第3話 帰還しました
「繭椿いいいっ! これはいったいどういうことだあっ! さあ言えっ! 早く言えっ! 直ちに二十字以内に簡潔にまとめて説明しやがれってんだあっ! この糞野郎っ!」
蓮多郎は繭椿の胸ぐらを掴みながら、血走った目で激昂――するはずだったが、彼の前には、いち早く豹変し鬼女と化した佳奈美の姿があった。家長としての威厳をと身構えていながらも、その役を妻に取って代わられてしまい、拍子抜けした蓮多郎の意識は、間を持て余しながら時空の遥か彼方に旅立っていた。
「そう言われましても……」
繭椿は頭をぐわんぐわんゆさぶられながらも、ただ困惑の表情を浮かべるだけだった。
「何がそう言われましても――だあっ? じゃあ聞くが、この寝たきりのばあさんとメイドは何なの?」
「おばあさんは、元の住人の唯一の生き残りで、メイドはその世話係の精霊人――スピリノイド――ですが……何か?」
「何かってえ? どう考えたって普通じゃないでしょっ! じゃあ何ですか? こいつらはオプションでもれなく付いてくるってやつですかあ?」
佳奈美は唾を撒き散らしながら繭椿のぬっぺり顔を食い入るように見据えた。日頃温厚な妻がいつに無く見せた激しい一面に愕然とする蓮多郎だったが、当の繭椿は全くこたえてないのか、表情に少しの曇りもない。
「奥さん、ちょっと待って下さい。 契約書をもう一度よく読んで下さいよ」
繭椿は苦笑を浮かべながら、おっとりとした口調で佳奈美を窘めた。
「何だってえっ? 馬鹿にするなっ! 御前を呼びつける前に念の為確認したわよっ!」
佳奈美は繭椿を開放すると、蓮多郎に書類を手渡すように促した。
憮然とした表情の蓮多郎から契約書を受け取ると、繭椿はそそくさと書面に眼を走らせる。が、すぐに顔を上げた。
「奥様、申し訳ございませんが、譲渡物件の契約書を見せて頂けませんか?」
「えっ?」
佳奈美が怪訝そうな表情を浮かべる。
「ひょっとして御覧になられていないようですね――そうそう、それです! ちょっと拝見しますね」
繭椿は佳奈美の手から書類の束を受け取ると、その中から細かな文字がびっしりと書かれたA4サイズの書類を抜き取った。
「奥さん、この書類のここをお読みください」
繭椿は勝ち誇った表情で書類の一部を指差した。
訝しげに繭椿の指し示す一節に一瞥をくれた佳奈美の表情が、瞬時にして大きく歪んだ――刹那、彼女は崩れるように倒れ込む。
「おい、しっかりしろっ!」
卒倒した妻を抱きかかえながら、繭椿が指し示す書類の一節に視線を投げ掛ける。
〈無償もしくは格安物件における譲渡条件について――次の条件を承諾する時のみ、無償もしくは格安による物件譲渡が成立するものとする。①付帯生活者の保護及び看護②廃棄物の分別管理……〉
「付帯生活者の保護だとおおおおおっ!」
契約書の片隅を凝視する蓮多郎の声が震えている。
「御存じかとは思いますが、心理的瑕疵物件に類似する社会福祉法特例物件いわゆる〈じば付き物件〉ってやつです。ちょっと乱暴な言い方ですが、『じ』はじじいの『じ』、『ば』はばばあの『ば』。看護人が何らかの事情で付帯生活者――主に言うお年寄りですね――の世話が困難な上に、不動産を手放さなければならなくなった場合、購入者もしくは非譲渡者がその責務を負うことになっています。土地開発規制法が成立した際に付帯事項として組み入れられた、いわば高齢者の孤独死防止と手頃価格での住宅供給といった二つの大きな問題を一瞬にして解決へと導いた史上最高にして最強の法律です。何しろ、契約締結後にこの義務を放棄した場合、罰則規定が半端じゃないですから」
繭椿は急流下りの如く一気に台詞を吐き出すや、満足げに笑みを浮かべた。
「確か、無期懲役及び財産の全額没収だったよな」
今だ心ここにあらずのぼおっとした表情で、耶磨人が、ぼそっと呟く。
「良く御存じですね!、流石作家夫婦の御子息だけある」
繭椿が白々しくもうれしげな声を上げた。
「この前、授業で習ったんだ……」
耶磨人の記憶中枢は、地歴公民の教師が、授業中に真顔で語っていた体験談を思い起こしていた。
《いいか、不動産屋の中には悪質な業者がいてな、〈じば付き〉であることを巧妙に隠すけしからん輩がいるんだ。わざとに小さな文字でびっしり書かれた契約書を作り、それを何枚も綴って肝心な所を見逃すようにするんだ。俺の親戚で危うくその手に引っ掛かりそうになったのがいる。いいか、みんなも家を買う時には注意をするようにっ!》
短髪熱血野球部顧問の中年オヤジ教師が唾を飛ばして熱く語ったあの台詞が、耶磨人の意識にズズーンと重く圧し掛かっていた。
(言えねえ)
(こんな事、学校じゃ言えねえ……馬鹿にされるのがおちだ)
ぼんやりとした不透明な意識の中で、耶磨人はそうかたく決心した。
「でも奥さん、ラッキィですよっ!、介助に精霊人がついているんだから、皆さんの手を煩わせる事は無いでしょう。また何かありましたら御連絡下さい。十年間保障のアフターサービスが付いてますんで。あ、それと、これ、ささやかですが、サービスの食事券です。よかったらどうぞ――では、そういうことで」
繭椿は勝ち誇った笑みを浮かべながら佳奈美に封筒を手渡すと、そそくさと退散した。
