第13話 奈落の黙示録
「ねえ、起きてっ!、ねえったらっ!」
(誰だろ?、俺の肩を揺さぶってんのは。声からして女の子じゃん!。でも、どっかで聞いたことのあるような……うわっ!)
慌てて跳ね起きた耶磨人の眼の前に、ぶすっとした表情の少女の顔が浮かんでいる。
「珠姫……どうして?、あれっ?」
耶磨人は慌てて周囲を見渡した。薄茶色の岩が緩やかな曲線を描いている。自分の横たわっている所も、天井も、同様に、ごつごつ感のない滑らかな手触りの岩肌が、何処からともなく差し込む淡いオレンジ色の光に照らされ、かろうじてその外観を露わにしていた。
洞窟だった。洞窟は前後に分かれて進んでおり、正体不明の淡い光は、耶磨人のいる所から向かって正面方向から差し込んでくる。
「ここは?」
「分からない。あいつの言ってた奈落なのかも」
「あいつって、猪熊――」
「そうよっ! とんだ喰わせ者だった」
珠姫が吐き捨てるように言った。
「そうだ、みんなは? ももさんは?」
「分からない。だけど、ここにいないのは確か」
「まさか、死んじまったんじゃあ……いや、それはないか。霊体なんだもんな」
一瞬狼狽した耶磨人だったが、すぐさまほっとしたような表情を浮かべる。
「でも、そうとは言えない」
珠姫が、伏せ目がちに呟く。
「どう言うこと、それ?」
耶磨人は眼に不安の色を浮かべると、珠姫をじっと見つめた。
「霊体は、物質的な肉体は持たないものの、莫大なエネルギーの集合体として存在しているの。エネルギーの結合が強制的に寸断され、存在そのものが無くなってしまうこともある。もしそうなってたとしたら、もう、どうにもならない」
「じゃあ、まさかっ?」
「可能性は無いとは言えない。考えたくは無いけど」
珠姫は耶磨人にそっと背を向けた。肩が、小刻みに震えている。
(泣いているのか)
耶磨人の意識に戸惑いが走る。結構きつい口調でつっかかってきたり、上目目線で話し掛けてきたりと、彼にとっては、とんでもないつんつん娘的存在だった。それだけに、傷心にうちひしがれる姿は、底知れぬいとおしさを耶磨人の潜在意識に掻き立てていた。
徐に、珠姫は天を仰いだ。
びゃっくしししししんんんんん!
馬鹿でかい超ド級のくしゃみが、静まり返っていた空気をうわんうわんと震わせる。
(なんだよおい、くしゃみかよう。さっきまでの肩ぷるぷるはくしゃみを我慢してただけかよう。もしくは、でそうででない前兆に、まだかまだかと待ちわびていただけかよう。純粋に心が傾いた俺の感動をかえしてくれよう)
耶磨人は、あんぐりと口を開いたまま、心の中で号泣していた。
「んんんんん――すっきりしたあっ!、 ねえっ、ティッシュ持ってない?」
振り向いた珠姫の鼻から、半透明のスライム状二本柱がぶらああありぶらああありと地面すれすれにまで垂れ下がっていた。
耶磨人は、無言のまま珠姫にポケット・ティッシュを渡した。来る途中でティッシュ配りのお姉さんから貰ったものを大事にポケットにしまっていたのだ。
「ありがと」
珠姫は耶磨人からティッシュを受け取ると、人目をはばかることなく思いっきり鼻をかんだ。
「幽霊も、鼻かむんだ」
耶磨人は醒めていた。醒めきっていた。ある意味覚醒していた。
「幽霊って何よっ! 何べん言わせるつもり? 私は生霊なのっ! それにこれは鼻水じゃないっ!」
珠姫がぷっくりと頬を膨らませる。
「鼻水じゃないって? じゃあなんなの?」
「エクトプラズムよ」
「エクトプラズム?」
再び鼻水――否、エクトプラズムをかみながら、珠姫はしゃなりと言ってのけた。
余り深く追求したら命にかかわるかもしれない――無数のクエッションマークが脳内で小躍りする中、そんな恐怖心が瞬時に耶磨人の脳裏を過る。
