第14話 地上へ そして……
耶磨人、起きてっ!
誰?
もう少し寝かせろよ。俺だって疲れてんだぜ。たいした役にはたってないけど。
ていうか、こんなシュチュエーション、前にもどっかであったな……あっ!
耶磨人は眼を開けるや、勢いよく跳ね起き――刹那。
柔らかな感触が、耶磨人の唇に触れた。
「ん?」
耶磨人はかっと眼を見開く。
柔らかな感触は現在進行形だが、視界がぼやけてそれが何だか分からない。
疑問符がぼんやりとした思考エリアに大増殖した刹那、不意にその感触は強引に引き離され、同時に、般若の形相と化した珠姫の顔が間近に迫る。
「貴様――っ! くおらああああああっ!」
怒りで顔が真っ赤に沸騰した珠姫が、忌々しげに左手の袖で何度も唇をぬぐいながら怒涛の絶叫を張り上げる。次の瞬間、大きく振りかぶった彼女の右手が超高速で空を薙ぎ、耶磨人の頬に裂烈した。
フリーズ状態の耶磨人の頭脳を一気に活性化へと導く。
耶磨人は気付いた。柔らかな感触のそれが、なんであるかを。
「くのやろっ! くのやろっ! くのやろっ!」
珠姫の狂気に満ちた平手打ち連打攻撃に、耶磨人は再び意識が遠のいていくのを感じていた。
「珠姫、やめてっ! 耶磨人君死んじゃうっ!」
珠璃が、珠姫を背後からホールドする。
「離してっ! こいつ、どさくさに紛れてなんてことしやがるっ!」
「残念だが、これは事故だ。見るからにわざとやった風にも見えなかった。それにこれ以上やるとやばいよ。彼の瞳孔が開きっぱなしになっている」
猪熊の冷静な口調に、珠姫は我に返ったのか、肩を落とすと息絶え絶えになっている耶磨人をじっと見据えた。
「流石、珠璃さんら……すええええぱわあらろう……かおら、あるいろう」
耶磨人は、何やら意味不明の呟きの後、にやりと引きつった笑みを浮かべると、落ちた。
「まずいっ! 意識を失ったっ!」
猪熊が瞬時にして己の気を両手に集束し、耶磨人の前頭部に押し当てた。
耶磨人の身体が一瞬硬直。閉じられていた瞼が、ゆっくりと開く。
「耶磨人君、大丈夫? ごめんね、猪熊さんと珠姫に話しは聞いた」
珠璃が心配そうに耶磨人の顔を覗き込む。
「流石、珠璃さん。すげえパワーだ。顔が何だか熱いや」
耶磨人はつい先程口走った暗号的言語の翻訳バージョンらしき台詞を呟くと、顔をしかめながら笑みを浮かべた。
「え、顔は、違うんだけどお……」
言葉を濁す珠璃に、耶磨人は首を傾げた。どうやら、彼は珠姫との一件を記憶に留めてはいないらしい。
「耶磨人君、動けるか?」
「ええ、もうすっきりっす」
猪熊の問い掛けに耶磨人はすっくと立ち上がった。
「大したもんだな、あれだけのダメージを受けていながら」
「猪熊さんの気のカンフルが効いただけじゃないのおっ!」
珠姫がぶすっとした表情でちゃちゃをいれる。彼女にとっては大事故だったにもかかわらず、耶磨人の記憶から消去されているのがよほど気に入らないのか、彼の回復振りに驚く猪熊にまでもくらいついている。
「いやいや、私は乱れていた彼の気をちょっと補正しただけだよ。流石、神の眼にかなっただけはあるな」
「神の眼?」
猪熊の言葉に、珠璃が感心を示した。
「彼の守護霊さ。奈落の途中で鬼蜘蛛の糸に絡まって吊るされていた私を助けてくれた。自分は落ちながらも、矛を投げつけて糸をぶった切ってくれたんだ」
「ももさんは――俺の守護霊様はどうなりました?」
耶磨人が身を乗り出して猪熊に詰め寄った。
「そのまま、奈落へと落ちて行った。そこから先、どうなったかは、僕には分からない。その時に頼まれたんだ、君達を救ってくれってね」
「そう、なんだ」
耶磨人の表情が、暗く沈む。
「抜け殻の身体達、いったい何処へいったんだろう」
珠姫が、ぽつりと呟く。
「エクトプラズムと一緒にこの下にある通路を流れていった」
「えっ?」
耶磨人は食い入るように珠璃を見つめた。
「私がこの下にある地下道を彷徨っている時、突然、地面に大きな穴が開いて、大量のエクトプラズムとに一緒に流れ込んで来たのよ。私が自分の身体を見付けたのはその時。穴の向こうに光が見えたから、流れが治まるのを待ってから、壁を降りていったら、ここに出られたの」
「降りて行ったらって……?」
耶磨人が狐につままれた様な表情で珠璃に再度問い掛ける。話しのつじつまがあわなかった。彼の眼には、どう考えても奈落から岩壁をよじ登り、這いあがってきたようにしか見えなかった。
「変に思うかもしれないけど、私は壁にしがみつきながら、間違いなく穴を降りていた」
