第11話 進撃の耶磨人

 とにかく、行くしかない。

 耶磨人は足早に石段を下った。乾いたアスファルトの路面に降り立った瞬間、淡い草いきれに包まれていた柔らかな空気が、味気ない無機質なそれにとって代わった。

(いよいよだ)

 急速に高まる緊張が、耶磨人の意識に今という現実の楔を幾つも打ち込んでいく。

 それは、もう後戻り出来ない運命の暗示であり、嫌悪が誘引する安易な拒絶を根本から否定する揺るぎない意志の覚醒とも言えた。

 耶磨人は土産物屋が軒を連ねる「どりーむ街道」――路肩に建てられた案内板にそう書かれていた――を進み、ドリメガ行きシャトルバス乗り場に向かった。

 平日にもかかわらず、バス乗り場はたくさんの乗客でごった返していた。人気の観光地であると言うだけでなく、本日開催のサミットの効果とも言えるだろう。それ故に、観光客に交じって,何人もの警官が鋭い目線で周囲を警戒していた。

 勿論、あちら側の捜査官もその中に何人も交じっており、耶磨人がその存在に気付くと、素知らぬ顔で視線から姿を消した。防犯上なのか、余り存在を気付かれたくないらしい。

 二十数か所あるゆめしま行バス乗り場の中の、七番乗り場の列に並ぶ。別に縁起を担いだわけではなく、たまたまその列が、他の列に比べて少しばかりすいていたからだ。

 とは言え、先頭が見えない位長蛇の列を成している状況には変わりはなく、進捗はどんぐりの背比べだった。

 だが、絶え間なく到着する潤沢なシャトルバスの運行によって、耶磨人はたいして待つことなく車窓の人となっていた。

 バスがドリメガセントラルゲートを通過する。

 頭上に揺らめく巨大ドリモンは、耶磨人には目もくれる事無くにこやかフェイスで触手をゆらゆらさせている。

 百多郎が耶磨人の中に築いた結界は超強力なものらしく、門番の巨大式神もその存在を見抜けなかった様だ。

 バスは、静かに海底トンネルへと進んでいく。

 海底トンネルの側面を彩る無数の誘導灯の青白い光が、幻想的な雰囲気を醸し出している。まるで宇宙船で天の川を遊覧している様な、豪奢でロマンチックな視覚効果にあちらこちらで歓声が沸き起こる中、耶磨人は一人静かに車窓の光景に見入っていた。

 これからどうなるのか。

 いったい何が起きるのか。

 困った事に、皆目見当がつかない。何しろ、打ち合わせすらまともにしていないのだ。事前に作戦を立てると、思考がそれに執着する余り、ドリメガのセキュリティに察知される恐れがあるというのが百多郎の言い分だった。

 唯一の作戦会議は、美知乃稲荷前の茶屋で御神体直々に頂いた情報交換会?位なもので、それも今思えば、何となく団子とお茶をただでせしめるのが目的だったんじゃないかという気がする。

 不安はある。でも、なるべく考えない様にしていた。

 自分一人ではないのだ。怖がることはない。強靭な力が俺を守ってくれているのだから。

 バスは緩やかな上り坂に差し掛かった。

 出口だ。もう少しで到着する。

 高まる緊張に、耶磨人は生あくびを連発した。

 誘導灯の仄かな灯の青を、絶対的な光量を誇る陽光の白が呑み込んでいく。

 バスはトンネル入場時同様、巨大式神ゆめモンが鎮座する巨大ゲートを抜けると、大きく左に旋回し、巨大バスターミナルへと入場した。そして、乗車時と同じ七番乗り場の停車場で、静かに停止する。

 次々に降車する乗客の流れに従って、耶磨人はバスを降りた。降りる際に気付いたのだが、運転手は人間ではなかった。形こそヒューマノイドだが、顔は見事にドリモンだったのだ。つまりは、運転手も式神。バスの中もしっかり監視されているのだ。

 耶磨人は人の流れに乗ってそそくさとターミナルを移動した。おしゃれなカフェやファーストフードの店舗が軒を連ねる通路を黙々と歩き続ける。いつもなら好奇心と食欲の誘惑に無抵抗のまま白旗を振り、あちらこちらで足止めを喰らう事になるのだが、今日に限ってはそんな気持ちにはなれなかった。

 余裕など、微塵も無かった。

 常に誰かに見られている様な感覚が付き纏い、全身の毛穴という毛穴がピリピリと針を刺す様な刺激に委縮していた。

 耶磨人の意識を拘束するスペシャルハイクオリティな緊張と不安は、もはや今まで生きてきた中で最高レベルに達しており、本来、個人の存在を希釈し、追尾の難易度を跳ね上げる雑踏の中ですら、彼にとっては得体の知れぬ何者かが身を潜める脅威の空間でしかなかった。

 通路を抜けると、漸く心地よい風と柔らかな日差しが耶磨人を包んだ。

 まだ気は抜けないものの、さっきまでの閉鎖空間独特の圧迫感は無く、それだけでも耶磨人にとっては気持ちが少し軽くなったように感じられた。

 多くの車が行きかうメインストリート。その向こうに、とんでもなく巨大な建造物がそびえ立っている。

 この島のランドマーク、「ドリメガスカイタワー」だ。高さ2222メートルの圧倒的且つ超絶的な存在感のある超高層ビルで、軒を連ねる高層ビル群の中で断トツ群を抜いている。最上階の展望台から見る風景は美しさを超え神々しさすら感じられ、特にダイナミックに広がる星空と眼下に敷き詰められた鮮やかな夜景のに魅かれて訪れる観光客が後を絶たない。

(ももさん、このまま「ドリメガスカイタワー」方面へ行きゃあいい? 葉奈美達はそこに向かってるし。それにこの前、役さんが言ってたけど、あの不動産屋の本社、そのビルに入ってんだよね?)

