第16話 真打登場 貧相な化けの皮をはげ!
立ち昇る粉塵の向こうに、一つの人影が見える。
「あれはっ!」
喉から迸りかけた驚愕の叫びを、耶磨人は呑み込んだ。
亀裂だらけの路面に佇む、赤ら顔やや太め系しょぼくれ中年男――繭椿だ。
「やってくれましたね。けくけくけく」
窮地に立たされているにも係わらず、繭椿は何故か、にたにたと笑みを浮かべている。
「けっ、やけに上機嫌じゃねえか」
百多郎が笑いながら繭椿を睨みつける。
「だって、もはや笑うしかないでしょう」
笑っていなかった。繭椿は額に幾筋もの皺を刻み、憤怒に歪めた唇を、わなわなと震わせていた。
「観念しろ。もはや貴様に勝ち目はない」
萬が冷徹な口調で繭椿に諭す。
「ふぇっふぇっふぇっ、どうでしょう」
繭椿の眼が、怪しい輝きを放つ。
大地を、天空を、再び無数の妖が覆い尽くす。
「さっきみたいに簡単にはいきませんよ。それにもう結界を切ることはできませんから。私が完璧に封じた上に、補強をしておきました」
繭椿が、この上なく自信たっぷりの口調で言い切った。
「けっ、参ったなあ、こりゃあ。」
百多郎は苦笑を浮かべながら頭を抱えた。
苦笑が押し殺したような笑いになり、やがてそれは大笑いに変わった。
「もも、さん?」
耶磨人が心配そうな表情で百多郎を覗き込む。
「いやあ、だってよう、笑うしかねえだろ」
不意に、百多郎の表情が真顔になる。
「また大暴れ出来るんだぜ」
百多郎は懐から紙を数枚取り出すと、大きく腕を薙ぎ、ばら撒いた。紙は瞬時にして形状を変えていく。
狛犬と無見猿・無言猿・無聞猿――百多郎の御助け式神軍団だ。
「耶磨人、これ持ってろ」
徐に、百多郎が耶磨人に何かを投げてよこす。慌てて受け止める耶磨人。その様子を、萬が驚きの表情で見ていた。
幅三〇センチ、長さ一メートル程の持ち手のついた板――盾だ。
「俺の盾だ。使い方によっちゃ武器にもなる」
「ももさんは?」
驚いて耶磨人は百多郎を見た。
「俺は矛があれば十分だ。いいか、耶磨人」
「はい」
「珠姫達を守れ、いいな」
声を掛ける百多郎に、耶磨人は黙って頷いた。
「皆の者、かかれっ!」
繭椿の甲高い声が響く。
うおおおおおおおおおおおおおおおっ
地響きのような怒号が湧きおこる。
同時に。
難を逃れた餓鬼やげじげじ人達の残党が、わさわさと百多郎を取り囲む。
「邪魔だっ! どけっ!」
百多郎が大きく矛を薙ぐ。
おぞましい悲鳴と共に、餓鬼達は次々と両断され、灰と化していく。
「来るぞっ」
萬の鋭い声が、張り詰めた緊張感を生む。
襲いかかる妖軍団。
刹那。萬の手から、蒼い光が弾ける。閃光は瞬時にして形状を結び、一振りの太刀と化すや、迫り来る妖達を容赦無く切り裂く。
瞬時にして、無数の妖達が黒こげになり、消えた。
躊躇する後続の妖達。
次の瞬間、疾風が妖達を呑みこみ、容赦無く引き裂いていく。猪熊の鎌鼬だ。
その横で、珠姫が跳躍。紅蓮のオーラが、激しく脈打つプロミネンスとなって彼女を包み込む。同時に、跳びかかろうとした餓鬼や鬼魂がばちばちと燃え上がる。子供ふぜいがと明らかに油断していた輩達に、戦慄の表情が浮かぶ。
「うりゃああああっ」
気合いと共に突きあげた珠姫の拳から、黄金色の雷光が渦巻きながら空を駆り、思案する妖どもを容赦なく貫く。
アクティブな珠姫とは対照的に、珠璃は静かに印を結び、手刀で空を切った。
刹那、彼女を取り巻いていた妖達の身体は、まるで鋭利な刃物で切り裂かれたかのように、音一つたてる事無くずりずりと崩れ落ちて行く。
百多郎の放った式神達も、圧倒的な強さで、妖達を蹴散らしていた。狛犬は牙と咆哮で、雉は嘴と羽で、イケメン猿三人組は得意の如意棒で、絶え間無く現れる妖に臆することなく、突き進んでいる。
(みんな、凄いな)
