カット2 ハンカチ

 ここで、話は今から半年前、あの運命の夕立の日の夜に戻る。


◇ ◇ ◇


 あの日、ボーっとした頭のまま家に帰りついた俺は、まずビショビショになった服を脱いでシャワーを浴びた。

 それから、雨はすでに止んでいたため、ギイコギイコと悲鳴を上げる自転車に再び跨ると、清古の家に向かった。

 清古には、一年間の片思いの決着をつけるために告白してくることを、昨日のうちに宣言してあったからだ。


「俺は恋に落ちた」


 清古の部屋に入り、フローリングに直で胡座をかくと、すぐに俺は言った。


「おお、そうか! じゃあ、告白は成功したんだな、おめでとう!」


 清古は運んできた麦茶をコースターとともに俺の前に置き、自分は勉強机の椅子に座ると、自分の麦茶のコップを乾杯するように持ち上げた。


「いや、告白は失敗した」

「は?」

「その恋は終わって、また新しい恋に落ちたんだ」

「おい、ちょっと待て。今日一日でお前に何があった? 順を追って話してくれ」

「なんだ、仕方ないな」


 そうして俺は、その日に起きたことをありのままに話した。


 告白した相手には見事にフラれたこと。

 泣きながら帰ったこと(ここで一度、清古に爆笑された)。

 トラックとの接触事故をギリギリで避けられたこと。

 そして、その少女に出会ったこと。


「清古。俺は恋に落ちた」


 全ての説明を終えたあと、改めて俺は清古に告げた。


「んー、そうか。あの子は脈アリだと思ったんだけどな。フラれたのか……」


 俺が、この日の告白を決意するに至った、告白成功のお墨付きをくれた友人というのは、何を隠そうこの清古である。


「うん。お前のアドバイスの甲斐もなく、残念ながらフラれた」

「なんだかトゲがある言い方だな。悪かったよ。でも、それほど残念そうでもないのは新しい恋のおかげってことか」

「うん、恥ずかしながら」

「それほど恥ずかしそうでもないな。で、その新しい恋のお相手っていうのはどんな人なんだ?」

「とにかく、すっげぇ美人だった。そんじょそこらのアイドルとか女優なんかより、よっぽど綺麗だった」


 もちろん俺も、そんじょそこらのアイドルや女優というものがどんなものかは知らないけど。

 こういうとき、自分の浅はかな語彙力が恨めしい。


「しかも、自転車でコケた俺の心配をして、このハンカチまで貸してくれたんだ」


 俺は清古にハンカチを見せた。

 そのハンカチには、オシャレとは縁遠い俺でも知っているほど有名な高級アパレルブランドのロゴマークが入っていた。


「こんな高級ハンカチを、こんな得体の知れない男へためらわずに貸してくれるんだから絶対にイイ人だ」


 俺はハンカチを両手で持って天井に掲げた。

 ハンカチの向こうにあの少女の笑顔が見えるようだ。


「トキオくん、好きよ」


と少女は言っていた。

 もちろん妄想でアフレコした。

 本当は、「大丈夫ですか?」という口の動きしかしていなかった。

 妄想の中でも彼女は親切だった。


「それなら、まずはそのハンカチのお礼をしに行くのが第一だな。どこのなんて名前の人なんだ?」


 清古が俺に尋ねた。


「ん? 名前?」

「そう、名前」


 俺は、少女との会話の遣り取りを一言ずつ思い出した。


「あれ?」

「……おい、まさか、お前」

「しまった。彼女の名前、聞いてないわ」


 名前、聞き忘れちゃった。


 少女のあまりの美しさに気を取られ、名前を聞くなんて考えが思いつかなかったのだ。


「何やってんだ。ボーッと見惚みとれていただけか」

「チャリでコケたショックも覚めないうちにとんでもない美人を見たから、それどころじゃなかったんだよ」

「勢いばかりがいい『暴走機関車』のトキオらしくないな」


 清古が笑いながら言う。

 この『暴走機関車』という渾名も、清古からつけられたものだ。

 考えるよりも先に身体が動いてしまう俺に、親しみを込めてつけてくれたと信じているが、清古の様子を見ているとだいぶ怪しい。


「でも、さすがに名前も聞いてないんじゃ、もう会うこともないだろ。諦めとけよ」

「無理だ。諦められん」


 清古の言葉に、俺は間髪入れずに答えていた。

 それは自分の口から出たと思えないほどハッキリとした口調だった。

 自分でも驚いたが、俺は本気で彼女に恋をしているらしい。


 驚いたのは清古も同じようだった。


「……ずいぶん、マジなんだな。茶化して悪かったよ」


 清古は一呼吸置くためか、手元の麦茶を一口飲んだ。


「しかし、手掛かりが何もないんじゃ人捜しは難しいだろ」

「このハンカチがあるけど、どうだ?」

「一応確認するが、ハンカチに名前なんか入ってないよな?」


 俺はハンカチを広げて表裏を見てみる。


「入ってないな」

「今時、ハンカチに名前を入れるようなヤツもいないか」

「俺はハンカチに名前入れてるぞ」

「お前はまず、お母さんがわざわざ名前を入れてくれたそのハンカチを持ち歩く習慣を身につけろ」

「確かに」


 今日も公園の水飲み場でハンカチがなくて困ったもんな。


「仕方ない。明日から、彼女に会った交差点で一日中、立ってるわ。ワンチャン、同じ道を通るかもしれないし」


 手がかりがあの交差点しかないのなら、そこに賭けるしかない。


 しかし、清古がため息をついて、


「トキオ、明後日から二学期だぞ? 中学はいつ通うつもりだ」


と呆れて言った。


「ああ、そうだった。忘れてた」


 夏休みボケしていて、てっきり忘れていた。学校に通わなければ。



 あれ? そういえば、学校って……。


「そうだ、制服、着てた! あの人、どこかの学校の制服だった!」


 あまりに美しい顔が印象に残り過ぎて、少女が着ていた服の特徴を忘れていた。

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