 耶磨人は既に疲れ切った様な表情で、心の中で百多郎に話し掛ける。が、返事は無い。

 百多郎だけじゃない。珠璃達もそうだ。更に萬までもが加わったにもかかわらず、彼女達が憑依しているのを全く感じられない程に、耶磨人の中から四人の意識は完璧に気配を消し去っていた。その結果、トンネルの前後のゆめモンも、バスの運転手も、耶磨人には全く関心を示さなかったのだ。

(ももさんの結界の力か……凄いな。信じられない)

 驚きと尊敬の思考が脳裏を過る。

(私も、信じられない)

 不意に、氷菓の様に冷やかな珠姫のロートーンの声が、耶磨人の意識に寒々と響く。

(そう思うだろ! すげえぜ、ももさん!)

(あんたの事だよ、私が信じられないのは)

 興奮する耶磨人を、しゃきーんと凍てついた珠姫の怒号が一刀両断する。

(えっ? 何?)

 耶磨人は訝しげに珠姫に問い掛ける。

(あんたのパソコン、見せてもらったよ)

(え、ちょっちょっちょっと待てえい! どう言う意味だそりゃあああっ? 俺の中でいったい何やってんのっ?)

(炬燵にはいっとる。流石にちょっと寒いからな)

 絶叫の思考をぶちかました耶磨人に、萬が何食わぬ素振りで淡々と答えた。

(炬燵って――何?)

(すまん、耶磨人)

 久々に登場の百多郎は、何やら申し訳なさそうに耶磨人詫びを入れた。

(俺の中で何やってんの?)

 耶磨人は百多郎の態度に一抹の不安を感じ取るや、慌てて彼に詰め寄る。

(いや、なに、みんな暇だっつうからよう、たまたま炬燵の上におまえのパソコンがあったから)

(たまたまあったからって――でも俺、ロックしてたはず……)

 なんで自分の中に炬燵があるのかというシュールな課題に囚われながら、それを黙認してしまっている矛盾に耶磨人は気付きながらも、意識はパソコンに飛んでいた。

(わりいな、パスワードは俺が教えちまった)

(え、なんでももさんが知ってんの?)

(そりゃあ、おめえ、俺は守護霊だし。御前の事でわかんねえこたあねえよ。パスワードだけじゃねえ、おめえが女子校生××物が好きだとか――)

(わああああああああああああああああああああああっ! 何それ? 何それ?)

 得意気に言う百多郎の台詞に、耶磨人は慟哭的思考波を乱射した。

(ひょっとして、見た?)

 耶磨人は恐る恐る百多郎に尋ねる。

(だってよう、他に見るもんなかったし)

(あったでしょうがっ! ホラー映画とかアドベンチャー物とか)

(あんた、私達の事、あんな眼で見てるんだ)

 珠姫の刃の様な冷徹の思考が、動揺する耶磨人の意識を容赦なくぶった切る。

(いや、決してそんな――そうそう、あれはふぁんたずぃぃ! 一見、あれっつぽく見えるけど、制服姿の妖精さんが戯れているだけのふぁんたずぃぃ! 嫌だなあみんな、誤解して。あは。あは。あはははははは)

 耶磨人の思考は壊れかけていた。声にこそ出してはいないものの、緊張と虚脱が同時に彼の表情を苛んでいた。もし声に出してへらへら笑おうものなら、間違いなく彼を中心に半径十メートルは人影が失せるだろう。

(耶磨人、何やら違法っぽい映像もあるが、今回は眼をつぶろう。だがな、このような類はせめて人目のつかぬ場所にしまっておけ)

 萬が、抑揚のない事務的な口調で耶磨人に説く。

(しまっておけってえ?、みんながわざわざ勝手に引っ張り出して来て見てんじゃあねえですかっ!)

 耶磨人は、切れた。敬語と文句が入り混じった、例えるならば酢飯のチャーハンの様なアンバランスな言葉の羅列が、怒涛の思考波となって耶磨人の意識を駆け巡った。

(他には、ないの?)

不意に、珠璃が何となく上ずった声でぼそりと呟いた。

(えっ?)

思わぬ不意打ちが、暴走しかけた耶磨人の意識を封殺した。

(珠璃、さん?)

 あっけにとられる耶磨人。珠璃の一言が及ぼした驚愕の波動は、彼女を取り巻く全ての者の思考を停止に追い込み、珠姫に至っては顔が真っ白白に白面化し、そのまま這いずりながら追っかけてきそうな雰囲気を孕んでいた。

(え? あ? 何? あ、気にしないで気にしないで冗談だしいっ! あははははあ!)