耶磨人は嘆息を突いた。彼は悟った。自分が、みんなに守られている事に。気が付くと、みんなは彼に背を向け、妖と対峙しているのだ。
最強の円陣の中に、彼はいた。
ほっとした安堵感の中に、やるせない悔しさがむくむくと頭をもたげていた。
(今の自分は、何も出来ない)
この上なく切ない劣等感が、耶磨人を耐え難い苦痛となって意識を苛んでいく。
耶磨人は、百多郎が手渡してくれた盾を、まじまじと見つめた。
(この盾で、何が出来るんだろう)
珠姫達の様に、攻め入る事も何も出来ない。今の耶磨人は、まさしくこの盾そのものだった。
でも。
百多郎は言っていた。
使い方によっては武器にもなると。
(考えろ。考えるんだ)
前線を突っ走る百多郎の前を、無数の妖達が幾重に取り巻き、行く手を阻んでいる。
(あのままじゃ、いくらももさんが強くても、繭椿と対峙するまでに体力を消耗してしまう)
耶磨人は苛立ちに身を焦がしながら、ぎりりと奥歯を噛み締めた。自分を守る為に、萬も猪熊も自由に動けない。式神達もそうだ。術者を助けるのではなく、耶磨人の守護に徹している。
(確実に、俺が足をひっぱっている……分かっている、分かっているけど……)
焦燥を裏打ちするかのように忍び寄る恐怖心が、耶磨人を足止めしていた。己自身が生み出した心の足枷だった。
(やるしかない……やるしかないんだ……迷ったら、負けになる)
耶磨人は大きく息を吸い、そして吐いた。
「せやあああああああっ!」
気勢と共に、耶磨人は円陣から外へと躍り出た。
「耶磨人!」
背後で珠姫の呼ぶ声が聞こえる。
が、耶磨人は立ち止まらない。
突然暴走し始めた標的に、妖達は驚喜しながら跳びかかる。
耶磨人は盾を構え、ひるまず進む。
わらわらと群がる妖。何匹か盾にぶつかる。鈍く重い衝撃に、耶磨人は歩みを止めた。
耶磨人に反撃する力が無いと知るや、妖達は歓喜の奇声を上げながら彼に群がった。
(自分の身一つ守れなくてどうするっ!)
「畜生めえええええええええっ!」
耶磨人は咆哮を上げた。不甲斐無い自分自身と、そんな彼に容赦無く襲い掛かって来る妖達への怒りを込めて。
「耶磨人君!」
猪熊が叫びながら印を結ぶ。
「待てっ!」
それを制する萬。
刹那。
耶磨人にとりついている妖達の動きが、ぴたり、と止まった。同時に、妖の身体が急速に膨れ上がる。
弾けた。
乾いた粉砕音とともに、妖達の身体が瞬時にして灰と化していた。
次々に砕け散る妖。その中に、悠然と佇む耶磨人の姿があった。
白銀色の夥しいオーラを放ち、盾を誇らしげに掲げている彼の姿が。
「この盾、すげえ」
耶磨人が、声を震わせて呟く。
「違うな耶磨人。それはおまえの力だ」
いつの間にか横に佇んでいた萬が、微笑みながら耶磨人に囁いた。
「えっ?」
耶磨人は驚きの表情で萬を見た。
「霊人の武器は常人には持つどころか、触る事など出来ない。本来、実体無きものだからな。耶磨人はそれに触れ、使いこなしている。そなたには、それだけの霊力があるということ。たいしたものだ。流石、じいちゃんの見出した子孫だけある」
萬の言葉に、耶磨人は先程不可解に感じていた彼女のある反応の意味に気付いた。百多郎から彼が盾を受け取った時、萬が浮かべた驚き表情の意味はこれだったのだ。
「萬さん……」
「もっと自信を持って良いぞ。見てみろ、私が会話に講じていても、妖達は一匹も襲ってこない。何故だか分かるか?」
「そういえば――」
「おまえが私を守っているんだ。その力でな」
萬の言葉に、耶磨人は周囲を見渡した。耶磨人を中心に、燃え上がる白銀色のオーラが半径約十数メートル四方の結界を創っていた。
「これが、俺の力……」
耶磨人は震えていた。震えが、止まらなかった。恐怖からではない。武者震いだ。急速に、それも止めどもなく込み上げてくる歓喜と興奮を抑えきれない余りに、手足が小刻みにハイなリズムを刻んでいく。