「間違いじゃないよ。ここでは、上下左右の方向性が存在しない。空間と空間が信じられない程に湾曲し、交差しているんだ」
すかさず猪熊が珠璃をフォローする。
「じゃあ、行きますかっ!」
耶磨人はそういうと、おもむろに歩きだす。
「ちょっと待ってよお、行くってどこへ?」
珠姫が慌てて耶磨人を引き止めようとする。
「穴だよ、穴。珠璃さんの話じゃあ、その下に通路があるって――えっ?」
愕然とした表情で、耶磨人は立ち止まる。
穴が、消えていた。
ほんのついさっきまでぽっかりと漆黒の口を開けていた穴が、痕跡一つ残さず消滅していた。
「そんな……」
耶磨人は眼をかっと見開くと、穴があったはずの湖底を凝視した。
「お姉ちゃんがあんたを倒しちゃった直後だった。信じられないかもしれないけど、あっという間に塞がっちゃった」
珠姫が淡々と呟く。
「たぶん、私達の追跡を絶つ為だろうな」
猪熊はそういうと、さりげなく周囲を見渡した。
「猪熊さん」
耶磨人が猪熊に話し掛けた。
「俺達って、どんな奴を敵にまわしているんです?」
「とんでもない連中さ。この島のセキュリティを逆手にとって、アンダーグラウンドに巣食うパラノイアだ」
「その正体は?」
「それが……分からないんだ。今のところは。ちんけな小物が動きまわっているんじゃないことまでは分かっている。でも、残念ながらそれ以上は分からない。ただ――」
猪熊の眼が輝く。
「目的は、何となく見えてきた」
「それは、いったい?」
耶磨人が身を乗り出して猪熊を凝視する。
「サミットさ。明日開かれるサミットの一般座談会で、何かやらかすつもりだな。一般人の脱魂体に、妖や悪霊の魂を憑依させて。俺が鬼蜘蛛に乗っ取られたようにね」
「ひょっとして、テロ?」
「恐らく」
耶磨人の問いに、猪熊は短く答えると、頭上を見据えた。
「脱魂体が一気に移動したとなれば、奴らはいよいよ行動を起こすつもりだな。厄介だぞ。普通の憑依体と違って、何故か脱魂体は見た目にオーラの違いが出る訳でもなく、判別が困難極まりない。それは俺で実証済みだ。あちら側の上司ですら見抜けなかったからな」
猪熊は苦笑を浮かべると、重い吐息をついた。
「萬さんの事?」
珠姫が、猪熊にぼそりと話し掛ける。
「良く知ってるね。知り合いかい?」
「耶磨人の御先祖の一人よ」
珠姫の言葉に猪熊が驚きの表情を浮かべる。
「へええっ、そうなのか! なるほど、道理でね」
猪熊はそう呟きながら、一人でうんうんと頷く。が、怪訝な表情で見つめる耶磨人に気付くと、にやにやと笑みを浮かべた。
「オーラの質と気の感じが、何となく似ている。君もトレーニング次第で霊能力が使いこなせるようになるよ。どうだい、将来、君も私の様な霊能捜査官を目指してみては」
「へっ?」
思いもよらぬ猪熊の台詞に、耶磨人は焦りまくる。
「まあ、とりあえずはここから脱出しないとね」
「出来るんですか?」
しごく気楽な口調でのたまう猪熊に、耶磨人は眼をひんむいて驚きの声を上げた。
「何とかな。少々手荒い方法になるけど」
猪熊がそう言った瞬間、耶磨人達を凄まじい疾風が呑み込む。
「うわあああああっ!」
思わず絶叫する耶磨人。
視界が蒼一色に染まる。猪熊の身体から夥しいオーラが迸り、耶磨人達をすっかり呑みこんでいた。
身体が浮いていた。
否、浮くというよりも、超高速度で急速に上昇していた。湖底が見る見る間に遥か下方へと離れて行く。
それが猪熊の術によるものだとは即座に理解したものの、心の準備が整う間も無い唐突な展開に、耶磨人の思考は慌てふためきながら右往左往する意識をコントロールしきれずにいた。
不意に、耶磨人の腕に何者かがしがみ付く。驚きの余り、振りほどこうとした刹那、本能がそれを制止した。
珠姫だ。自分自身の跳躍力で空中を闊歩するのとは勝手が違うのか、不安げな表情を青白い顔に浮かべ、下方を見下ろしている。以前、珠璃が珠姫は高所恐怖症だという事を言っていたのを、耶磨人は思い出していた。
「目を閉じて」
話し掛ける耶磨人に、珠姫は不安げな表情を浮かべる。。
「安心しろ、大丈夫」
微笑む耶磨人を、珠姫はじっと見つめた。そしてほっとしたような表情を浮かべると、黙って頷いた。
耶磨人自身、正直のところ気持ちに余裕は全くなかったが、頼って来る珠姫の存在が、彼を想定以上に奮い立たせていた。
唐突に、風がやんだ。
流動的に変貌を遂げていた風景が集束し、固定化された画像を描写し始める。