 思わず我に返った珠璃は、思いっきり動揺しながら口上を述べると、半音上がったバルタン星人のような声で、からから笑った。

 どっと疲れがでる耶磨人。無意識のうちに、重い吐息が喉を突いて出る。

 帰りたかった。帰って炬燵にもぐりこんで眠りたかった。だがそれを発言する度胸は当然彼に有るはずが無い。

「やあ、お兄さん、どうしたんだい?」

「なんだか顔色が悪いわ」

 突然の呼び掛けに、耶磨人はぎょっとして一歩退く。

 見ると、眼の前をおにぎりに触手が生えたような物体が二匹、ぽわぽわと顔のそばを漂っている。一匹はおにぎり部分にりりしい眼と大きな口。もう一匹は少女漫画的売るうる眼に小さな唇。この近辺の海で大量発生する水海月をモチーフに考案された、ゲートを守るドリモンと同じく、ドリメガのマスコット式神。名前は確か……何だっけ?

「僕の名前はムウタン!」

「私の名前はムウリン!」

「僕達、ドリメガコンサルジュなのさっ!」

 二匹?は互いの触手を器用に絡ませると、えいっとばかりに元気良くVサインでキメのポーズ。

 何となく時代錯誤なノリに、耶磨人は呆然とした面相でムウタンとムウリンを見つめた。

「大丈夫?」

「どこか、具合が悪いの?」

 反応の悪い耶磨人の態度が、体調が悪いかのように見えたのか、ムウタンとムウリンは心配そうな表情で彼を覗きこんだ。

「ありがとう、大丈夫。ちょっと乗り物酔いしただけで……」

 深い詮索と追及を避けるべく、耶磨人は咄嗟に弱々しい声で言葉を濁した。

「それなら、少し休んだ方がいいわ」

 ムウリンがうるるん系きらきら瞳で、けらけらと明るい口調でのたまった。

「ここから二、三分歩いた所に、この島の観光サポートを併設した無料休憩所があるんだ」

「無理しないでゆっくり休んでくださいな」

 彼らはぺこりと頭――というか、上半身――を下げて御辞儀をすると、再びふわふわ街中へと去って行った。

(危なかったあ、見つかるかと思った)

 耶磨人は大きく安堵の吐息をついた。

(なあに、心配いらねえ。あの程度の式神に俺達を嗅ぎつける力はねえよ)

(そうなの?)

 緊張感の無い百多郎の台詞に、耶磨人は怪訝そうな表情を浮かべる。

(耶磨人の中の次元空間に壁をこしらえてあるからな。それにこの島は入る時のチェックは厳しいが、入っちまえばそうでもねえ。監視役の式神さえつかなきゃな)

 百多郎はお気楽な口調でそうのたまった。

(耶磨人、スカイタワー前の歩道を見てみろ)

 百多郎に促されて、耶磨人は間近にそびえ建つドリメガスカイタワー前の通路に眼線を向けた。刹那、彼の眼はピンポン珠の様に眼窩から飛び出しそうになる。

 制服姿の男女の集団が、スカイタワー前で行列を作っている。その中に、耶磨人の二人の妹の姿があった。

 驚きの余りに、絶叫しそうになるのをぐっと奥歯で噛み締める。

 妹達の姿を見掛けたから驚いた訳じゃない。問題はその頭上だ。

 式神が、二人に一体ずつ憑いている。ムウタンでもムウリンでもない。形態は似ているものの、愛らしい顔らしきものは見えず、触手の生えた傘の縁に沿って無数の眼が並んでいる。但し、式神がその眼で監視しているのは妹達ではない。

 耶磨人には見えていた。

 奴らが監視しているのは、その背後に浮かぶ二人――りんとらんだ。りんとらんも其の事は自覚しているようで、耶磨人達の姿を見掛けても素知らぬ素振りで誤魔化し、更には妹達にも気付かせないように、さりげなく二人を別方向へと誘導していた。

(あれは……)

(ムウロンだ。守護霊の力が強いと、奴が監視役で付けられる。一体だけなら大した攻撃力はねえが、非常時には以心伝心ですぐに仲間を呼びやがるから、厄介な代物さ)

 耶磨人の問い掛けに対し、百多郎は忌々しげに答えた。

(ももさんって、この島の事良く知っているけど、前に来た事あるの?)

(攻略本がでてる。昨日、役から借りた)

(攻略本って。まさか、ゲームじゃあるまいに)

 呆れ顔の耶磨人をよそに、百多郎はケケケと笑った。

(ま、ムウロンが憑くって事は、りんもらんも相当力があるって認められた様なもんだ。これなら反対に心配いらねえって事よ。そうそう、珠璃、珠姫、オーラの向きはどちらを指している?)

 不意に、百多郎が姉妹に声を掛ける。

(何故か地面に向かってなびいています)

 珠璃が即答する。

(ひょっとして、珠璃さん達の身体って、この下に?)

 耶磨人は驚きのあまりに両眼をかっと見開いて百多郎に問い掛ける。

(ああ、間違いねえ)

 百多郎は自信たっぷりの得意気な口調で耶磨人に答えた。

(よしっ!)

 萬の顔に笑みが浮かぶ。

(アンダーグラウンドへの抜け道らしきものがある。ここを探れば何か手掛かりが掴めるかもしれぬぞ)

(本当か?)

 萬の言葉に、百多郎は炬燵の天板に身をぐぐいっとのりだす。

(萬さん、今の情報、どこから入ってきたの? ひょっとしてムウタンに対抗して式神か何かを飛ばしたんですか?)

