第6話 全ては食事から始まるのだ

「着いたぞ」

 蓮多郎は緊張した面持ちで車を駐車場に乗り入れた。いつもは余裕のある八人乗りのミニバンも、琴能姉妹と百多郎が加わったことで、一見寿司詰め状態になっていた。とはいえ、実体のあるのは高邑家のみなので、実際には人口密度はいつもと同じなのだが。

 耶磨人は車から降りるとゆっくりと辺りを見回した。

『チャイニーズレストラン桜華楼』

 金と朱を主にした艶やかな看板が目を引く。建物自体も中国の宮廷を彷彿させる東洋的建築様式で、色調もやはり看板同様派手派手原色使用となっている。

 有名な美人姉妹の料理研究家がオーナーで、料理も超一流。話題性に富んだいちおしの店として、タウン誌では常に紹介されている。その為か、駐車場はほぼ満車状態だ。

 全ては、ここから始まったのだ。と言うと大げさかもしれないが、珠璃達の話では、ここで食事をしたところで記憶が途絶えているのだという。

 父親の記憶は、ここにたどり着く以前の時点から途切れていたのだが、恐らくそれは霊力の違いだろうとの解釈で全員一致した。ちなみに、彼女達の母親は、どんな料理が出たのか全て覚えており、これからデザートというところで記憶がフェイドアウトしているらしい。

 今回、彼女達が再び高邑家一同と共に此処に来ることになったのは、必然的偶然に他ならない。

 というのは、繭椿が佳奈美に手渡していった食事券が、ここのコースディナーの無料招待券だったという事実。しかも使用期限が今日までという、呆れ返る程にある意味ドラマチックな展開だった。  

 繭椿の余りにもお粗末な対応に苛立ちながらも、店に予約の電話を入れてみると、驚くほど簡単にOKの返事。

 警察の怠惰な対応に業を煮やしていた耶磨人達は、取り合えず我々だけでも調査を進めようと、余りにもベタな、この運命的な時の流れにあえて身を任せる事にしたのだ。

(なんだありゃあ?)

 彼は眼をがしがしとこすると、再び眼を見開く。

 店舗から、蜃気楼の様なものが揺ら揺らと立ちあがっている。派手派手妖艶な店の造りとは相反して、やや青みがかった、静謐な波動を孕みながら、建物をすっぽりとつつみこんでいる。

(あんたにも見えるんだ……あれは結界よ、店内に悪霊悪鬼魍魎の類が入り込まないように術を施してある)

 直接耶磨人の意識に珠姫が語り掛ける。

(二人とも、入っても大丈夫?)

(私達は悪霊じゃあないですうっ!)

 珠姫が不機嫌そうに吠える。

(でも、結界にそんな区別できるのか?)

(心配してくれてるの? 確かに結界はそこまで完璧じゃない。害の無い浮遊霊でも拒絶しようとする。でも大丈夫。君の身体に潜っている限りはね。さあ、行きましょ)

 珠璃が躊躇する耶磨人を促した。

「何してんの兄ちゃん! 早く行くよっ」

「あ、行く行く」

 葉奈美にせかされ、耶磨人は慌てて家族の元へと駆け出した。

「いらっしゃいませ」

 店に入ると白いチャイナ服姿の若いウェイトレスがぺこりと会釈をした。

「予約している高邑です」

 蓮多郎が緊張した面持ちで彼女に話し掛けた。

「かしこまりました。それではこちらへどうぞ。御案内致します」

 ウェイトレスは再びうやうやしく会釈すると、テーブルひしめく大広間には入らず、その脇に続く通路を歩み始めた。深紅のレッドカーペットの両脇をいかにも高級そうな壺やら置物やらが並んでいる。

 しばらく行くと、円形のちょっとした広間に出た。広間を中心に重厚そうな扉が等間隔で並んでいる。ウェイトレスは、そのうちの一室の前で立ち止まるとドアを掛け、みんなを中に招き入れた。

 通路とは対照的に 白をとした基調とした部屋の中央には、高級感と品位を秘めた黒檀のテーブルと、それに相応した豪奢な肘掛椅子がテーブルを囲んでいる。

 耶磨人は席に着くと落ち着きなげに周囲を見回した。

(こんなとこでいつも飯食ってんの?)