「耶磨人、何故、私達が助かったか分かる?」
「えっ、何故って……何故だろ?」
「霊体の私でさえ、漂うことすら出来ない強烈な引力だったから、普通ならとてつもない重力の負荷をまともに抱えたまま、岩盤に打ちつけられるところだった」
「確かに妙だな。上から落ちて来たはずなのに、ここ天井あるし。それも硬そうな岩盤」
「たぶん、時空の隙間を通過してきたんだと思う」
「じゃあなんで助かったんだろ」
「これよ」
珠姫は徐に右手を耶磨人の鼻先に突き出した。指先に、人型に切り抜いた紙が揺れている。そこには、何やらミミズの這ったような文字らしきものが書きなぐってあった。
「これは?」
「災難避けの身代わり護符よ。ほら、あなたの肩にもついている」
珠姫に言われるままに肩を見ると、確かに同じような紙きれが張り付いている。耶磨人はひょいとそれをつまみあげると――消えた。
「うわっ、何?、消えちまった」
「私のも消えたわ。たぶん無事を確認したから、術者の所へ帰ったのよ」
「術者?、誰?、もしかして、ももさん?」
耶磨人が驚きの声を上げると、珠姫は黙って頷いた。
「恐らくね。あんたの守護霊様は凄い人よ。刀に串刺しになりながらも、私達に護符を投げてよこしたんだから。たぶん、姉ちゃんや、萬さんにも」
珠姫の眼線が中空を泳いだ。確証はなかった。百多郎に、あの状態で他の者を助けようとする余力があっただろうか。じゃあ萬が――それも考え難い。彼女自身、猪熊の術にはまり、中空に磔になって身動きのとれぬ状態だった。
じゃあ、誰が。落下と同時に意識を失った耶磨人には、その真相は確かめようがなかった。珠姫もたぶん彼と同じ状況だろう。
きっと、百多郎が助けてくれたのだ。そして今もみんなの安否を気遣いながら、反撃のタイミングを推し量っているのだ――ただ、そう信じたかった。
「これ、見てよ」
徐に珠姫が耶磨人の鼻先に手を突き出した。
「いい手相しているな。幽霊なのに、生命線がめちゃめちゃ長いじゃん」
「そこ見るんじゃあねえよおおおおおおおっ!」
ぎゃんぎゃん叫ぶ珠姫をよそ眼に、耶磨人はあることに気付く。
「オーラが……」
「そう、私のオーラの向き、妙だと思わない?」
「そういやあ、下に流れていない。真横に広がっている――えっ、まさかっ!」
耶磨人が驚愕の叫びを上げた。
「分かる?、私の言いたいこと」
珠姫が真剣な表情で耶磨人に詰め寄る。
「この地下の何処かに、おめえが永遠の眠りについているってことか」
耶磨人は手を合わせ、珠姫に黙祷を捧げた。
「ちがあああああううううっ!、生きた身体があるのっ!」
顔面どアップで突っかかって来る珠姫に、耶磨人は『冗談、冗談』と軽い口調でさらりとかわしながら、周囲に眼線を投げ掛けていく。
「オーラは思いっきり左方向にたなびいているな」
「うん。それも、相当近くにあるみたい。それで、生体に反応してさっきからエクトプラズムの鼻水が出てるのかも」
珠姫が納得するようなしないような意味不明の理論をぶちかます。
「行くか、探しに」
耶磨人がひょいっと立ち上がる。
珠姫は黙って頷くと、ふわりと浮き上った。
二人は細い通路を進んだ。が、数メートルも進まぬうちに、不意に立ち止まる。
「いきなりかよ……」
耶磨人の声が驚愕に震える。
サッカーの競技場の様に広い空間。そこに広がる淡い乳白色の水を湛えた地底湖。岩壁を走る無数のグラスファイバーが、シャンデリアのように眩い輝きを放ち、自然光で空間を白く満たしている。
ただ。
耶磨人が驚いたのはその光景じゃない。。
白い霧靄のたなびく湖面――その下に、それらはあった。