 耶磨人の問い掛けに、萬ははっきりと首を横に振った。

(御前のパソコンからこの島のメインコンピューターをハッキングした)

(へ?)

 耶磨人の眼が点になる。

(これから私がナビゲートする。耶磨人の妹達の護衛は各々の守護霊にまかせ、我々は珠璃達の身体の捜索に入る。まともに不動産屋に仕掛けたところで、警戒されるのがおちだ。ここは遠回りになるかもしれないが、この島のダークゾーンを攻める。よいな?)

 萬が淀みない口調で耶磨人に語り掛ける。流石、あちら側の捜査官として普段から部下に指示をとばしているだけあって、内容が理路整然としており説得力がある。

 妹達の守護霊は、あの美知乃稲荷大明神の娘達だ。二人の守護は揺るぎないものだし、信頼出来る。俺達は俺達でやるべき事をやる――その方が、かえって妹達を巻き込む心配はないのは確かだった。

(どっちに行けばいい?) 

(左だ。しばらく道なりでいい)

 耶磨人の問い掛けに、萬がぼそぼそと呟く。

 高層ビルが立ち並ぶ街並みを眺めながら、耶磨人は人影が絶えない歩道を速足に進んだ。

(埋立地にこれだけの建造物を建てて、地盤沈下しないのだろうか)

 耶磨人にしては珍しく真面目な思索であったが、彼の中で炬燵に潜む面々は、誰一人として食いついてはこない。否、食いつく余裕がないと言った方が良いか。よくよく周囲を見渡せば、無数のムウタン達式神が、あちらこちらで空中散歩をしており、一瞬の気の緩みで全てを無駄にしかねない状況故に仕方がないのだ。

 片側六車線の道路を車がひっきりなしに走行しているものの、大地を揺るがせるような騒音や振動は無い。路面を埋め尽くしているのは数年前に完全普及した電気動力車だ。それ故に、タイヤが路面と接触する際の低い摩擦音だけが、かろうじて申し訳程度のノイズを刻んでいる。

(耶磨人、少し前に地下街への入り口があるのが分かるか?)

 萬の言葉に、耶磨人は前方に目線を向けた。

 確かに、萬の言う通り数メートル先に地下街への入口らしき建物が見える。

「ゆめちか 入口」

 地下への階段の傍に看板が掛かっている。間違いない。

 耶磨人はゆっくりと階段のステップを踏んだ。淡いクリーム色の壁に、オレンジ色の照明が優しい空間を創り上げている。

 滔々と流れる静かなバロック音楽のBGM。だがそれを掻き消すように、無数の靴音が絶え間なく不協和音を奏でている。さっきまでの地上の歩道よりも明らかにこちらの方が人影が多い。

 階段を降り切ると、その直ぐ脇にはエレベーターが十数機あり、人を吐きだしては地上へ、もしくは更に下層へと行き来している。

(萬さん、エレベーターがある)

(それには乗らない。このままフロアーをまっすぐ進んでくれ。そうすれば地下街に出るから)

(了解)

 萬の指示に従い、耶磨人は人の流れにのって歩みを進めた。

 だが、絶え間無く続くはずの人影が、ある一定の所まで達すると、まるで修正液でベタ塗されたかの様に遮断されていた。

 耶磨人は訝しげに通行人達の進路方向を凝視した。白くて重い煙が、正面の壁を静かに流れ落ち、床へと吸い込まれていく。

(何だろう――ドライアイスじゃあないようだし)

(ミストライトウォール。大気中の清浄な気を凝縮して、エンドレスで流し続けている。低級な邪霊であれば容赦なく弾き返す霊力を秘めているが、常人なら大丈夫。むしろ心身をリラックスさせてくれる癒しの効果がある。ドリメガとっておきスポットの一つだ)

 萬の言う通りだった。ある者は黄色い声を上げながら、ある者は無言のまま、躊躇する事無く煙の中へと消えていく。中にはスマホで記念写真を撮っている者もいる。

(萬さん、めちゃめちゃここに詳しいけど、前に来たことあるの?)

(攻略本を見ただけだ)

 耶磨人の問い掛けに萬はにべもなく答える。

(それでは、耶磨人、行きます!)

 音一つたてることなく流れ続ける白煙の気流に、耶磨人は身をゆだねた。一瞬、視界が白亜に染まる。が、次の瞬間、膨大な緋色の光が彼を包み込んだ。

「これは……」

 愕然とした表情で、耶磨人は周囲を見渡した。広い、舗装されていない道。軒を連ねる長屋調の街並み。木造建築の古風な店構えの土産物屋や商店、うどん屋、そば屋などの飲食店が直ぐ続き、其の突き当りには、雲がわずかにかかった巨大な富士山の絶景がリアルに居座っている。

 夕暮れ時の江戸風門前町的な光景。緋色に染まる空に浮かぶ富士山は、見事な赤富士へと変貌を遂げ、遠方ながらも圧倒的な存在感を誇っていた。

(ここは「ゆめこい時代横丁」。江戸時代の城下町をイメージした街並が続くテーマパーク的なショッピングモールだ。異邦の旅人に人気のドリメガイチオシスポットで、毎月変わるテーマにそって時間設定がかえられている。ちなみに今月のテーマは「晩秋の夕暮れ」だそうだ)