 耶磨人がうらやましげに珠姫に囁く。

(まさか、たまたまよ。お父さんが同業者の会合で無料招待券を貰って来たのよ。宴会の時に抽選会があって、それに当たったの)

 珠姫の淡々とした回答に、耶磨人は何故かほっとした気持ちになっていた。

(あのう、ちょっと気になる事があるんだけど)

(何?)

 耶磨人の問い掛けに、珠姫が面倒くさそうに答える。

(ももさん、何処行ったんだろう。何となく居ない様な気がするんだけど)

(さっき、調べ物をしてくるって、ウェイトレスの後にくっついて行った)

 珠姫が呆れた様な口調――本当はしゃべってませんが――で答えた。

(守護霊なのに、俺をほっといて綺麗なオネエさんの尻を追っかけて行ったのか)

 落胆しつつも、とはいえ守護霊様なのだから失礼な事は言ってはならんだろうと、それ以上の台詞は心の奥底に嚥下した。

(大丈夫、何か感じるものがあったのかも)

 慰めともとれる珠璃の台詞に、耶磨人は心の中で黙って頷いた。

 耶磨人は吐息をついた。

 静かだった。

 皆緊張の面持ちで、誰一人と会話しようとしない。予想以上の超高級VIP待遇に場慣れしていないからか、それとも何か起きるかもしれないという不安からなのか。まるで葬儀の様な重苦しい空気が辺りに立ち込めていた。

 不意に、ドアをノックする低い打音が静寂を破る。

「失礼いたします」

 柔らかな口調の挨拶とともに、二人の若い女性が入って来る。

 二人とも腰程にまで及ぶ長い黒髪に均整のとれたボディライン。鳳凰の刺繍が施された紅いチャイナドレスは、まるでモデルの様なシルエットを余すことなく強調している。

「オーナーの桜 満子です」

「オーナーの桜 明子です」

 二人は深々と頭を下げる。

 確かに、噂通りの凄い美女姉妹だ。雪の様に白く透き通った肌、それとは対照的な艶やかな黒髪と魅惑の輝きを湛えた澄んだ瞳。桜色の薄い唇は強い意志とドラスティックなイメージを醸している。それ故に、営業スマイルと言えども満面に浮かべる微笑みは、宝石の様な美しさと近寄りがたい神々しいオーラを放っていた。

「高邑蓮多郎先生、佳奈美先生、そして御家族の皆様、本日は当店の御利用、誠にありがとうございます。どうぞごゆっくりなさっていってください」

 二人は再び深々と頭を下げると。部屋から退出した。入れ違いにウエイトレスが続々と料理を運んでくる。定番のエビチリに鶏の唐揚げ、ふかひれスープといった様々な料理が、鼻腔をくすぐるおいしそうな匂いと共にテーブルを埋め尽くしていく。

(ねえ、「先生」って……あんたの両親、有名人なの?)

 珠姫が声をころして――本当は声じゃないんだけど――囁く。

(あ、言ってなかったっけ? 二人とも作家やってる。ペンネーム使ってっから分かんないかもしれないけど)

(へえええ、凄いんだ)

 高飛車な珠姫にしては、珍しく畏敬の念を込めた感嘆の呟きを綴る。

「食べていい?」

 最初ぶつくさ文句を言っていた葉奈美が真っ先にはしを取る。

「そうね、頂きましょうか」

 佳奈美の声と共に皆そろりそろりと食べ始める。

「おいしい!、流石本格中華!」

(やべえ、このままじゃあ全部食われちまう)

 耶磨人は慌てて箸を取った。

(待て、食うなっ!)

 不意に、百多郎の思考が流れ込んで来る。

(えっ?)

 驚きの声を噛み殺しながら、耶磨人は伸ばし掛けた箸をぴたりと止めた。

(あー、不自然だから取り合えず取り皿に取れ。でも絶対食うなよ)

(ももさん、いったい何処にいってたっ! あんた、俺の守護霊だろっ! 心配かけないでくれっ!)

