ものがたり

晴澄

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 走りたくない。このまま走り続けたところで何があるわけ? そうしなきゃならない、しないと駄目になるだけ、そんなの、そんなのは分かってる。それで良くなって、いっときは解かれて、でも何か引きずってて――ちびちびした揺れの繰り返し、ずっと閉じてる中のずっと軽く重いままの、不幸でもなく追い詰められつつある感じ、そこに戻るだけじゃなくて?

 人はいつ追い詰められるんだろう? 逃げ場がもうないとき? 足が動かなくなったときのほうが多いんじゃないのかな。とにかくそのときが来るまでは走ろう、そのときが来てしまったら手でも足でも上げてすっかり諦めてしまおう、そう決心したはずだった。けどせめて気を楽にと思ってつくりあげたその観念は、もうそうしてしまえよと何度も語りかけてくる声に変わって、むしろそのときを早めようとして――

 ほんとうのことを言えば、どうしてこんなことになってるかなんて分からないに決まってる。それに目をつむって分かるとこだけ見つけて、走んなきゃって血眼になってるだけだ。

 電柱に付けられたライト、あのはっきりとした光まで、いや次の次ぐらいの光まで行ったら、やめよう。どうなってもいいからやめてしまおう。そんな思いの一方で、光に着いたら結局まだ走り続けることになるのだろう、そうしたら今度またやめる地点を新しく決めて、また過ぎて、また走り続けていくことになるのだろう、そんな無限の苦しみが続いていくのだろう、とも考え始めている。

 一つ目の電柱を過ぎたとき、前面に影が現れた。影は伸びて、薄くなって、それから消えてしまった。なつかしい感じがする。夢を思い出した。子どもの頃の夢。

 向かい合う影はこんなことを言った。「これから世界の裏側に行く。そうしたらそっちに向かって動き出す。二十歳はたちになったら、ちょうど辿たどり着くだろう。そのとき死ぬんだ」

 交渉すべきだった。一年でも長く交渉すべきだったし、影もある程度は分かってくれるはずだった。でも二十歳で決まってしまった。

 二つ目の電柱が近づいてくる。いまきっと影に追われている形なのだろう。二十歳、あと一年ちょっとある、あと一年で死ぬんだ。

 電柱を過ぎた。後ろの影は前に移って、伸びていく。それならあと一年ある、あと一年は死ねない。死ぬべきじゃない気がする、影と約束したんだ。影? そうだ影を、影を追いかけてやる!

 走らなきゃ、止まるべきじゃない、限界なんか知ったことか! このまま走りきってやる! 走りきってやる! 走りきって――

 

 でも誰が?


 

 私が?





          *



        ――四年前



 遠い向こうにいただいた関東の夜空は暗く沈んでいるというよりは紺色に照っているようだった。その明るいひろがりを背にした山々は、自らのなだらかな輪郭をはっきりと黒一色に見せている。そこより内側には黒の他にもう見当たるものは何もないのだけれども、どの山でもスズムシやヒメコオロギ、それから夜鳥やちょうなどがそれぞれ自分だけの声色で鳴いていた。やはり暗くてよく見えないカリヤスやふもとのイワショウブの花といった植物たちは、夜風に吹かれてさざ波のような音を立てている。むことのない声と風が黒い山を包み込み、ひとつの連続体となって天地に向かって弾けていた。

 高笑いするかのようなこの黒いうねりのなかを、しかし光が入りこむ。発光ダイオードのヘッドライト。平行に浮くようにして、前方の道路とガードレールを照らしながらこの車は進んでいく。


すずな  眠たいよ~う、ねぇ寝ていい? まだ着かないんでしょどうせ

佳代かよ   どうなのパパ? てゆうか眠いの絶対昨日昼寝したせいでしょ

すずな  そうだよ生活習慣だよー、だって眠たかったんだからしょうがないじゃん

佳代   あぁあれ録っといたそういえば

すずな  動画で見ちゃったよー、お母さん残念~

佳代   そう、私見るからいいや

すずな  ふふふっ

佳代   どしたん急に?