 耶磨人は周囲をきょろきょろと見回した。確かに、外国人の姿がかなり見受けられる。彼らにとっての日本のイメージは、最先端のテクノロジーやファッションにデコレーションされた今の姿ではなく、むしろこちらの方に近いのかもしれない。

(萬さん、旅行会社の添乗員になれるよ)

(それ、喜んでいいのか)

(いいと思う)

(耶磨人、次の十字路を右だ)

(分かった)

 萬の指示に従い、十字路を右折。こちらも長屋調の街並みが続いているが、先程とは異なり、ちょんまげ風の髪型に着物をアレンジした作務衣的なコスチュームで、いろんな漢字がでかでかと書かれた意味不明Tシャツを売る青年や、超ミニ浴衣姿で着物系超ミニバージョン着崩し風を売るお姉さま方が、行き交う通行人にしきりに声をかけている。 

(ここは、じゃぱねすく通り。和装を今風にアレンジした新生ファッション発信基地として内外の注目を集めている、言わば今最も旬な場所だ。だが、もっと凄いのは、この通りの真の姿。まずはこの通りを真っ直ぐ進め)

 萬の指示に従い、耶磨人は通りを進んだ。圧倒的に若者向け衣類が多いが、時折草履や下駄を売る店や、子供服専門店、中には忍者服くの一風といった、どう見てもコスプレ専門店的な店が所狭しとぎっしり並んでいる。

 但し全て平屋である為にか、意外と圧迫感はない。むしろフリマ的開放感に似た気軽さがあってか、観光客にとっては気負いせずに覗けるのが魅力的だった。

 思いっきり営業スマイルで魅惑の視線を投げ掛けてくる売り子を交わしながら、二十数分程進んだところで不意に店が途切れた。

(これが、この通りの真の姿だ。この先はまだ開発中でな、道だけが真っ直ぐ伸びている。どこまでもな)

(すげえ) 

 耶磨人が感嘆の声を上げる。

 道は、宙空に浮いていた。

 萬の解説もさることながら、そのスケールの凄さは眼を見張るものがあった。和装的芸術的ブティックの建ち並ぶ一本の道――それは巨大な地下空間の中空に浮かぶ橋のようなものであった。樹木の枝葉の様に、道路の両端に店舗が寄生しているかの如く、くっついているのだ。

 店のない道には、代わりに柵が設けられ、通行人の落下防止をはかっているものの、路肩を歩く者はほとんどいない。たいていは恐怖に足がすくんで歩けないらしい。

 それでも怖いもの見たさの客足は絶たず、稀ではあるが、遥か先まで歩く歩行者の姿が見られることもある。

 耶磨人は柵の間際まで掛け寄った。

(危ない! 落ちる! 離れてっ!)

 珠姫が絶叫の思考を高らかに張り上げる。

(大丈夫、落ちやしねえよ。ひょっとしておまえ、怖いのか?)

 意外と落ち着いた口調で、しかも珠姫をからかう余裕を見せながら、耶磨人が答える。

(違ううっ! 嫌いなだけって!)

 肯定ともとれる否定を示す珠姫。

(安心しろ、耶磨人の言う通りだ。ここから落ちる者はいない。この道はすっぽりと護身を祈祷した霊波動に包まれている上に、ムウタン達式神が絶えず走り回って不審行動をとる者を監守しているからな)

 萬のナイスフォロー的な解説にも、珠姫は不満げな感情を隠しきれずにいる。

(珠姫は小さい時から高い所が嫌いだったもんね)

(お姉ちゃん!)

 珠璃の一言に、珠姫が瞬時にしてブチ切れた。

(おいおい、暴れんじゃあねえ。式神どもに気付かれちまう)

 一瞬触発の危機に、百多郎が仕方無げに間に入る。

 そんな姉妹喧嘩一歩手前の大惨事未遂には眼もくれず、耶磨人は道からの風景に見入っていた。

 疑似夕暮れ時の紅蓮に萌え上がる無数の建造物を支え、遥か下方の世界へと円筒形の柱が伸びている。ただの柱じゃない。それらには明らかに窓があり、等間隔で柱の側面をデコレーションしている。

 この階では圧倒的な優勢を誇る疑似夕陽の光も、流石に限界があるようで、柱状建造物の末端は濃紺の闇に呑まれておぼろげな点描画の空間に呑まれ、どのようになっているのか全く見える兆しが無い。、

(驚いたか。この島は正確にいえば張子のようなものだ。厚さ一〇〇メートルの強化コンクリートで囲まれた地下は空洞になっていて、今だ開発途中なのだ)

 呆然と風景に見入る耶磨人に、萬がそっと囁く。

(でも、何故?)

(これだけの空間を埋め立てるよりも、海水を抜いたほうが効率的だからな。島の基礎は円柱形だから、打ち寄せる波の力をうまく拡散できる。更に、地下深くへと延びる幾つもの建造物と四方に伸びる各フロアーや橋が外壁を補強しているんだ。さっきの道は、まさにそれの一つ)

 萬の台詞に、耶磨人は声一つ上げることが出来なかった。彼自身、ゆめしまの構造は全く知らなかった訳ではない。昨夜、今日の為に都喜美からガイドブックを借り、目を通していたので、萬程ではないが大まかな知識は得ていたつもりだった。

 だが、実際に見た世界は、彼が得ていた情報を遥かに凌駕する迫力に満ちていたのだ。視覚から流れ込んできた情報の洪水が、耶磨人の大脳皮質を鷲掴みにし、ぐりんぐりんと振り回していた。

 ぼやかせた情報のみをメディアに流し、訪れた人々にサプライズ的な感動を与えるのが、「ドリメガ創造管理協会」の方針であるが故になのだが、耶磨人は見事組合側の戦略にはまったと言える。

(耶磨人、行くぞ。目的地は此処ではない)

(どっちに行けばいい?)