 耶磨人が怒った口調で――実際にはしゃべってないが――百多郎に語り掛ける。

(いやあ、すまんすまん、御前に心配されるなんて守護霊失格だな)

 耶磨人の意識下に百多郎のへらへら笑いが響く。

(いいか耶磨人、詳しくは後で話すから俺の言う通りにしろ。取り皿に取るのはいいが、絶対に口に入れるな。汁もだぞ)

(ひょっとして、毒が入ってるのか? そうなら皆にも教えないと)

(毒じゃねえ。心配するな。身体にゃあ全く害はねえ。ただ後々の作戦があるんでな、お前は食う真似だけしてろ)

(意味が分かんね)

(みんなを守りたかったら、俺の言う事を聞けっ! ここの店、ちいとやばい臭いがするぜ)

(まさか、料理を食べた者は皆、豚になるとかいうんじゃあ)

(安心しろ、それはねえ)

 今までになく強い口調の百多郎に、耶磨人はこくこくと頷いた。

 静まり返った空間の中、咀嚼する音と食器のぶつかり合う音だけが聞こえている。

 緊張の余りに誰一人と会話しようとしなかったさっきとはちょっと意味が違っていた。緊張感は、もはや微塵もない。皆、食べる事に意識を集中しているのだ。

 不意に、双子姉妹の箸が止まった。次に蓮多郎が、そして佳奈美もそれに続く。

(動くなっ! ゆっくりと顔を伏せろ)

 家族の異常に気付いた耶磨人が皆に声を掛けようとした刹那、百多郎の鋭い口調がそれを制した。

(何が、起きた?)

 すぐさまテーブルに突っ伏すと、耶磨人はそっと百多郎に尋ねた。

(眼だけ動かしてそっと皆を見てみろ)

 言われるままに、薄眼を開けて辺りを見つめる。

 眠っている!

 両親も、そして二人の妹も、すやすやと寝息をたてて眠りこけている。

(なんで? まさか?)

(そう、そのまさかさ。皆、料理に仕込まれた乃乃海月の毒に当たったんだ)

(毒うううううっ? さっき毒じゃないって言ったよな?)

(心配いらん。毒ってったって、即効性の睡眠薬だ。無味無臭で完璧に水に溶け、痕跡すら残らねえ。料理に入れられたら、まず分からねえだろうな)

(じゃあ、私達も眠らされたの?)

 珠璃が、半信半疑の表情で百多郎に尋ねた。

(恐らくな)

 百多郎が静かに答える。

(でも、何のために……)

(それはこれから分かる事だ――来るぞっ!)

 困惑する珠璃を、百多郎が制する。

 ドアの軋む音。それと共に足音が響く。大勢ではない。二、三人位だろうか。

 再びドアが閉まる。

 耶磨人は薄目を開けて入口方面を見る。

 人影が二人――あの美人姉妹だ。

「よくお休みの様ね」

 姉の方――満子が満足げに微笑む。

「そうでもなさそうよ」

 明子の鋭い眼光が、じっと耶磨人を見据えている。

「顔を上げなさい、ぼうや」

 耶磨人は二人を睨みつけながら、ゆっくり顔を挙げた。

「あら、料理に手をつけてない様ね。お口に召さなかったのかしら」

 そう言いながら口元に頬笑みを浮かべる満子の眼は、少しも笑っていないどころか、瞳の奥底に憤怒の炎をちろちろと揺らめいている。

「嫌だっ、乃乃海月の毒入り料理なんて食うもんかっ!」

 耶磨人が吐き捨てるように叫ぶ。

「あらまあ」

 満子が台詞の割にはさほど驚いていない口調で呟く。

「どうしてそれを?」

 明子の探る様な視線が耶磨人を貫く。

「仕方がないわねえ」

 満子が軽く指を鳴らす。

 刹那、足音一つ立てることなく数人のウェイトレスが部屋に雪崩れ込み、耶磨人を取り囲んだ。その顔には先程までの接客スマイルなど痕跡すら残っていない。まるで能面の様な、ぞっとする程に無表情で冷やかなマスクが、対峙する標的を捕らえていた。

