫尾も、階段を昇っているあいだは俺と同じぐらいフラフラしていたはずなのに、八階に着いたら急に元気になりやがった。


「――おい、ひょっとして、樫尾のお目当ては、あの人だかりか?」


 俺は、壁に並んだレッスン室のうちの一室にだけ、十五人ほどの生徒が集まっているのを指さした。

 男子生徒が中心だが、数人、女子生徒もいる。まさか、その美少女ってのが、もうこれだけ噂になっているのか?


「樫尾氏、こちらでござる!」


 俺が驚いていると、集団の最後方に立っていた眼鏡の男子生徒が、特徴的な語尾で樫尾に向けて声をかけた。


「おお! 七厨しちず氏、待たせた!」


 樫尾が七厨と呼んだ生徒のそばに駆け寄り、二人は固い握手を交わした。

 ……どうやらバカが一人増えてしまったようだ。頭が痛い。


「まずは何より、彼女を見てもらった方がいいでござる。ここから見えるでござる」


 七厨が場所をずれて、樫尾と俺に勧めてきた。樫尾が背伸びをしてレッスン室の扉の奥を覗き込む。


 俺も、一応覗いてみる。

 別に興味はないんだけど、ね。一応ね。


 防音扉の小さい窓から、ピアノを演奏する少女の姿が見えた。少女は扉のこちら側の喧噪などまるで気にしていないようにピアノを弾き続けている。


「おお、なるほど……」


 涼しげな表情を浮かべ演奏に集中している少女は、確かに息を飲むほど美しかった。

 細い眉の下の大きな目。まっすぐ伸びた鼻に色素の薄い唇。それらが色白の小さな顔にバランスよく配置されている。『麗しの君』に負けずとも劣らない美少女だ。


 ただ、何よりも俺が気になったのは――


「おい、樫尾。この子、ひょっとして外国人なのか?」


 ピアノを演奏する美少女は、すべての髪をリボンでまとめてお団子にしているのだが、その髪が眩しいほどの金髪なのだ。

 一目見ただけで、それが染めたものではない本当のブロンドヘアであるのがわかる。


「あれ、言わなかったか? ロシアと日本のハーフって話だ」


 聞いてねぇよ、この野郎。


「彼女の名前は、鷺瀬ろぜ・ソフィーヤ・明日香あすかちゃん。ロシアからの帰国子女で今年、この高校に入学してきたでござる」


 七厨がスマホのメモ帳を読む。

 お前も、そんな情報を誰から仕入れるんだ?


「しかも相当な才女のようで、飛び級で入学してきているでござる。入学は我らと一緒でござるが、年齢は一個下の十四歳でござる」


 七厨が続けて解説してくれる。

 情報源は謎としても、入学二日でそこまで情報を仕入れる君の情熱はすごいよ。

 さては、俺の昼休みの騒動を樫尾が知っていたのも、この男からの情報だな。


 しかし、飛び級入学とはな。本当に、そういう才女ってのはいるのか。

 好き好んでわざわざ一学年上の勉強をしようとするなんて、俺には想像もつかない。

 一年前の俺なんか、片思いの子にフラれる前で、本当にろくでもないヤツだったのに。


 鷺瀬のピアノは、さすが芸術科に入学するだけあって、異様に早いフレーズも表情を変えずに苦も無く弾いている感じだ。これぐらいは弾けなきゃ、飛び級入学なんて凄い挑戦はできないんだろう。

 今後も、ぜひ、この学校で頑張ってほしいもんだ。


「――さて、噂の女の子のご尊顔も拝めたことだし、そろそろ帰ろうぜ、樫尾」

「なに言ってるんだ! まだ見ていようぜ!」

「いや、俺は用事があるんだって」


 三十三号室が俺を待っているのだ。


「何をすかしてやがる! ブロンド美少女だぞ! お前はそれでも健康的な男子高校生なのか⁉」


 樫尾がいきなりブチ切れた。怖ぇよ。


「お、落ち着けよ。また見学に来ればいいだろ? とりあえず今日は帰ろうぜ」


 俺が樫尾に提案したとき、タイミングがいいのか悪いのか、鷺瀬が演奏をやめてレッスン室から出てきた。


 そこで鷺瀬の全身像が初めて見えた。

 身長は女子では高い方の160センチ後半と言ったところか。レッスン室前に集まっていた女子の中でも一番大きい。さすがハーフ。

 レッスン室が暑かったのか、制服のネクタイを取ってワイシャツの第一ボタンまで外し、ちょっと汗ばんでいたりしていたから、なんだかとてもエロい。これで理沙の一歳下なのか。さすがハーフ。

 そして、腕や足は柳のように細いのに、開いたワイシャツから覗く胸は、ピアノの演奏の邪魔になるんじゃないのと余計な心配をしそうなほどの巨乳だった。さすがハーフ。



「……惚れた」


 鷺瀬の全身をよだれが出そうな顔で眺めていた樫尾が呟いた。

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