カット3 出会い

 気づくと、俺はアスファルトへ大の字で仰向けになって寝転がっていた。


 自転車のペダルがカラカラと回る音が聞こえ、まだ薄ボンヤリした視界には紫色の大きな雨雲が広がっていた。



 ――俺は死んだのか?



 迫ってくるトラックの映像が忘れられず、ぼんやりとそんなことを考えていたが、どうも様子がおかしい。

 背中にはアスファルトの感触があるし、呼吸もしている。

 転んだ衝撃は身体に残っているものの、怪我もしていないし頭痛もない。


「助かったのか……」


 擦れた声で俺は呟いた。


 あのまま交差点に突入してトラックに撥ねられるしかないと覚悟したが、奇跡的にうまく避けられたようだ。

 今日はついてないと思っていたけど、こうして命拾いしただけマシかもな。

 俺は、大の字に寝ころんだまま、涙と雨に濡れた顔を再び手のひらで拭って、何度か目をまたたいた。



 やがて、ボンヤリとしていた視界が次第にハッキリしてくると、紫色の雨雲だと思っていたのが大きなコウモリ傘であることに気づいた。

 そういえば、足元にはまだ雨が当たる感触があるのに、顔には雨が当たっていない。


 その時、俺の視界の端から、そばで屈んでいた少女の顔が覗いてきた。

 その顔を見て、俺は息をのんだ。



 少女は圧倒的に美しかった。



 ストレートの真黒な髪が肩まで伸びている。雨粒が乗りそうなほど長い睫毛に縁どられた、大きくて少し茶色がかった瞳はまるで宝石のようで、そのまま俺は吸い込まれてしまうのではないかと錯覚した。

 やがて、すらりと伸びた高い鼻の下の小さな唇が開き、白く綺麗に整った歯が見えるのを、俺は呆然と眺めていることしかできなかった。


「大丈夫ですか?」


 少女の唇から聞こえたのは、とても優しい響きの声だった。


「トラック、危なかったですね。ご無事でよかったです」


 そして、俺の全身を見る。


「怪我はないようですけど、雨でビショ濡れになっちゃいましたね」


 傘を持つ手と反対側の肩に掛けていたトートバックから白いハンカチを出して、


「よかったら、これを使って下さい」


と言いながら俺に手渡してきた。

 俺は、「ああ」とか「はい」などと言いながらハンカチを受け取ったと思う。


「事故は避けられましたけど、少し気分が悪くなるかもしれません。しばらく休んでから帰った方がいいです」


 それから細く美しい人差し指を上にピンと伸ばして、俺に向けて少し怒った顔をした。


「でも、気をつけて。今度はキチンと前を向いて自転車に乗ってください」


 そう言って微笑むと、少女は空を見上げる。


「どうやら雨も上がったようですね」


 少女はゆっくり立ち上がると、俺にかからない方向へ向けて傘の水気を切ってから丁寧に傘をたたみ、


「では、失礼します」


と言って軽く会釈し、俺に背を向けて歩き出した。




 俺は、少女に対して自分がどんな受け答えをしていたか、まったく思い出せなかった。

 手には、少女の貸してくれたハンカチが握られたままである。




 夕立は、失恋も洗い流してくれた。




 そして神様は、俺の女神まで連れてきてくれたのだった。

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