(後方右方向へ。数分歩けば更に階下への入口がある)

 萬のナビゲートに従って進むと、その指示通り、地下通路への入口に出くわした。

 絶え間なく続く雑踏に身をまかせながら、耶磨人は緩やかな傾斜を下っていく。

 昔の白熱電球に似たオレンジ色の光を湛えた街灯が、盆踊りの提灯のようにぼんやりとした朧げな光を湛え、どこかノスタルジックな雰囲気を醸している。

 やがて路面の様子が傾斜から水平へと移行すると同時に、無き程までのノスタルジアを一気に破壊するかのようなイルミネーションと雑踏の洪水が、耶磨人を一気に呑みこんだ。

 このフロアーは時間設定を夜にしているらしく、押し迫る闇に対抗するかの様に、艶やかなイルミネーションが所狭しアピールに全力を注いでおり、その先には、居酒屋、カラオケ、クラブなどが隙間無くひしめきあっていた。

(何だこりゃ……さっきまで居た所とは、全然違う)

(俺はこっちの方が性に合ってるな)

 あっけにとられる耶磨人の思考に、百多郎が嬉しげに囁いた。

(耶磨人、そのまま真っ直ぐいくと、次の辻に「居酒屋んぐんぐ」という店が見えてくる。その一歩手前、左手に狭い路地があるから、そこに入れ)

 萬に言われるままに、耶磨人は路地へと進んだ。人が二、三人も並べば肩がぶつかる位の狭い道だ。

 普段は建ち並ぶ居酒屋やバーの従業員が行き来する位の、どちらかといえば業務用通路の様である。

 但し、アルコールに呑まれた愚か者たちが、その洗礼の挙句に上から下から苦行の産物をぶちまける者も多いようで、強烈なアンモニア臭と酸味がかった胃液臭が辺りに満ちていた。

(なんかサイテーな場所)

 珠姫が嫌悪に満ちた台詞を吐く。

(もう少しの我慢だ。この道は主に各店舗の従業員達が使っている。故に、監視の目も少ない。耶磨人、そこの路地を右だ)

(はいよ)

 右に曲がった刹那、色々な料理の混ざった生温かい空気が耶磨人を襲う。

 居酒屋の厨房の裏らしく、轟々と唸り声をあげる換気扇が、その不協和臭の根源だった。単品ではいくら食欲をそそる匂いも、いくつも入り混じってしまうと、それぞれが自己主張をする余りに、悪意に満ちたものへと変貌してしまう。

 その分かりやすい一例が、先程の路地に入るなり耶磨人の鼻腔を襲った苦行の残臭であった。

 だがしばらく進むと、不意に身に覚えのある喧騒が彼を呑み込む。元の通りに戻ったのだ。

(耶磨人、次の辻を左だ。曲がって直ぐに更なる地下入口があるからそこを降りろ)

(えっ?)

 慌てて左に曲がると、壁沿いに『武家屋敷方面』と書かれた階下への階段入口が口を開けている。

 静かだった。

 通行人は耶磨人以外誰もいない。ただ、彼の靴音のみが、重い空気を蹴散らすかのように甲高く響いている。

 一階分程下ったところで、耶磨人は二十畳ほどの広さのフロアーに行きついた。フロアーの奥には、更に下に下る階段が、そこに行くまでの壁には、エレベーターが十台、扉を開放したまま来客者の利用を待ちわびている。

(真ん中のやつにのれ。行先は最下階だ)

 耶磨人はまっすぐ指定されたエレベーターに乗り込むや、最下段である「B2

22」のパネルスイッチに目線を向けた。静かな駆動音とともに扉が閉まるや、スピリチュアル・アイ・センサーが耶磨人の意志を感受し、エレベーターは瞬時にして地下二百二十二階へと到達した。流石最先端の技術が駆使されているからのか、対慣性コントロールは完璧で、急速な落下に近い移動にもかかわらず、耶磨人はめまいやふらつきを覚えるどころか、下降している実感さえ微塵もなかった。

 ドアが静かに開く。

 刹那、不意に空気が変わった。

 耶磨人は細い小道に佇んでいた。振り向くと、エレベーターのドアが消えていた。あるのは黒っぽい板塀だけだ。

(これじゃあ、戻れない)

(案ずるな、街並みの雰囲気を壊さない様に、カムフラージュしているだけだ。すぐそばの板塀に触れてみろ)

 不安がる耶磨人を、萬が制する。

 萬に言われるままに、彼は恐る恐る板塀に触れた。すると音一つ立てる事無く板塀の一部がエレベーターのドアに変貌を遂げた。

(わっ!)