「無理矢理にでも食べてもらうよっ!」

 満子が忌々しげに叫ぶ。同時に、ウェイトレス達が耶磨人に飛びかかろうとした刹那、何かに弾き飛ばされたかのように、彼女達の身体が吹っ飛んだ。

「いやあ、いいねえ。ここの飯屋は。綺麗どころのお世話付きとわな。ひょっとしてお子様はお断りの店じゃねえの?」

 間の抜けた能天気な男の声が、張りつめた緊張感を刹那にして糸こんにゃくレベルにまで変換させる。

 薄い紅色の生地に桃果柄の着物姿の男が耶磨人の前に佇んでいた。

「何者!」

 明子が眼を吊り上げて叫ぶ。

「俺かい? 俺はこの坊主の守護霊だ、よろしくな」

「ももさん、こいつら変だ……」

 耶磨人はウェイトレスの面々を見渡しながら、百多郎に囁く。

「ほう! どうしてそう思った?」

「オーラが出ていない」

「耶磨人、なかなかよく見てるじゃねえか。奴らはみんな精霊人。ヒトガタの器に無理矢理魂を押し込まれた連中だ。故にオーラを醸すだけの余力はねえ。ほう……傭兵に殺人犯、厄介な御魂ばかり宿してやがる」

 百多郎は台詞の割には何となく楽しそうに口元に笑みを浮かべると、右手を着物の懐に滑り込ませた。ほどなく取りだされた手には、黒マジックとメモ帳が握られている。

「ももさん、それはっ?」

 耶磨人の眼が点になる。どちらも、彼の部屋にあったものだ。

「ちょっと借りたぜ」

 百多郎は口でマジックのキャップを咥えて外すと、メモ用紙五枚にさらさらと何かを書きなぐった。

「そりゃああああっ」

 メモ用紙が空を舞う。

 白い小さな紙は見る見るうちに変貌を遂げ、全く異質な形状を成していく。

「俺は『かめ○め波』は撃てねえけどな、式神は使えるんだぜ」

 百多郎は得意げな表情でのたまう。

「もも……さん」

 耶磨人は驚愕の表情で桃太郎を凝視した。

「これが、式神?」

 呆然とした口調で、耶磨人は足元のそれを見渡した。

 白い犬が五匹。それも仔犬だ。ちょっと渦巻いたもこもこの毛並みが愛らしい五匹の仔犬が、耶磨人の足元でじゃれ合っている。

「これはまあ、なんのつもり?」

「可愛らしいこと」

 桜姉妹が嘲笑を浮かべながら百多郎を見据えた。

「でもお兄さん、ちょっとおいたが過ぎた様ね」

 明子の眼は、もはや笑ってはいなかった。むしろ憎悪に近い憤怒の炎を黒い瞳の奥に揺らめかせながら、百多郎を、そして耶磨人を実地睨みつけている。

「やっておしまいっ!」

 満子が、眼を吊り上げて憤怒の咆哮を上げた。。

 同時に、無表情のウェイトレス達が一斉に動く。

 刹那。

 仔犬が跳んだ。まっすぐ、彼女達の胸元に。

 耶磨人の眼が点になる。

 突き抜けた――仔犬達が、ウェイトレス達の胸を――でも、穴は開いていない。

 ウェイトレス達の動きが止まる。まさに飛びかかろうとした格好のままで。

仔犬達が何かを咥えている。毒々しい紅蓮の光球が、仔犬達の顎の中で苦しげにうち震えながら揺らめき、やがてかき消すように消えた。同時にウェイトレス達は糸の切れたマリオネットの様にぐすぐすと床に崩れていく。

「残念だな、皆、昇天しちまったぜ。こいつら、なりはちいせいが、神々に仕えし犬――狛犬だからな、御前達のこしらえた精霊人なんざ、屁でもねえぜ」

 百多郎が得意気な笑みを浮かべる。

「脱魂の技だとおっ……くぬうううう……」

明子は鬼女の形相で低く唸り声を上げると、右手を高らかと突き上げた。満子も同様に右手を天高く掲げる。

不意に、大きく広げた二人の掌に無数の紅色の光球が浮かぶ。

 狛犬達が低く唸る。

「やっぱりな、おめえら、魔道の類――御魂使いだな。道理で荒くれどもの魂を自由に操れるわけだ」

 百多郎が何時になく真剣な表情で姉妹を凝視した。

「もはや魂すら生かす訳にはいかぬっ!」

「悪鬼の御魂達に、身も心も貪り食われるがいいっ!」

 二人の美人妖姉妹が、怒号の咆哮を上げた。

 紅球が弾ける。同時に、おどろおどろしい朱色の球体が歪に変形した。

 鋭い爪の生えた節くれだった手足、ぎょろりとひんむいた眼、骨格がもろに浮き出た土気色の痩せこけた顔、体躯と反比例して異様に膨れた腹、大きく裂けた口には黄変した鋭い歯が隙間なく生えている。