湖底にびっしりと並ぶ人体。それも、理路整然と隙間無く並んでいる。スーツ姿のサラリーマン、制服姿の女子校生、ジーパンにチェックのシャツ姿の若い男性、体操着姿の小学生……ついさっきまで生活していた時のそのままの姿で、眼を閉じたまま沈んでいる。
湖自体は浅いのだろう。湖水が薄く濁っているにもかかわらず、おのおのの表情がおぼろげと見て取れた。
皆、安らかな表情を浮かべている。
水中に身を沈めているにかかわらず、苦悩に満ちた表情は誰一人と浮かべてはいない。
「生きてる」
珠姫が、ぽつりと呟く。
「えっ! じゃあ、湖面に漂っている霧はオーラか」
耶磨人は湖面の人体を凝視した。
珠姫の言葉に偽りがない事を、耶磨人も感じ取っていた。湖面から立ち上る白い霧靄――オーラは、上空に伸びるにつれ、繊細な糸状に伸長し、空間の狭間に消えていた。恐らく、その遥か先で、途方に暮れて彷徨う魂と連結しているに違いなかった。
「耶磨人、湖に手を突っ込んでみて」
「何だって?」
「いいから、突っ込んで」
「分かったよ、突っ込みゃあいいんだろっ!」
強い口調で言い放つ珠姫に押され、耶磨人は渋々湖面に手を突っ込んだ。
刹那、水とは違う妙な感覚が耶磨人の手を包み込む。
「これは……?」
慌てて手を抜く。
同時に、無数の疑問詞が耶磨人の思考を埋め尽くす。
柔らかな、心地良い温かさの空間。慌ててひきあげた手には、何にも付いていない。
濡れていないのだ。
「これ、エクトプラズムよ」
「てことは、この湖水全部おめえの鼻水か?」
「んな訳ないでしょっ!」
真顔で答える耶磨人に、珠姫は笑顔で彼の後頭部を力いっぱいぶっ叩く。
「いてえっ、ちょっとは手加減しろよのどつきつっこみいいっ!」
訳のわからないノリで答えた耶磨人は、恐らく真冬の知床並のめっちゃ寒い空気を纏ってどん引きしている珠姫の表情に気付く。
彼は表情を強張らせると、やっちまったよ的な反省の面持ちで、はあああっと重い嘆息をついた。
「これは、何なんだ……」
まるで、暴走し掛けたキャラをかなぐり捨てるかの様に、耶磨人は急遽シリアスモードへとメタモルフォーゼを遂げる。
「盗まれた身体よ。きっと傷つかないようにエクトプラズムに浸して保管しているんだ」
今度は耶磨人につっこむ事無く、珠姫は静かな口調で答えた。
「でも、これだけのエクトプラズムをどうやって集めたんだろ? 霊能士を大量に雇って霊を片っ端から取っ捕まえて絞ったのか」
「まさか、合成品よ。医療用の。私が見る限り、不純物はなさそうだし、自然界のものよりも遥かに濃厚」
耶磨人の疑問の呟きに、珠姫がこともなげに答える。
「医療用って、あの、万能細胞を高速培養するのに使う純粋濃縮タイプの?」
耶磨人は、思考を生物の授業で習った記憶にシンクロさせた。重篤患者の命を救うために、臓器や組織を短時間で培養する手段として、あちら側の神霊医とこちら側の医学者が共同で開発した今世紀最大の発明である――確か、そう教科書には記載されていたのを。
「ありそうだな。この中に、珠姫の身体が。それも近くに」
耶磨人がじっと珠姫を見つめる。彼には見えていた。珠姫の身体から、うず巻くように迸るおびただしいオーラが、湖のエクトプラズムと呼応し、積乱雲の様に堆く成長しているのを。
「何の目的で、こんなことを……」
得体の知れぬ、それでいて荘厳にすら感じられる神秘的な光景に、耶磨人は底知れぬ畏怖を覚えていた。
「分からない。見る限り、湖底の身体は性別も年齢もばらばらだし――危ない!」
不意に、珠姫が耶磨人を突き飛ばす。黒い拳大の塊が彼の視界を過ると同時に、珠姫の身体が何かに弾かれたかの様に後方へと大きく空を舞う。
「珠姫っ!」
耶磨人は慌てて珠姫の姿を眼で追う。