同時に、彼を包むオーラが黄金色の波動と化し、更には噴流となって妖の群れを襲い、次々に焼き焦がしていく。
「耶磨人、じいちゃんを援護するぞっ!」
「はいっ!」
萬に答える耶磨人。
盾も使い方によっては武器になる――百多郎の言った台詞の意味を、耶磨人は実感していた。動けばいいのだ。動けば、守備も攻撃となる。
盾を掲げ、耶磨人は走った。
妖達に動揺が伝播する。奴らにとっては想定外のダークホースの出現に、明らかに戸惑いが生じていた。その迷いが、奴らの運命を決めた。逃げ遅れた妖は容赦無く結界の洗礼を受け、瞬時にして灰と化していく。戦い方としては地味だが効果は思いのほか抜群だった。
百多郎に群れていた餓鬼や妖達も、思わぬ伏兵に統制を失い、あたふたと四散した。
繭椿と百多郎の間を遮っていた障害物が、瞬時にして消滅する。
「うぬっ、何をしておるっ!」
繭椿が憤怒の表情で逃げ惑う妖達に罵声を浴びせる。
刹那。
影が、繭椿の眼前に踊り出る。
百多郎だ。
百多郎の矛先が、真っ直ぐ繭椿の額を貫く――止まった。
矛先をターゲットに向けたまま。
その距離約一メートル。
百多郎は驚きの表情を浮かべたまま、身じろぎせずに静止している。
繭椿は、無表情のまま、軽く手を振った。
不意に、百多郎の身体が猛スピードで後方へ吹っ飛ぶ。
街路樹を何本も薙ぎ倒しながら、素っ飛び、止まった。
「ももさん!」
耶磨人の絶叫が響く。
「くそったれがああああっ!」
百多郎は跳ね起きると、再び宙空を滑るように跳んだ。
もはや、彼の進路を阻もうとする妖はいなかった。耶磨人のオーラによるガードだけでない。ただならぬ百多郎の気迫が、妖達の動きを完璧に封じ込んでいたのだ。
百多郎の矛先が、再び繭椿を狙う。
止まった。
さっきと同じく、約一メートルの間隙をおいて。
「てめえっ!」
百多郎は、かっと見開いた眼で、繭椿を凝視した。
繭椿は先程と同様顔色一つ変えずに、今度は手を大きく横に薙いだ。
百多郎の身体が、真横に数百メートル程吹っ飛ぶ。
巻き添えを食った妖達が、百多郎の気に触れ、次々に灰と化していく。
「おい、いい加減そのうす汚ねえ皮を脱ぎやがれっ!」
百多郎はゆっくりと身を起こすと、憤怒に身を焦がしながら咆哮を上げた。。
「ほう、あなたにはお見通しなのですね」
繭椿は不似合いなまでに口元を吊り上げ、皮肉たっぷりの笑みを浮かべた。
「ひょっとして、それ故に真の力が出せぬとでもいうのですか? 甘いな。そんなんじゃ私には勝てない。絶対にね」
繭椿は嘲るような口調で言うと、からからと乾いた笑声を上げた。
百多郎は動かない。
ただ沈黙を守りながら、じっと繭椿を見据えていた。
「我々には、この競技場は狭過ぎるようですね。少々広げましょうか」
繭椿が意味深な笑みを浮かべると、右手を横にゆっくりと上げ、肩と同じ高さになると、今度はゆっくりと掌を開いた。
繭椿の右掌の中で、何かが起ころうとしていた。凄まじい気の噴流が渦巻きながら巨大な球体を築く上げて行く。
気は、不快に満ちていた。
妬み、歪み、僻み……人間の浅ましき本能をじっくりと練り込んだ気の塊。それらはただならぬ殺気を秘めながら、見る見るうちに大きく巨大化し、ほぼ繭椿の身長と同じ背丈の径の球体にまで膨れ上がる。
百多郎が空を駆る。
かっと見開いた両眼の奥に、黄金色の光が宿る。
刹那。
黒い影が繭椿の頭上に迫る。
耶磨人だ。
盾を縦に構え、その先端を繭椿の額に狙いを定めている。
止まった。中空にぴたりと。
当たってはいない。額までコンマ一ミリの所で盾は停止していた。
繭椿は眉間に深い皺を寄せると、左手でそれを払った。
強烈な推進力が耶磨人を襲った。
大きく弧を空に描き、耶磨人の身体が素っ飛んでいく。
次の瞬間、繭椿の表情が驚愕に強張る。