 餓鬼だ。満たされることの無い飢餓に取りつかれた悪しき妖。猿程の大きさのそれが、床を、壁を、天井をびっしりと埋め尽くしている。

「どうする? 犬も増やすか?」

 明子が嘲笑を浮かべる。

「いいや、一匹で十分だ」

 高らかに響く百多郎の口笛。

 刹那。

 狛犬達の身体が重なる。

「なにいっ?」

 満子がかっと見開いた眼で、百多郎を凝視した。

 巨大な狛犬が一匹、桜姉妹の間に佇んでいた。澄んだ瞳の奥に憤怒の炎を湛えて二人を威圧している。

「かかれっ、食い尽くせっ!」

 満子が、鬼気迫る表情で、髪を振り乱しながら叫ぶ。

 奇声を上げ、一斉に跳躍する餓鬼達。

 狛犬の怒りの咆哮が空気をびりびりと震わせる。その声音は凄まじく清冽な気の波動となって餓鬼達を呑み込んだ。途端に、餓鬼達は苦しげな悲鳴を上げながら、見る見るうちに崩れ落ち、消失した。

 だが、僅かにそれをかわした数匹の餓鬼達は、即座にターゲットをテーブルで眠りこけている耶磨人の家族達に変えた。

 不意に、餓鬼達の動きが止まる。

 同時に、餓鬼達の身体は音一つ立てずにぐすぐすと崩落し、灰となって床に散らばった。

「うぬう……」

 満子が悔しげに唸る。かっと見開いた彼女の瞳が、二つの人影を捉えていた。

 珠璃と珠姫だ。眠りこける高邑家御一同の前に、仁王立ちになって印を結んでいる。

「私達の身体、返してっ!」

 珠璃が怒りの叫びを上げる。

「何だと? そうか、御前達はこの前――」

 明子がにやりと笑みを浮かべる。

「私達の身体、何処へやったのよっ!」

 珠姫がヒステリックに叫ぶ。

「何処へ? さあ何処へでしょう」

 満子が呟く。と同時に二人は後方へ大きく跳躍。

「待ちやがれっ! 逃がすかっ!」

 百多郎が後を追う。

 刹那。

 鋭い風切り音と共に無数の白い縄が空を駆り、姉妹をぐるぐる巻きにする。

「容疑者捕獲!」

「精霊人雇用法違反および入魂法違反で逮捕するっ!」

 数人のスーツ姿の男達がどやどやと流れ込んで来る。

「大丈夫ですか?」

 一人の青年が駆けよって来る。

「警視庁特捜0課の猪熊です」

 爽やかな笑顔とともに警察手帳を掲げる青年の、白い歯がきらりと光る。

 日焼けした小麦色の肌、きりりと引き締まった体躯、涼しげな眼――あらゆる形容詞を並べても足りないほど均整のとれた端正なマスクが、珠璃を見つめていた。

「0課って、心霊関係の事件を扱う課、ですよね?」

 珠璃が緊張した面持ちで、目前の好青年に話し掛ける。

「ええ。ひょっとしてあなた方――」

「まあ、そのう……」

 珠璃が伏せ眼がちに頷く。

「後で詳しく話を聞かせて下さい。」

 猪熊の涼しげな笑みに、彼女は無言のまま頷く。

「ごんぞー、後はまかして引き揚げるぞ」

 気の強そうな女声が二人の背後から響く。黒髪のポニーテールに切れ長の眼。ギリシア彫刻のような高い鼻に薄い唇。背丈は明らかに百八十センチはあろうかと思われる猪熊に勝るとも劣らず。肌が恐ろしく白く透き通っている。スリムな体躯に黒のパンツスーツといった服装が、その容姿の白さをいっそう際立たせていた。