珠姫の身体は湖面に吸い込まれるように消えた。
「やれやれ。見つかっちまったか」
聞き覚えのある間延びした声が、耶磨人の背後で響く。
「おまえは……」
振り向くと同時に、耶磨人は憎悪に顔を歪ませながら、声の主を凝視した。
猪熊だ。丹精な面立ちとは不釣り合いな野卑な笑みを浮かべながら、耶磨人をじっと見ていた。
「おまえの守護霊には困ったものだな」
「どう言う意味だよ」
「俺の命の次に大切な刀を抱いて奈落の底に落っこちて行きやがった。黒龍の落鱗からたたき出した滅多にない名刀なのによう」
口惜しげな台詞の割には妙に楽しげな猪熊を、耶磨人は黙って見据えた。
「さっきの娘はなかなかの手練のように見受けたが、おまえはそうでもないようだな。と言うよりも、あの娘にとっちゃ足手まといだったんじゃねえか? 現にあの娘、おまえを守ろうとして己の身に隙がでちまったんだからな」
猪熊は嘲るような台詞を、耶磨人に吐き捨てた。
耶磨人はぎりりと奥歯を噛み締めた。
悔しかった。
猪熊の言ったことに間違いはなかった。自分に奴に太刀打ち出来る力等皆無なことぐらい、百も承知だった。あの百多郎ですら、奇襲を読めなかった相手だ。霊力も腕力も微々たるものでは、相手になどなる訳が無かった。
でも。
このまま、やられる訳にはいかない。
せめて、一矢報いるまでは。
耶磨人は猪熊を見据えながら、視界の片隅に反撃の糸口となるものはないか追い求めた。
何もない。良くドラマや映画のこんなシーンでは、鉄パイプや木の棒といった何かしら武器が転がっているものだが、残念ながらそういった都合のいいものは何もない。
とは言え、あったところで、そんなものじゃ奴にダメージを与えられるとは思え
ない。
このまま、何の抵抗も出来ずに終わるのか。現実はこんなにも味もそっけもない、面白味のない展開になってしまうものなのか。
(いや、ある。反撃の方法が一つ)
「おいおまえ、せめて一瞬で楽にしてやるよ」
猪熊が口元に冷やかな笑みを浮かべながら、耶磨人を見据えた。奴の右手がゆっくりと動き、掌を耶磨人に向ける。
耶磨人には見えた。どす黒いオーラが渦巻きながら掌の前で凝縮していくのを。
黒い気の塊が、まっすぐ耶磨人に向かって中空を駆る。
同時に、耶磨人は跳躍した。気の塊が、耶磨人の顔を掠めて行く。
次の瞬間、耶磨人の身体は湖面の下へと消えていた。
「何っ!」
猪熊は湖岸へ駆け寄ると、憤怒の表情で波紋の残る湖面を凝視した。
刹那。
湖面が割れた。
不意に、耶磨人は立ち上がるや、腕を大きく水平に振った。
手から平らな何かが離れ、風を切って空を裂く。
猪熊の顔が驚愕に歪む。
「やっぱ効かねえか」
悔しそうに耶磨人が呟く。
猪熊は凄まじい形相で、口に咥えたそれをぎりぎりと噛み砕いた。絹川りおのPACだ。。
「なめた真似をっ!」
猪熊の表情に殺気が宿る。
「おっと、待ちなよ。妙な技使うと、ここの遺体――じゃねえ、脱魂体に傷がつくぜ」
「何だと?」
「どうするつもりなのかは知らねえが、大事な代物なんだろ? 純粋なエクトプラズムに満たした湖に保管する位だもんな。貴様の邪悪な気に触れたら、どうなると思う?」
耶磨人の顔に、狡猾な笑みが浮かぶ。
はったりだった。どうなるかなんて、耶磨人には知るよしもなかった。だが、何処か硬さの残る無理矢理作った似合わないその表情が、皮肉にも妙に現実味を帯びた説得力のある雰囲気を醸し出していた。
「やってくれるじゃねえか」
猪熊が怒りに声を震わせながら、ひとくさり吐き捨てた。
「ならば、貴様をそこから釣りあげてやる」
猪熊がくわっと口を開く。同時に、しゅるしゅる空気を震わせながら、半透明の細い糸が空中に紡ぎだされる。