百多郎の矛先が、繭椿の頬を掠める。
止まらかった。
百多郎の一撃は、繭椿の結界を打ち破っていた。
繭椿の頬に一筋の赤い軌跡が流れる。矛の刃が施した反撃の洗礼だった。
「ふごおおおうっ」
繭椿は怒りに身を震わせながら、獣じみた咆哮を上げた。
百多郎の身体が大きく弧を描いて吹っ飛ぶ。
繭椿が軽く右手を上下に振る。
同時に、負のパワーに満ちた気の球体が猛スピードで真横に移動する。
その先には、「ワールド・アイズ」。
漸く、耶磨人は気付いた。繭椿が競技場を広げましょうと言った、その言葉の意味が。
(ワールド・アイズを潰す気だ。中にいる人もろとも)
不意に、上空から閃光が走る。
百多郎だ。
超高速で宙空を滑走。
接触。矛先が、巨大気塊を裂く。
同時に、強烈な気の波動が四散する。
百多郎は、ゆっくりと立ち上がる。が、すぐに片膝をついた。肩が大きく上下し、息が荒くなっているのが、耶磨人にもはっきりと見えた。もう既にかなりの霊力を消耗しているのだ。
(このままいきゃあ、俺は確実に地面に叩きつけられる。ももさんなら大丈夫だろうけど、生身の身体の俺じゃあ、まず助からないな……)
恐らく、今の百多郎には耶磨人を救う余裕はない。自分の身は、自分で守る。それが出来なければ、それまでだ。
彼は、そう自覚していた。
耶磨人は耶磨人なりに覚悟を決めていたのだ。自分自身、かなりの放物線を描いて素っ飛んでいる。これが、落下に転じるのも時間の問題だった。
の、はずだった。
の、はずなのに。
落ちない。
(何故?)
耶磨人は気付いた。過ぎ行くはずの風景が静止している事に。
止まっていた。
否、浮かんでいるのだ。中空に。
「間にあったようだな」
鈴を転がすような透き通った声が、耶磨人の背後から響く。
「えっ?」
耶磨人は驚きの声を上げると、慌てて振り向いた。
淡いブルーの長髪に、スリムな体躯。白い着物といった和装の超美少女。歳の頃は十代後半と言ったところか。大きな澄んだ瞳は真っ直ぐ耶磨人を見つめている。
「安心しろ。私の名は『偉智』。そなたの守護神じゃ」
少女は戸惑う耶磨人にやさしく微笑んだ。
「すまなかったな。この時期は出雲に呼ばれるのでな、やむなく御前を守ってやれんかった」
「いえ、そんな、滅相もございません」
がちがちに緊張しながら恐縮する耶磨人に、偉智は苦笑を浮かべた。が、次の瞬間、彼女の表情が強張った。
繭椿が再び魔気の巨塊を生みだしていた。それも一気に数個の、しかも先程の倍以上の超特大サイズ。
「いかん、皆を救いに行くぞっ!」
偉智は血相を変えて叫ぶと、耶磨人の腰に手を回し、飛んだ。
風が、轟と音を立てて耶磨人の耳元を過ぎて行く。
繭椿は口元を醜く歪めると、自分が生み出した戦慄と畏怖の融合的芸術作品を見上げながら、満足げな笑みを浮かべた。刹那、魔気の巨塊が四散し、百多郎を、耶磨人達を、ワールド・アイズを襲う。
百多郎が跳躍。
立て続けに二個両断。裂烈する気の衝撃が、百多郎と彼を遠巻きに取り巻く妖達を呑み込む。
一瞬にして灰と化す妖達。だが、百多郎自身もその反動で偉智達の足元まで吹っ飛んで来る。
それを追うように飛んで来る二つの魔気。
偉智の眼に、鮮烈な白光が宿る。
刹那。
夥しい白い光の渦が、萬達を包み込む。
光のプロミネンスが荒れ狂う波頭の如く燃え上がり、魔気を取り込んだ。
魔気が、水風船の様に弾ける。
が、気は四散し暴走することなく、白い光の中で急速に収縮し、消えた。
「何!」
繭椿の顔に、初めて動揺の色が過った。
偉智は耶磨人を抱えたまま、呆然と佇む萬の傍に音一つ立てる事無く降り立った。
「耶磨人、無事か! あっ、ばあちゃん!」
萬は、驚愕と安堵の入り混じった表情で偉智を見た。
「え、ばあちゃんって?」
耶磨人は呆気にとられた面相で偉智を凝視する。
「萬は私の孫じゃ」
「じゃあ、ももさんは――」