 決して派手ではない。が、その魅惑的な、それでいて鮮麗な雰囲気を醸す聡明な美しさが、余すところなく集結している。

 あえていえば、この世のものとは思えぬ完璧な美の集大成といえよう。

「あっ!」

 不意に、その麗人が驚きの声を上げる。

「じいちゃん、久しぶり! 元気してた?」

 ほわあっとした笑みと共に、麗人の表情がふにゃあっと崩れた。

「おお、萬じゃねえか、元気そうでなによりだな」

 きょとんとする耶磨人達を尻目に、百多郎は満面に笑みを湛えてがははと笑った。

「ももさん、この人は?」

 耶磨人が訝しげな口調で百多郎に耳打ちした。

「こいつか?、こいつはおれの孫だ。だから、おまえのひいひいひいひいひいひいばあちゃんになるな」

「ばあ、ちゃん?」

「じいちゃんが言ってた見どころのある子孫ってこの子?」

 麗人の優しげな瞳に、耶磨人はどぎまぎしながらうつむく。

「まあな」

 百多郎が妙な含み笑いを浮かべる。

「私は高邑 萬。0課の捜査官。あなた方風に言えば、あちら側のね」

「や、耶磨人ですっ! 宜しくお願いしまあああああすっ!」

 何が宜しくなのか分からないが、まるで劇的に告ったかの様な勢いで、耶磨人は頭を深々と下げた。

「あのう……」

 珠璃が、おそるおそる猪熊に声を掛ける。

「えっ、何か?」

 珠璃に答えようとする猪熊の白い歯がきらりと光る。

「お名前、ごんぞーさん、なんですか?」  

「ええ、そうですけど」

「何でまた……あ、ごめんなさい。失礼なこと聞いちゃって」

 慌てて顔を赤らめながら伏せる珠璃。

「いえいいんです。分かりますよ……不思議がるのも無理もない。誰だってそうなんです。私の名を聞いた途端、誰もがそう思うらしいです」

 猪熊は、うなづきながらそう答えた。

「私の父はゴンザレス猪熊。メキシカンと日本人のハーフでね。母はスイス人と日本人のハーフで名はクララ。それで父と母はお互いの名を取ってごんぞーにしたんです」

「えっ? ゴンは分かるけど、蔵は?」

「クララのクラを取って……」

「えっ?」

 珠璃が眉間に皺を寄せながら猪熊に再度聞き返す。

「つまりクララのクラを日本語変換すると蔵になるので、それを更に音読みにして、ゴンをくっつければ、立派なごんぞーの出来上がりな訳です」

「はあ……」

 爽やかなキラリ眼で語る猪熊の説明を熱心に聞き入っていた珠璃は、複雑な思いを吐息に変えた。

 そんなどうでもいい会話には眼もくれず、百多郎は簀巻き状態のまま連行されていく桜姉妹を訝しげに見つめた。

「こいつら、何を企んでるんだ」

 不意に、二人が立ち止まる。

「さあ、なんだと思う?」

「なんだと思う?」

 二人は、妖艶な笑みを浮かべた。刹那、彼女達を拘束していた白いロープが、ばさりと床に落ちる。

「切れた? 馬鹿な、霊験あらたかな白虎の落毛を織り込んだ特殊な拘束ロープだぞっ」

 猪熊が愕然とした口調で苦しげに台詞を吐く。

「切ったのはこいつらじゃねえ――来るぞっ!」

 百多郎が叫ぶ。と同時に、突然、桜姉妹の足元から黒い影が走る。

 ぎょろりとした巨大な眼、そして左右に大きく裂けた口が、耶麻達の視界を過る。

 蛙だ。黒っぽいマントのフードを深々と被るその姿は巨大な蛙。しかも、手には巨大な鎌が――そう認識した刹那、甲高い金属音が間近で響く。

 鎌使いの蛙――鎌蛙は当惑した表情で百多郎を凝視した。刃渡り二メートルは下らない巨大な鎌の刃を、刃渡り数十センチ程の刃で受け止めている。

 矛だ。全長二メートル程で、その艶やかな黒光りする柄は、百多郎の右手に握られている。

「ももさん、それは……?」

 唐突に現れた得物を驚愕の団栗眼で凝視しながら、耶磨人が震える声で百多郎に声を掛けた。

「こいつか? こいつは俺の商売道具だ」

 百多郎は口元に得意気な笑みを浮かべながら、耶磨人に答えた。

一見、摩訶不思議な対峙だった。片手でひょいと矛を構えている百多郎に対し、鎌蛙は両腕の筋肉をはちきれんばかりに膨らませながら、必死に大鎌を振り降ろそうとしているのだ。にもかかわらず、大鎌はぴくりともしない。