刹那。
白い閃光が耶磨人の両脇から走り、猪熊の吐いた糸が音を立てて炎上した。
「何だと?」
猪熊が、耶磨人を――その頭上を凝視する。
珠姫だ。
「えっ!」
思わず頭上を見上げ、思わずにへらっと笑みを浮かべた瞬間、耶磨人の眼には急速に迫りくる靴底が映っていた。
鈍い衝撃音と共に、珠姫は耶磨人の顔を思いっきり蹴り付け、更に高く跳ぶ。
ゆっくりと弧を描きながら後方へ倒れる耶磨人は、どこか幸せそうな表情を浮かべながら、そのまま再びエクトプラズムの湖へと撃沈した。
天井すれすれまで跳躍すると、珠姫は岩盤の壁を蹴り付ける。
急降下。
鮮白色のオーラが渦巻きながら珠姫を包み込み、巨大な光の玉と化す。
猪熊が憤怒に醜く顔を歪めながら、大量の糸を吐き出した。糸は次々に互いに絡め合いながら厚い層を成し、珠姫の進路を阻む。
接触。
燃え上がる糸。舞い上がる火の粉が珠姫を包む。
「うぬうっ!」
猪熊が、邪悪な暗黒の気の塊を放つ。ブラックホールの様な戦慄を宿す漆黒のオーラが凝縮し、まっすぐに火の粉の中へと吸い込まれて行く。
同時に、火の粉と漆黒のオーラが四散。
珠姫は空に円を幾つも描きながら宙転を繰り返すと、音一つたてることなく湖岸に降り立った。
「体、みっけ!」
珠姫が、にやりと笑みを浮かべる。
「あんたに礼を言わなきゃね。ふっとんだ所に私の身体があった」
「何っ!」
猪熊は眉毛をつり上げ、怒りに体を震わせた。
「かかって来なっ! しばらく体動かしてなかったから、ウォーミングアップになるわ」
珠姫が涼しげな眼で、猪熊を挑発する。
「おのれおのれおのれえええええええっ!」
猪熊は、かっと眼を見開くと、狂ったように口から糸を吐き出した。見る見るうちに、糸は四方八方に張り巡らされていく。
猪熊はふわりと跳躍、そのまま中空に停止した。浮遊しているのではない。自分の吐いた糸の上に乗っているのだ。
「焼き尽くす」
珠姫が、ぎろりと猪熊を睨みつける。
「おっと、そんな事していいのかい? エクトプラズムに引火すると、みんな燃えちまうぜ!」
猪熊は勝ち誇った表情で、珠姫を見下ろした。
「燃える? 何はったりかましてんのよっ! 濃縮エクトプラズムは難燃性のはずっ!」
珠姫は怪訝そうな表情で猪熊をねめつけた。
「珠姫、残念だけど奴の言った事、間違っちゃいない」
珠姫は驚きの余り、無造作に振り向き、声の主を追った。
耶磨人だ。
湖面から立ち上がる姿はしっかりしているが、顔面にはくっきりと足跡がついている。
「濃縮エクトプラズム自体は難燃性だけど、これに可燃物が加われば、一転して激しく燃え上がる性質がある。すっかり忘れてたけど、思い出したよ。高校の化学の授業で習ったんだ」
「可燃物って、まさか、奴の糸?」
珠姫の問い掛けに、耶磨人は黙って頷いた。
「それも、これだけ大量にあると、下手すりゃ大爆発だ」
珍しくも真面目な面持ちで語る耶磨人の助言は、決してまやかしではない事を珠姫に強く物語っていた。
「そんな……」
珠姫は悔しさと苛立たしさに、唇をぎゅっと噛み締めた。
「雷はフェアじゃないねえ。ここまで上がってきな。正々堂々とやろうじゃねえか」
嘲笑を浮かべる猪熊。が、瞬時にしてその表情は驚愕にとって変わった。
猪熊の前に、忽然と人影が現れた。
全く同じ風貌の、もう一人の猪熊が。
「やっと見つけた」
もう一人の猪熊がにやりと笑みを浮かべる。
「貴様は奈落に封印されたはず。何故に……」
猪熊が、愕然とした面相で訝しげに呟いた。
「神が降臨したのさ」
「ほざけっ!」
嘲るような口調で答えたもう一人の猪熊に、猪熊は憤怒の叫びを上げた。
次の瞬間、猪熊の口から夥しい糸が噴出する。