「私の夫じゃ」
事も無げにさらりと答える偉智に、耶磨人は愕然とする。
「ばあちゃん、大変だっ! ワールド・アイズがっ!」
血相を変えて叫ぶ萬。耶磨人は我に返った。魔気の塊は計六個あったのだ。
「大丈夫じゃ」
偉智は落ち着いた口調で答えた。
「大丈夫って? あっ! ぶつか――」
耶磨人の眼に、巨大卵型ドームにゆっくりと喰い込む、二つの超巨塊魔気が映っていた。
否。喰い込んじゃいない。
潰れている。
二つの超巨塊魔気は、まるで限界まで膨らんだ挙句に空気の抜けた焼餅の様に、急激にひしゃげると、空間に呑み込まれるかのように消えた。
仄かに紫を帯びた、とてつもなく清廉された光のカーテンがワールド・アイズを静かに包み込んでいた。これが眉椿の魔気を破壊したのだ。
「この光、何処から……? 」
耶磨人は目を見張った。ワールド・アイズの上空に、明らかに在り得ない物体がゆったりと佇んでいた。
亀だ。
しかも、その大きさは半端じゃない。
甲羅だけでもワールドアイズをすっぽりと覆い隠してしまう大きさだ。その上、甲羅の後部はもっさり藻が生え、腰蓑状態になっている。
紫色の光のカーテンは、その巨大亀から降り注いでいた。
「偉智ちゃあああああん」
甲羅の上で、おかっぱ頭――もはや死語かもしれないが、レトロなショートヘアーのこと――の少女が手を振っている。
「珠ちゃん遅いよおっ」
偉智はぷっくり頬を膨らませると、やや不満げな口調で珠ちゃんに答えた。
「偉智、さん。今のは……」
耶磨人は見てはいけないものを垣間見たかのような表情で、恐る恐る偉智に尋ねた。
「あ、あやつは味方じゃ。私の昔からの友でな」
偉智は極めてきりっとしまった真顔で耶磨人に答える。
「えっ、て言うより、今、思いっきりキャラ変わってましたよね?」
「気のせいじゃ」
妙な方向から絡んでくる耶磨人に、偉智は何事もなかったかのように答えた。
その直後、上空から、おかっぱ少女が、ふわふわふわりと重力を全く感じさせない速度で降りてくる。
「ごめんねえ。やっぱ偉智ちゃん速いもんね。東方神亀も頑張ったんだけどね」
珠ちゃんはそう言うと、ワールド・アイ上空で漂っている巨大亀を眩しそうに見上げた。
「あのう、トウホウシンキって……あの亀?」
訝しげに問う耶磨人。
「いかにも。東方を守る神の使いの亀、故に東方神亀じゃ。神界じゃあ、五本の指に入る俊足じゃ」
誇らしげに答える珠ちゃんを、耶磨人はあんぐりと口を開けたまま見つめた。
「珠ちゃん――さんも、何気にさっきとはキャラ変わってません?」
「気のせいじゃ」
耶磨人の素朴な疑問に、珠ちゃんはあっさりと切り返す。
「ばあちゃん、助けに来てくれたの?」
珠姫が満面に笑みを浮かべながら、おかっぱ少女を見つめた。
「珠姫! おんやまあ珠璃まで、どうしたのお? ゆめしまでとんでもない事が起きてるって聞いて飛んで帰って来たんだけど、御前達、まき込まれていたのかい?」
驚きの表情のおかっぱ少女と、珠姫、珠璃の姉妹が手を取り合って、思わぬ再会?の喜びに和気藹々となっていた。
そこに、ひょろっとハイパー驚愕顔面麻痺状態の耶磨人が加わった。
「あのおおお、おばあちゃんって、ひょっとして……」
「そう、そのひょっとして。うちのばあちゃん」
珠姫が、平然とのたまう。
「え、でも、寝たきりなんじゃあ」
「此処にいるのは魂。ばあちゃんは生きながらにして神格化してるんで、この時期は魂だけ出雲にいってんのよ」
「え、なんで?」
「今、何月か分かる?」
「何月って、十月――あっ、神無月!」
「そう言う事。今月は一年に一度全国の神々達が出雲に集まって会合を開く重要な月よ。だから、私と姉ちゃんの守護神様もお留守って訳」