「その矛――貴様、方相氏かっ!」

 鎌蛙が、破れ鍋をぶっ叩いた様なだみ声で、苛立たしげに吐き捨てた。

「おうよ。おっと、てめえのは死神の鎌じゃねえか。でもそれ、おまえのじゃねえな」

 百多郎が鎌蛙をねめつける。

「けっ、ちょっと拝借したまでよ」

 鎌蛙は忌々しげに台詞を吐いた。

「やっぱりな、知り合いの死神に大鎌盗まれたって奴がいたんだが、おめえの仕業だったのかよ」

「そいつは悪いことしたな。で、其の間抜けな死神はどうなった?」

「閻魔様から叱責喰らって謹慎一カ月だ」

「そりゃあああ、申し訳ねえなあ」

 鎌蛙は額に皺をよせながら笑みを浮かべると、大きく後方へ跳躍するや、壁の中へ吸い込まれるように消え失せた。

「ホウソウシって、何?」

 耶磨人は傍らの珠姫にそっと囁いた。

「都に忍び寄る病魔を絶つ、人の姿をした現神の事。あんたの守護霊様、只者じゃないと思ったけど、やっぱりね」

 珠姫は尊敬の眼差しで百多郎を見つめた。

(ももさんって、そんなに凄いのか)

 不意に、桜姉妹の顔が苦し気に歪む。断末魔の悲鳴と共に、二人の身体が大きく弓の様にしなった。裂けんばかりに開いた口から、白い半固形の物質が溢れ出る。

「エクトプラズム!」

 珠姫が、驚愕の叫びを上げる。

 白い半固形物質は、見る見るうちに二人の口から抜け出すや、ふわふわと空中を浮遊すると、蠕動運動を繰り返しながら急速に形状を伸長していく。

 耶磨人は固唾を呑んで、宙空を漂う異形を凝視した。

 次第に形を整えていくそれは、着実にあるものへと像を紡ぎ始めて行く。

 妖だ。二人とも同じ顔をした、切れ長の眼の若い女。黒い鱗を繋いだかのような甲冑様の衣服を纏い、妖艶な笑みを口元に湛えながら、耶磨人をじっと見下ろしている。 

「逃がすかっ!」

 萬が宙空の妖目掛けて右の掌底を撃つ。

 掌から迸る気の波動が蒼白色の光となって妖達を呑み込んだ瞬間、奴らの身体から禍々しい波動を孕んだどす黒い瘴気が立ち昇り、萬の気の包囲網を破砕した。

 姉妹の身体が崩れるように床に沈む。同時に、二人の妖達は、掻き消す様に消えた。

「奴ら、何者?」

 耶磨人が恐る恐る百多郎に尋ねた。

「御霊使いは御霊使いだが、ただの妖じゃねえ。禍々しい落鱗で出来た鎧を身につけてやがった。見掛けは黒龍のそれっぽいがそうじゃねえ。バッタもんにしちゃあ、邪力が半端ねえし」

 百多郎は、妖達の消えた宙空を何処か納得いかない様な素振りで睨みつけた。

「黒龍の・・・落鱗?」

 耶磨人がきょとんとした表情で百多郎に問う。

「本物の黒龍の落鱗で出来た鎧なら、邪を浄化し、黄泉の世界へ誘う力があるからな。奴らの様な邪悪な輩は、身に着けるどころか近寄る事も出来やしねえ。それにしても妙だぜ、この二人、何故器しかねえんだ?」                今だ足元に横たわる桜姉妹を見つめながら、百多郎は思案気に首を傾げる。

「ごんぞー、この二人――」

 萬が猪熊にそっと耳打ちする。

猪熊は黙って頷くと、床に崩れたままの桜姉妹の傍らにしゃがみ込んだ。

「生きていますよね、この人達」

 珠璃が猪熊の背後に立ち、覗きこむ。

「ええ。あなたの言う通り。でも魂が無い」

「魂が?」

「切れてはいないが抜き取られている」

「それって……」

 困惑した表情を浮かべながら、珠璃は猪熊を凝視した。

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