再び、家に静寂が戻った。
声を上げる者は誰一人としていなかった。思いもよらぬ同居人の出現に、誰しもが沈黙の淵に沈んでいた。
「あのう……」
沈黙を破ったのは精霊人のメイドだった。刹那、八つ当たり的な怒りの込められた一同の視線が、容赦なくメイドを貫く。メイドは一瞬たじろいだものの、必死になって無理矢理笑顔を取り繕った。
「わたくし、琴能家当主の珠代様にお仕えするメイドの『ありす』と申します」
舌を噛みそうな長台詞を流暢に綴り、精霊人のメイドはぺこりと頭を下げると、耶磨人達の顔を見渡した。セミロングの黒髪に、利発そうな大きな眼。逆三角形の小さな面立ちは、何とも憎めない不思議な魅力がある。精霊人の本体は万能細胞を培養し作られた人工物だが、その表情は宿る魂によって大きく変わるのだ。恐らく前世は充実した一生を過ごすことが出来た魂なのだろう。
「その……当主の方って」
「こちらのおかたです」
耶磨人の問いに満面の笑みを浮かべながら、この喧噪の中でも昏々と眠り続けている老婆を見つめた。ひょっとして、こうしているうちに、お迎えが来ちゃってるんじゃないかと疑いつつ眼を凝らす耶磨人の瞳に、微かに規則正しく上下する布団の動きが映る。
生きている。とりあえずは。
「皆様、御心配なく。私が御当主のお世話をさせていただきます。部屋もこの一室を使わせていただければ。この部屋の奥には小さなキッチンとバスルームもありますので。それに、私はこの近辺でしたらちょっとした外出も大丈夫です」
「ガイシュツ? 買い物に行けるの?」
耶磨人は驚きの声を上げながらありすを見た。精霊人は人工疑似生体に霊魂が憑依したものなので、生まれながら授かった肉体に比べると霊体との結びつきが弱く、簡単な結界やお札に触れただけで離脱してしまう。最近のスーパーやコンビニは結界をはり、悪霊憑きの犯罪を防御するセキュリティを施して所が多いから、多くの場合、その行動が家の中だけに限られたりする。ありすの発言が事実ならば、極めて稀なパターンだと言える。
「君は、その……この方の御家族がどうなったか御存じなのか?」
「はい、先程いらっしゃいました繭椿様からお話は伺いました。御遺体がまだ見つからないとのことで、先日、形式だけの葬儀は済ませました」
ありすは眼をうるうるさせながら、そっと顔を伏せた。
「あの、さっき、その――おばあさんの名前、何て言ったっけ?」
葉奈美が都喜美の背後から、恐る恐るありすに尋ねた。
「珠代様でございます。《きんのうたまよ》様。略して《き・ん・た――》」
「略さんでいいっ!」
ぱしいっ
ありすの後頭部で乾いた音が弾ける。
前へつんのめりながら振り向いたありすに、満面の笑顔が浮かぶ。
「おかえりなさいませ、珠璃様」
一同、愕然。突然現れた若い女性に全員が釘付けになった
。彼女は、両手を腰にあて、威嚇するかのようなポージングで、ありすの背後に仁王立ちしていた。
艶やかな、流れるような長い黒髪に、鋭い力を湛えた気の強そうな大きな目。すっきりとした高い鼻。薄い、桜色の唇。まるでモデルの様な整った顔立ちに同じく整ったボディライン。アイボリーのブラウスに黒いミニスカートといった決して派手じゃない装いがかえって持ち前の美しさを際立たせている。
「あんた達、何者なの?」
不意に、戦闘的な荒々しい声が、その美女子の陰から響く。
耶磨人は驚いた表情で彼女の傍らを見た。
見知らぬの少女が真横に立っている。年格好は耶磨人の妹達と同じかちょい上位。髪がセミロングで、セーラー服姿である以外は、正面に立っているお姉さんそっくりの風貌。ぶっちゃけいえばお姉さんのちょいミニタイプ。
「あ、珠姫様」
ありすは歓喜に目を潤ませた。
「一体どうなっているんだ? なんで私の家に他人がいるんだ?」
背後から男声低音怒号口調所々半音上ガルが響く。振り向いた眼に、白髪混じりの銀縁眼鏡を掛けたおっさんとその傍らに後ろで髪を束ねた奥さんらしき女性が一人。
「旦那様、奥様も! お元気そうで良かった――でもなさそうですね」
興奮気味に話していたありすの声が、急にトーンダウンする。耶磨人は訝しげにありすを、そして突然あらわれた中年夫婦を交互に見た。
「失礼ですが、あなた達は?」
蓮多郎は警戒の色を表情に張り付かせながら、無表情でつぶやき尋ねた。
「この家の住民です」
白髪中途半端オヤジは憮然とした口調でそう吐き捨てると、眉間に数本の皺を浮かべ、小さな眼をくわっと見開いて耶磨人達を見据えた。
「兄ちゃん、この人、透けてる……」
今まで無言のまま成り行きを窺っていた都喜美が、得体の知れぬ中年オヤジを指差しながら青ざめた顔で呟く。
まさかそんなはずは――あった。眼を凝らしておっさんを見据える耶磨人の眼に、その像を透かして隣の奥さんの姿をおぼろげながら映しだされていた。
「あんた、その、まさか――?」
耶磨人は眼前に佇むシースルーなおっさんに恐る恐る尋ねた。
「その、まさかです」
おっさんは眼をしょぼしょぼさせながら、何故か恥ずかしげにうなづいた。
同時に、声にならない悲鳴が葉奈美と都喜美の喉から迸る。
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