珠姫は笑みを浮かべながら耶磨人に答えた。不思議と、今までみたいに小馬鹿にしたような見下した感じは無い。自分に自信を持ち始めた耶磨人の行動が、知らず知らずの内に彼を見る珠姫の心境に何らかの変化を齎したのは明らかだった。
「投降しろっ! こうもしているうちに、大神様達が大挙して押し寄せる事になる。そうなれば、もはや貴様に情けを掛ける間もなく裁きが下されるであろう」
萬が、厳しい口調で繭椿に言い放つ。萬の発した言霊は、もはや最終宣告とでも言うべき緊張に満ちた重い響きを奏で、繭椿の意識を包囲し、追い詰めていった。
「くうううううううっ」
繭椿は悔し紛れに呻きながら、きりきりと歯ぎしりをした。
「萬よ」
不意に、偉智が萬の耳元で囁く。
「残念じゃが、他の神々は来れぬ」
「来れぬ? まだ会合は終わっていないのか?」
「終わったのは終わったのじゃが、打ち上げの最中でな。酒がはいっとるから、動くに動けないのじゃ。飲酒運転になっちまう。わしらは今回幹事役で呑む余裕が無かったから、すぐに動けたがの」
「そうか、やむ追えぬな」
吐息をつく萬。
「え、ちょっと、それ何? 良くわかんないんですけどおっ!」
耶磨人が憮然とした表情で叫ぶ。
「今の御言葉を聞いて、正直ほっとしました。私にもまだ勝機がある」
繭椿は不敵な笑みを浮かべると、殺意に満ちた冷酷な目で偉智を見据えた。が、当の偉智は怯むどころか呆れた表情で腰に手を当てると吐息をついた。
「おい、そこの。いい加減にその皮を脱ぎ棄てたらどうじゃ」
偉智が、妙に緊張感の無いのんびりした声で、繭椿に向かって叫ぶ。
「そいつは、ネガティヴ百パーセントの男じゃ。そんなもん被っていると、おぬしの力は解放されぬぞ。このままじゃあ、どうころんでもわしらに勝てん」
「うるさい、黙れっ! 何を訳の分らぬ事を」
「まだとぼけるつもりか? 正直わしゃ、信じられん。よくぞそんな皮、被ってられるの。そんな××の臭い男のどこがいい?」
偉智が、甲高い声で繭椿を嘲り笑う。
「ちょっと偉智さん、何が何でも過激過ぎます。セクハラで訴えられますよっ!」
「うううううううううっ」
繭椿は茹で蛸の様に真っ赤な顔で偉智を睨み付ける。
「やーい、やーい、××に××で××の臭い御前なんか相手にもならねえ。ちょろいもんだって、こやつが申しておるぞおう!」
偉智はそう囃したてると、ひょいっと耶磨人を指差した。
「ちょっ、ちょっ、ちょっと待ったあっ! それはねえよ偉智さんっ!」
耶磨人は、ぱっくり眼を見開くと、慌てて偉智に喰らい付いた。
「そうですよう、酷過ぎますよう」
不意に、耶磨人の横でさめざめと泣く男のか細い声が聞こえる。
振り向いた耶磨人の顔が、驚愕と憤怒のスペシャルコラボリミックス的な表情で強張る。
繭椿だ。しかも、弱々しくもすけすけの身体で、ゆらゆら揺らめきながら中空を漂っている。
「繭椿いいいいっ! 手前ええええっ!」
耶磨人が怒号と共に繭椿の襟首を引っ掴み、締め上げた。
「霊体の私に――げほ――触れられるんですね――すばらしい力を御持ちで――げひひひひい」
こんな時でも営業スマイルを絶やさずに、しかしながら苦しげに身悶えする繭椿。その時、耶磨人はふと我に返った。
「こいつが此処にいるってことは、あいつは何者?」
耶磨人は訝しげな表情で幽体の繭椿を離すと、実体化繭椿を凝視した。
「皮かぶりじゃ」
偉智が言葉短に答える。
「ひょっとして――?」
「漸く分かったか。散々怒らして奴の感情は不安定になっておる。そろそろ出るぞう」
偉智の眼光が鋭く光る。
実体の繭椿が、顔を紅潮させながら身体を小刻みに振わせ始めた。途端に、黒っぽい瘴気が繭椿の身体からゆらゆらと立ち上るや、中空に人型の像を結び始める。
繭椿の身体が、糸の切れた操り人形の様に崩れ落ちた。
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