シーン4 トキオ、ピアノの演奏を聴く

カット1 芸術科

 午後の最後の授業のチャイムが鳴った。


「急げ、急げ♪」


 鼻歌交じりに机の中の荷物を鞄にしまっていると、樫尾が俺に声をかけてきた。


「トキオ。なにをそんなに上機嫌で急いでいるんだ?」

「ああ、ちょっと二年生に呼び出されてな。B校舎へ今から行くんだ」


 俺は帰り支度を続けつつも樫尾の質問に答えた。


「入学して二日で先輩に呼び出されるって、おまえ、どんだけ不良なんだよ」


 樫尾が眉をひそめて言う。


「俺がそんなタイプに見えるか? ま、ちょっとした用だよ」


 あのイケメンに用はないが、『麗しの君』に用はある。


 ――あ。


「しまった。ハンカチ、先生に貸しちゃったんだな」


 そうだ、午前中のオリエンテーションで華瑠先生に貸したら、洗濯するって持ってかれちゃったんだ。

 せっかく『麗しの君』に会えたというのに、ハンカチを返せないではないか。


「どうした。やっぱり華瑠先生の体液が染み込んだハンカチ、惜しかったと思ったか?」

「だから違うわ。しかも体液って言うな。涙だろ」


 仕方ない。ハンカチを返すのは後日にしておこう。


「そういえばトキオ。お前、昼休みに中庭で大騒ぎ起こしたらしいな。呼び出しは、その騒ぎの関係か?」

「なんでその騒ぎを樫尾が知っているんだ? お前は中庭へ来ていなかったはずだろ?」

「俺の情報網を舐めるな」

「何者だよ、お前」


 樫尾がにやりと笑った。

 不気味だな、おい。


「あれ? トキオ、今からB校舎に行くって言ったか?」


 樫尾が思い出して言う。


「うん。B校舎二階の部室に呼び出されてる」

「ちょうどいいや。俺もB校舎に用事があるんだ。先に俺の用事に付き合ってくれよ」

「イヤだよ」

「即答かよ!」

「俺は少しでも早くそこに行きたいんだ。他の場所に寄っている暇なんかない」


『麗しの君』に会う以上に重要な用事などない。


「なんだよ、友達じゃねぇかよ。悪い思いはさせないからよ」


 なんだ、そりゃ。


 しかし、本人に自覚がなかったとはいえ、こいつのおかげで今日、華瑠先生が起こしかけたヒステリーから逃れられたのは事実だからな。

 仕方ない、一度ぐらいは付き合ってやるか。


「わかった、付き合ってやるよ。だから、早く準備しろ」

「オッケー! すぐ鞄持ってくる!」


 樫尾が自分の席に走った。


◇ ◇ ◇


「で、樫尾の用事があるのはどこだよ?」


 俺は樫尾と並んで、昼に大騒ぎした中庭を横に眺めつつ、B校舎へと続く渡り廊下を歩いていた。

 樫尾は少し言いよどんだあと、


「えーっとね、芸術科のレッスン室♡」


 と白状した。


「やっぱりおまえ、ひとりで行け。俺は行かない」

「なんだよ! 武士に二言はないだろ!」

「俺は武士じゃない! それに芸術科のレッスン室って、B校舎の最上階の八階じゃねぇかよ!」


 B校舎は近年増設された校舎のために最新設備が整っていて、もちろんエレベーターもあるのだが、エレベーターを使用していいのは教師と楽器を持った生徒のみと校則で定められていた。

 だから、俺たちのような一般生徒は階段を使わなくてはならない。

 つまり俺たち普通科の人間は、八階まで階段で上がらなくてはいけないということだ。


「いいじゃねぇかよ! 八階まで一人で階段上がるのヒマなんだよ!」


 樫尾が駄々をこねた。

 俺を誘ったのはヒマつぶしのためか。なめてるな、コイツ。


「ていうか、レッスン室なんて所に、樫尾が何の用事があるっていうんだよ?」

「よく聞いてくれた。実は特進科に入学した俺の友人から、芸術科一年のピアノ専攻にすげぇ美少女がいるって情報が入ったんだ。しかもいま、レッスン室でその子が練習中だっていうから、トキオがB校舎へ行くならついでに俺も、その美少女を拝みに行こうと思ってよ」

「入学二日目にしてそんな情報が入るって、お前の情報網は一体どうなってんだ?」

「照れるぜ」

「褒めてねぇよ」


 呆れてるんだ。


「いいじゃねえか、お前も美少女見たいだろ? 自分に嘘をつくなよ!」


 樫尾が俺に肩を組んでくる。

 コイツの中で俺はどういうキャラ設定になっているんだ?

 まったく、コイツは……。


「別に我慢はしてないけど、乗り掛かった舟だ。行くよ、行けばいいんだろ?」


 仕方ない、今日だけの我慢だ。


「さっすが、俺の親友!」

「なった覚えはない」

「またまた、トキオちゃんってばクール!」

「調子に乗ってるとホントに帰るぞ?」

「さ、行こうか、トキオくん」

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