 慌てて手を戻すと、エレベーターは再び消え失せ、板塀が現れた。

(凄い。でも此処まで凝る必要あるのかよ)

 驚きを隠せ得ないのか、耶磨人は自身の動揺を落ち着かせるかの様に、ぶつぶつと心の中で呟いた。

(しばらく直進しろ)

 耶磨人の心中などおかまいなしに、萬は彼に次のミッションを与えた。

高級料亭や割烹が軒を連ねる路地。先程までの喧騒が嘘の様な、静寂に包まれた落ち着きのある雰囲気が、この空間に緩やかな時の移ろいを齎していた。

 全てが茜色に染まる夕暮れ時から、形あるものの輪郭が点描画のように曖昧な映像となって立体に裏打ちされた奥行きを失い、平面の背景に溶け込み始める黄昏時、そして夕闇の迫る濃紺の世界を得体の知れぬものが闊歩し始める逢魔が時――耶磨人が歩みを進めるにつれ、空間の変貌は着実に闇への誘いを受け入れていく。

 通行人は極端に少なく、時折見かけるのは無表情の若者風式神のひく古風な人力車位なもので、そもそも歩いている人影などほとんどいない。

(ここは和好みのセレブや政府高官が御忍びで使用している、隠れ家的なエリアだ)

 萬が例の如くガイドする。

(なんとなく場違いな所って感じ)

 今までじっと息を潜めていた珠姫が、この雰囲気に耐えられなくなったのか、吐息のように思考を漏らした。

(次の路地を左)

(えっ? 路地って?)

(そこでいい)

 耶磨人の驚きの呼び掛けに、萬は淡々と答えた。

 彼の目前には、幅が五十センチ足らずの、板塀と生垣の間に伸びる小径が映っていた。

(まあ、行けないこたあねえけど)

 耶磨人は渋々答えると、その狭い脇道に滑り込んだ。迫り来る建造物が齎す息苦しい圧迫感にあえぎながらも、彼は黙々と歩みを進める。

 数分歩いたところで、耶磨人は歩みを止める。

(行き止まりだ)

 黒っぽい板塀が、彼の行く手を阻んでいた。のり越えられない高さではなかったが、妙な行動をとれば、式神がやってくる可能性がある。余り無茶をしない方が無難だろう。

(そのまま、まっすぐ進めばよい)

(えっ?、まっすぐ?)

 突き破れと言うのか。

 無茶振りする萬に愕然としつつも、どうにでもなれとばかりに耶磨人は塀に突っ込んだ。

 板塀と接触――刹那。

 むせかえるような喧騒の中に、彼はいた。

 振り返ると、さっきの板塀は何事も無かったように背後の路地を目隠ししている。

(フェイクウォールだ。この空間を隠す為のな)

 途方に暮れる耶磨人に、萬がそっと囁く。

 絶え間無く行き交う人影。眩く闇に映えるきらびやかなネオンサイン。

 メイド喫茶、キャバクラ、イメクラ、もっと怪しげな店……人間の欲望を全てぶちまけたような五感を刺激する誘惑が、人々の本能に耐えがたい快楽の囁きを奏で続けている。

(こ、ここは?)

 驚愕に打ちのめされながらも状況把握に努める耶磨人に、マニュアル的営業スマイルを満面に湛えたメイド服姿の少女が、割引券付きティッシュを手渡していく。

《御主人様の御帰りを御待ちしております――メイドカフェ&マッサージ ふにゃら》

 立ち去る少女の後ろ姿をチラ見した耶磨人に、珠姫がわざとらしく咳払いをする。

(耶磨人、今の娘、スピリノイドだぜ。彼女だけじゃねえ、擦れ違うおねーちゃん方は皆、そうだ)

 百多郎が耶磨人の耳元で囁いた。

(まさか。結界だらけの街中にでりゃあ、生きていけないはず)

(ところが、大丈夫なんだな)

(何故?)

(この街には結界がねえ)

(どういうこと?)

 耶磨人は首を傾げた。これだけやばい匂いのする歓楽街で、スピリチュアル的なセキュリティが無いのは致命的だ。欲望に理性を侵食された愚か者や、悪意のある霊体に起因した犯罪の温床になりかねない。

(必要ないのだ。このフロアーごと、巨大な結界が張られているからな)

 萬がさりげなく百多郎のフォローをする。

(耶磨人、何故スピリノイドが大勢いるか、おまえには分かるか)

 百多郎が耶磨人に問う。耶磨人が首をかしげると、百多郎はにんまりと得意気な笑みを浮かべた。

(人件費を安く上げるためさ)

(人件費?)

 百多郎の回答に、オウム返しに答える耶磨人。

(ここで働いてる連中の多くは違法スピリノイド。入魂する時、一度無垢の状態にしてしまえば、あとはいくらでも経営者の思う通りに契約する事が出来る。我々の知る限りでは、ほぼ百パーセントの店舗がタダ同然の契約でこき使っている。それに、街そのものをそっくり覆うように結界を張っているから、不満があってもここからは逃げ出せないのだ)

 萬が、いまいましげに呟いた。

(そんな怪しげな街が、何故、高級料亭のあるような場所のそばにあるんだろ)

(だからこそ、あるんだよ)

 耶磨人の質問に、百多郎が意味深な回答を述べた。

(世界の金持ちの連中が、こっそり楽しむためにな)

 百多郎が、にんまりと猥雑な笑みを浮かべる。

 耶磨人はそっと目線を上げた。

 珠姫達の手前、周囲を見ることなく目線を下げての行軍だったのだ。彼なりの彼女達に対する気遣いだった。だが、百多郎のその一言に、耶磨人の好奇心が急激に増幅した。いったい、どんな風俗店が……違う、違う、いったいどんな連中がやって来るのか。耶磨人は、あふれんばかりの好奇心に後押しされ、大胆にも目を凝らして通行人を凝視する。

(見えない……?)