が、それは、まるでもう一人の猪熊を避けるかのように、四方へと飛散した。
「そんな子供騙しの術なんざ、俺には通用しない」
もう一人の猪熊は落ち着き払った態度で猪熊を見据えた。
「うぬううううっ! 風使いめがっ」
猪熊の姿が消える。
消えたのではない。
自分の吐いた糸の上を高速移動しているのだ。時折過る残像が、それを裏付けている。
「おいおい、そんなに荒っぽく扱うな。俺の身体はデリケートなんだ」
殺気に満ちた猪熊をはぐらかのように、もう一人の猪熊は呑気な口調で相手の気を受け流す。
不意に、もう一人の猪熊の腕が伸びる。
動きが止まった。
無造作に開いた右手の中に、鷲掴みにされた猪熊の顔があった。
「そろそろ返してもらうよ」
もう一人の猪熊の眼に、蒼い光が宿る。
刹那、凄まじく鮮烈な気のプロミネンスが彼の全身から迸り、猪熊をすっぽりと呑み込んだ。
「んげええええええええええええっ!」
猪熊は苦しげに顔を歪めながら、この世のものとは思えぬ獣じみた絶叫を張り上げた。かっと見開いた眼は、まるでその全貌をさらけ出さんとするばかりの勢いで、かろうじで踏みとどまっては居るものの、眼窩から半ば零れ落ちそうになって
いる。
猪熊の身体が硬直し、小刻みに痙攣する。
次の瞬間、猪熊の身体からどす黒い瘴気が立ち上った。
霊体だ。凄まじく残虐・残忍な気を孕んだ禍々しい瘴気が、止めどもなく昇華していく。
不意に、猪熊の身体が弛緩する。
瘴気が全て離脱したようだ。
同時に、もう一人の猪熊が吸い込まれるように無力化した身体とシンクロする。
猪熊の身体が、落下した。糸の切れたマリオネットの様に。
地面に叩きつけられる直前、弛緩した身体に緊張が宿った。身体を丸め、着地と同時に深く屈伸し、衝撃から来るダメージを最小限に抑える体制を取る。
「久しぶりだな、この感触」
猪熊は満足気に自分の身体を見回すと、徐に上空に眼を向けた。
夥しい瘴気がぐるぐると渦巻きながら、洞窟の天井部分に集結していく。
瘴気が、急速に像を成し始めていた。
細長い手足。それとは対照的にずんぐりとした胴体。共通しているのは、どちらも黒っぽくて短い剛毛にびっしりと覆われている所か。何処かアンバランスな、明らかに人ではない体躯に、人ではないが人に近い顔が取って付けた様に貼り付いている。土気色の生気のないその顔は、底知れぬ敵意と怒りに醜く歪み、鋭い牙を剥き出して天井に貼り付き、眼下の猪熊を見据えていた。手足はドーム型に広がる洞窟の巨大天井の端から端まで達し、一見、重厚さには欠けるものの、その大きさは半端じゃない。
「何だありゃあ?」
「鬼蜘蛛」
珠姫がぽつりと呟く。
「鬼蜘蛛?」
耶磨人が珠姫の顔を覗き込む。
「ええ、古の頃から深山に棲み、迷い込んだ人間を食らって生きてきた妖」
「妖怪なのか?」
「うん。でも、人に憑依するって聞いた事なかった」
珠姫はうわの空で耶磨人に返す。
警戒しているのだ。妖の関心が猪熊に集中しているものの、いつ何時こちらに牙をむいて来るやもしれぬ状況だった。
「くけけっけけけけっけけけけけけっ」
鬼蜘蛛は奇声を上げながら、体をユサユサと揺さぶって威嚇した。
猪熊は、ゆっくりと天井を見上げる。
空気が急激に張り詰めて行く。
鬼蜘蛛が動く。
脚を器用に折りたたむや、急速落下。
再び、手足が伸びる。
まるで槍の様に、まっすぐ猪熊に向かって。
猪熊が跳躍。紙一重でかわすと、鬼蜘蛛の脚の上に着地し、そのまま駆け上がった。
鬼蜘蛛の脚先が大地に突き刺さる――寸前、脚は瞬時にして脚を湾曲させると、追撃ミサイルの様に猪熊を追う。
脚先が、背後から猛スピードで猪熊に迫る。しかも、彼の行く手には牙をむいた鬼蜘蛛の顎が待ち受けている。