「到着だ」
猪熊の声が、静かに響く。
「ここは?」
珠姫はさりげなく耶磨人の傍らからはなれると、眩しそうに眼を細めながら周囲を見渡した。
巨大な卵を彷彿させるドーム状の建造物が二つ、対をなして緑の木々の中に埋もれるように立っている。
「まさに、どんぴしゃりだな」
猪熊は満足気に周囲を見渡した。
「あれが、サミットの会場か……」
耶磨人が感慨深げに呟く。
ワールド・アイズ。ドリメガセントラルパークに建てられた世界に誇る超巨大多目的ホールだ。旧都心の観光名所となっているツリーをも凌ぐ高さに加え、その広さは旧都心のドーム型球場が二十は優に入る半端でない規模を誇っている。しかもこれが東西に二棟連なっている事から、その圧倒的な存在感は都心の高層建築ビル群を遥かに凌いでいた。
その巨大な建造物の影から、反重力タイプの旅客機がひっきりなしに離着陸を繰り返している。この施設の向こうには空港があり、各国の要人達はそこから会場に直行するのだ。
サミットがすぐそばで開催されるにもかかわらず、通行規制は全くなく、ワールド・アイズに最短で連絡している公園内のメインストリートも、無数の人々が闊歩している。
会場前にしつらえられた五十メートルプール級の大画面モニターには、レセプションの一般公開座談会に向けての準備が慌ただしく執り行われている光景が映し出されていた。スタッフが画面上を何人も横切る合間に、メインの会議を終えてほっとした表情を浮かべる要人達の横顔が映る。
耶磨人は妙な違和感を覚えていた。
緊迫感が無かった。サミットという重要な国際会議であるにもかかわらず、警護が余りにも希薄だ。この島を司るブレイン達は、余程式神を使ったセキュリティーシステムに自信があるのだろう。警官達が緊迫した面持ちで警備についていた島外とは大違いだ。
ついさっき異空間で繰り広げられた激闘が、まるで泡沫の夢であったかのようなのんびりとした雰囲気に、耶磨人は何となく気の抜けた思いで佇んでいた。
「耶磨人君、油断するなよ。僕達はもう既に敵の中にいる」
猪熊の言葉に、耶磨人は身体を硬直させた。
「忽然と現れた俺達に気付いた者は何人いた?」
耶磨人の問い掛けに、耶磨人は首を傾げた。
「えっ?」
耶磨人の表情が強張った。
「誰も、気付かなかった」
心の中でもやもやと疼いていた消化不良的な疑問。耶磨人はそれを言葉に綴った。
彼がここに来て最初に感じた違和感。それこそ、この答えだった。
耶磨人は眼を細めると、通行人達の後ろ姿を凝視した。
「オーラが見えない!」
生きている人間ならば、必ず全身を包み込むように身体から立ち上っているはずのオーラが、全く見えないのだ。
(このパターン、前にもあった。そうだ、あの時の――チャイニーズレストランのウエイトレス!)
耶磨人の脳裏に、記憶が鮮明に蘇る。
「猪熊さん、この人達、ひょっとして――」
「その通り、脱魂体だ。今は憑依されちまっているけどね。恐らく、インプットされた行動しかとれない様になっているんだ。最悪だな。僕の仮説通りになっちまった」
猪熊は鋭い眼光で過ぎ行く通行人を凝視した。
刹那。
珠姫のオーラが紅色に燃え上がる。
「待てっ! 下手に攻撃すれば肉体を傷つけてしまう」
猪熊の鋭い一声が、珠姫の動きを制した。
「じゃあどうすればっ?」
珠姫が両眼を大きく見開いて、悔しそうに猪熊に訴えかけた。
「残念だけど、今は何もできない」
猪熊は苦悩に表情を歪めながら、苦しげに台詞を吐いた。
「でも、彼らも私達を襲ってこない――それが、せめてもの救いよ」
珠璃が、落ち着いた口調で珠姫に諭すように語り掛ける。
「襲ってこないって?」
珠姫が怪訝そうな表情で珠璃に問う。
「脱魂体に憑依しているのは、無理矢理入魂させられた荒ぶる魂達。新たな肉体を得て暴走しないように、矯正されているはず。目的意外の行動を起こさないようにね」
「目的って、やっぱりテロ?」
珠姫はまだ納得できないのか、更に珠璃に問い掛けた。
「分からない」
珠璃は困惑した表情で眉間に皺を寄せた。
「このまま、どうする事もできないのか……」
耶磨人は、落胆と失望の二重奏に表情を曇らせながら、彼の前を無言のまま過ぎ行く通行人達の姿を追い続けた。
「もう手遅れよ。今となっては」
珠璃は、無表情のまま、黒い瞳を中空に泳がせると力無く呟いた。
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