 耶磨人は愕然としたまま、我が目を疑った。

 見えないのだ。

 通行人達の顔がぼやけて、どんなに目を凝らしても見えないのだ。まるで、その部分だけ、何らかのプロテクターが掛かっているかのように。

(式神が張り付いているのさ。客達が人の目を気にせずに楽しめるよう、ここの連中のささやかな配慮だぜ。けけっ!)

 百多郎が楽しげに奇妙な笑声をあげた。

(ももさん、じゃあ、俺の顔も?)

 耶磨人が、そっと百多郎に囁く。

(残念ながら、ありゃあ正規のルートからここにやってきた連中にしか施さられねえ。なに、心配するな。俺がちゃんとしてやってるからよう。へへん!)

 得意げに鼻で笑う百多郎。

 耶磨人としては自分では確認出来無いが故の不安があった。あとはただ、百多郎を信じるしかなかった。

 耶磨人はさりげなく道沿いにぎっしりと立ち並ぶ風俗店に目線を向けた。 

 艶やかなネオンサインと猥雑な3D画像が、うねうね蠢きながら妖艶な誘惑の旋律を刻んでいる。

 コツコツと響く靴音に混って聞こえて来る押し殺したような喘ぎ声や息使いが、耶磨人の意識に暴走寸前の欲望の覚醒を促そうとしていた。

(耶磨人、気を確かに持て。エロモードエフェクトだ。恐らくこのエリアに潜む霊能士が、低俗な淫夢を誘う夢魔――淫魔を召喚し、通行人達の理性の箍を緩めようと企んでいるのだ)

 萬の至って冷静な助言が、耶磨人の意識に鎮静を施す。

(耶磨人、次の辻を左だ)

 萬の指示に従い、耶磨人は無表情のまま、超ミニスカ衣装で、路上で踊る無数の少女の3D映像の間をすり抜ける。その間に、何人もの顔無男が映像に語り掛け、そのまま映像とともに薄暗い店内へと消えて行った。

 恐らく彼らは店内でその実体と再会し、欲望に導かれるままに目的を果たすのだろう。

 耶磨人は急速に膨らむ煩悩を無理矢理抑えつけながら、萬の指示に従い、再び路地へと歩みを進めていく。

(耶磨人、そこに自販機があるだろ!)

 萬の言う通り、すぐ左手のレンタルルーム前に飲料の自販機がある。

(右から二番目の野菜ジュースを買うのだ)

(萬さんが飲むの? 俺、あんまり好きじゃねえんだけどな)

(とにかく、買うのだ)

 萬にせかされて、耶磨人はしぶしぶ自販機に小銭を投入し、タッチパネルに触れた。かたんという商品の搬出音を確かめながら取り出し口に手を突っ込む――刹那、妙な違和感に耶磨人は訝しげな表情を浮かべる。

(何もない……)

 本来なら出てきていいはずの野菜ジュースの姿は影も形もなく、耶磨人の手は虚しくも空振りし続けていた。

 不意に、耶磨人の動きが止まった。

 と、同時に、彼の顔から急速に血の気が失せる。

 まさに絵に描いたような驚愕を、耶磨人は顔面全体で表現していた。

 血走った眼球が、かっと見開いた瞼のリミッターを振り切り、視神経をずうるりずうるりと引きずりながら眼窩から転げ落ちんばかりになっている。これぞ定版的表現――ムンクの「叫び」った顔。

(耶磨人、どうした? まさか!)

 珠姫が苦悩に満ちた思考を呟き、叫んだ。

(犬のうんこでも入ってたのっ?)

 耶磨人は笑えなかった。脳裏に浮かぶ真剣なまなざしで耶磨人を凝視する珠姫の表情と、余りにもエキセントリックな上にイメージブチ壊し的要素満載の問題発言との、余りにもかけ離れたギャップの凄まじさが、超々リアルイメージ映像となって耶磨人の思考回路に設営された巨大スクリーンいっぱいに映し出されたものの、彼の身に現在進行形で発生している現象から受けた衝撃の方が、比べ物にならない程に遥か独走的優先体制を維持していた。

 意識が混乱しつつも、耶磨人はそれが犬のうんこではないことを必死に思考に綴ろうとしていた。

 耶磨人は、気付いていた。

 彼の手首をぎゅっと締めつけている、それの正体が。

 手だ。 

 それも、肉厚な、明らかに男の手が、凄まじい力で耶磨人の手首をガッシリ掴んでいた。

 しかもその力は、耶磨人達の居る世界とは逆方向にじわじわと動き始めていた。

(やばい……このままじゃあ曳き込まれるっ! ももさん、なんとかしてっ!)

 耶磨人の悲痛な心の叫びに、百多郎が動く。

(耶磨人、行くぜっ)

(えっ?)

一瞬、耶磨人の意識を急激に大増殖したクエッションマークの大師団が完全に占拠する。

 全身の神経をとてつもなくこそばゆい感覚が支配し、瞬時にして無力化した耶磨人は、頭から自販機に突っ込み――通り抜けた。

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