逃げ場はない。
脚先が、猪熊を貫く――刹那。
彼は消えた。
標的を失った脚先は、勢い余って鬼蜘蛛自身の顎を突き、更にはそのまま後頭部を打ち抜くや、そのまま天井へと突き刺さる。
猪熊はいた。鬼蜘蛛自身の後頭部を貫通した脚の上に、不自然な位自然体で佇んでいる。
猪熊が、大きく右手を薙ぐ。
不意に、突風が巻き起こる。ただの風ではない。凄まじい気を孕んだ烈風が、鬼蜘蛛の巨大な身体を難なく吹き飛ばす。鬼蜘蛛の巨体が、まるで落ち葉の様にくるくる舞いながら急降下。そして、鈍い地響きと共に岩盤の地面に叩きつけられた。
猪熊はムササビの様に空を舞うと、鬼蜘蛛の近くに降り立ち、手早く九字を切った。
空気が硬直する。
凝縮された気の塊が、鬼蜘蛛の脚を壁に固定した。
「閻魔様によろしくな」
猪熊の身体から凄まじい気の渦が巻き起こるや、巨大なトルネードとなって鬼蜘蛛を飲み込む。荒れ狂う気流の渦は、鬼蜘蛛の手足を、そして頭部や胴体を、微細な粉塵へと崩していく。
静寂が戻った。
鬼蜘蛛の姿は、もはや痕跡すら残っていない。
「凄い……」
珠姫が眼を輝かせながら、猪熊を凝視した。何となく頬が紅潮しているようにも見える。
そんな珠姫を、耶磨人は何となくぶすっとした不機嫌な表情で見つめた。
「君達、大丈夫?」
おもむろに、猪熊が心配そうな面持ちで二人に声を掛けた。
「あ、大丈夫ですうっ!」
珠姫は慌ててエクトプラズムの湖から這い上がりながら、後ろ手で耶磨人に早く来いと合図した。
珠姫の態度に、耶磨人は、ふくれっ面で渋々従う。
「無事で良かった。私は警視庁特捜0課の――」
そう言いながら警察手帳を取り出そうとした猪熊の手が、不意にぴたりと止まる。
凄まじい重低音の響きと共に、地面が小刻みに揺れた。
「珠姫、見ろっ!」
慌てた口調で湖面を指差す耶磨人に、珠姫は怪訝な表情で答え――次の瞬間、かっと眼を見開いたまま、息を呑む。
湖面が、渦巻いていた。湖の中心に向かって、エクトプラズムが静かに、しかし大きな波を立てて、見る見るうちに引き込まれていく。エクトプラズムだけじゃない。湖底に横たわる人々の抜け殻も同様に、渦の中心部へと曳き込まれている。
不思議な光景だった。耶磨人達の背丈を遥かに凌ぐ大波であるにもかかわらず、音一つたてずに繰り返される光景は、まるでサイレント映画のワンシーンの様で、何処か現実味が欠如していた。
「そんな、姉ちゃん達の身体、まだ見つけてないのにっ!」
珠姫は咄嗟に湖に跳び込もうと――刹那。
耶磨人が、その身体を抱きすくめて引き止める。
「やめろっ! 引きずり込まれるぞっ!」
「離してっ!」
珠姫は肘打ちを耶磨人に連打しながら、激しく抵抗する。が、耶磨人はそれに必死に耐え、意地でも離そうとはしなかった。
「落ち着けっ、おめえなら分かるだろっ! この波の力が尋常なものじゃない事くらい。俺にだってびんびん伝わってくるぜっ! それに――」
「何?」
「お姉さんは、近くにいる」
「えっ?」
耶磨人が呟いた思いもよらぬ一言に、珠姫は驚きの声を上げる。
が、再び湖面を凝視した彼女の表情は、瞬時にして落胆の色にとって変わった。
湖が、消えた。
正確には、湖に湛えられていたエクトプラズムが。
それだけじゃない。湖底に横たわっていた脱魂された人体までもが、激しく逆巻く渦共に、跡形もなく消え失せていた。
ほんの、一刹那のうちに。
「やっと、みんな元に戻れるかもしれなかったのに……私だけなんて」
珠姫の眼に、憂いに満ちた輝きが揺らぐ。
「珠姫、あそこ」
耶磨人が、力強い口調で露わになった湖底の中央部を指差した。
「え、何?」
呆然とした表情で、珠姫は言われるままにその一点に視線を注ぐ。
穴だ。
巨大な穴が、元湖のど真ん中辺りにぽっかり口を開けている。距離が離れてい る為に正確な規模は不明だが、バス一台分はすっぽり収まりそうなくらいの大き さだ。どうやらエクトプラズムと脱魂人体は、あの穴から流出したらしい。
無言のまま、珠姫が穴に向かって駆け出す。
エクトプラズムの残渣が表面をうっすら覆っている為か、湖底の岩盤は氷面の様に滑り、珠姫の脚元をすくおうとする。転倒しそうになるのを、絶妙なバランス感覚で持ちこたえると、器用に滑走し始めた。低い安定感のある体勢を保ちながら、両腕を交互に大きく振り颯爽と湖底を疾走する。
見事なスケーティングだ。
(あの穴から侵入すれば、湖底にあった体が何処に行ったか分かるかもしれない)
その思いだけが、珠姫を無謀ともいえる行動に駆り立てていた。
「すげえ」
後続の耶磨人は、もはや遥か彼方へと閃光の如く先行する珠姫を、恨めしげに眼で追った。珠姫を真似て何とかスケーティングらしきアクションがとれるようになったものの、その速度は明らかに雲泥の差。月とすっぽんだ。
「珠姫、速過ぎっ!」
十分遅れで到着した耶磨人は息をひいひいと荒げながら、彼女の横に並び、穴を見下ろした。
「何だ、これは……」
耶磨人は息を呑んだ。
穴の中には何もなかった。何も見えなかったと表現した方が適切かもしれない。
大きく開かれた開口部には、ただ漆黒の闇だけがなみなみと満たされ、目視での追撃を頑なに拒んでいた。光が届かないというレベルではない。光の粒子そのものが吸い込まれ、逃げ場を失って、最後には闇に塗り固められているのだ。
「奈落への入口だ。光も音も何も存在しない、三次元空間の狭間に生じた異質な超時空間。私が囚われていたのもこんな感じだった」
猪熊が、嫌悪と苦悩に表情を歪めながら、忌々しげに呟いた。
「助けに行く」
珠姫はそう呟くと、果敢にも穴の中目掛けてダイビングする――寸前、耶磨人が彼女の腰に跳びつき、それを止めた。
「やめろっ! どうなるか分かったもんじゃねえぞっ!」
「離してっ!」
必死で止める耶磨人の腕を、珠姫は力ずくではずそうとする。
「冷静になりなさいっ! 彼の言う通りだ」
猪熊が力強い口調で珠姫に語り掛ける。
「でもっ!」
「大丈夫だ、この下には神がいる」
反論する珠姫の言葉を遮るかのように、猪熊が優しく囁く。
「神?」
半ば納得いかない表情の珠姫。その横で、心配そうに珠姫を見つめていた耶磨人の眼が、不意に穴に向けられる。
「わああああっ!」
耶磨人は絶叫を上げながら、珠姫を両腕でホールドしたまま後ろにひっくり返った。
「きゃあっ! 何っ?」
珠姫は尻もちをつくや、腹立たしげに怒りの眼線を耶磨人に投げつける。が、驚愕に歪む彼の表情に、尋常でない何かを悟り、その眼線を追った。
「えっ?」
珠姫の表情が強張る。
手だ。
右手だけ。
それも、女性の手だ。
白く細い指が、第二関節からくの字に曲げられ、小刻みに震えながら、第一関節から先の指先を、穴のへりに喰い込ませている。
「生身の人間だっ!」
猪熊が慌てて駆け寄る――と、同時に、手の主は身を宙空に踊らせた。
珠姫の眼が。
耶磨人の眼が。
かっと見開いたまま、フリーズ。
長い黒髪が、空を舞う。
珠璃だ。
鮮紫色のオーラを身に纏い、怒りに満ちた鋭い眼光を猪熊に注いでいる。
瞬時にして、珠璃の左手に凄まじい殺意を孕んだ気が宿る。
(まずいっ!)
「待ったあっ!」
耶磨人は慌てて跳ね起きると、珠璃の前に立ちはだかった。
が、同時に。
耶磨人の胸を、集束した鮮紫色のオーラが貫く。
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