すずな  え、あー、れいちゃんって子いるじゃんうちんとこに

佳代   あのすっごい可愛い子でしょ、バレー部なんだっけ?

すずな  そうバレー部、でね、その子がね、裏アカで本アカの悪口めっちゃ言ってて、で、本アカのほう見たら裏アカの悪口言ってんの、ずーっと

佳代   ぐるぐるしてるんだ

すずな  そう、馬鹿だわこの子、ほんと馬鹿だわ~


 頬を照らす光を落とさないように操作する右手、ロングパンツのウエストゴムを引っぱったり放したりする左手。後部座席に寝そべる岩永すずなは少し寒かったから、白と茶色のシンプルなトライバル柄のタオルケットにくるまっていた。

 必要な情報だけが明るくなっているこの車内には、一定のタイミングで大きく振動する走行音とクーラーの規則音、それからゴムが腹まわりをバンッと叩きつける音がたまに重なるようにして鳴り続けている。


すずな  てかさ、この格好やっぱまずくない? 白ティーだよ? ラフすぎだよね

佳代   あんたが電話でてそれでいいって聞いたんでしょう?

すずな  普段着でいいって、黒いのはやめたほうがいいってしか言われてない

佳代   で私が言ってもそれ着てくって聞かなかったんじゃん、そうでしょう?

すずな  うーんう~ん、まぁいいや、しょうがないっしょ、はぁ~、もう寝ま~す


 すずながふてくされているのは、手先を動かす以外にやることがないからだ。もっと言えば、車がせっかく東海道を東に走ったのに、都心には入らず北上し続けたからだ。しかしそれ以上に、これから祖父の葬式に付き合わなきゃならないのが億劫おっくうでしょうがないからだ。この一年前にあった母方の祖父の葬式で、すずなはただ一人の子どもであったために親類の関心をもれなく受け、彼ら初対面の厚かましい利他心たちにいろいろと応えてやらねばならなかった。あれをもう一回やるのは面倒だった。

 そしてとどめの一撃はこれからの葬式とすずなの十五の誕生日が重なったことによって振り下ろされる。それもこれも後部座席で隣に座るべき姉がいま居ないせいだと、冷える車内ですずなは感じ始めていた。

 二歳にこ上の姉は二年前に二度目の失踪をした。その行き先はこの車が向かっている人間たちのもとだ。二年間、戻らなかった。ショックは二か月経ってから実感された。母越しに伝わってくる姉についての近況は二回目からは聞かないようにした。今夜はその姉と二年ぶりに再会する日でもある。


佳代   ねぇすず、向こうに着いたらね・・・すず? あれほんとに寝ちゃった


 母の声はすずなにかすかには聞こえていたが、意味のある言葉としては入ってこなかった。それは揺れる音となって、車窓を隔てて鳴っている虫や夜鳥の声と混ざり合っていく。

 暗い空間に輝くものが見えてくる。水色の波だ。波はゆらめいて、それから穏やかになって、輪郭を解いた。平行に進む車は前方を照らしながら、黒い山を登りきろうとしていた。



          *



「あなたはこの先に何があると思います?」 一人の声が後ろからこだまする。

「さぁ、なんだろうな、なーんにもないんじゃないか、少なくとも、俺は何かあると思ったことはないね、まぁあったとしてだ、なんの役にも立たないものなのは、確かだろうな」 もう一人の声が前からこだまする。

 二人は頭上の岩に注意しながら、少しずつっていく。手触りで前方を確認し、つかめるところを探し当て、もう一方の手と足で腹を浮かせては力を抜く、その繰り返しだった。くぼみがあれば水たまりがあり、そのいくつかには水のしたたり落ちる音がする。その音を二人はもう気にしてはいない。

「お前さんはどうなんだい、ずっと意味深なことばかり、言ってるようだが」 前者が聞く。

「私は外に出たいんです」 後者が答える。

「ほらまた、どしどし中に入っておいて、外に出たいときた、はっ、するとなんだ、こっちは脱獄の手伝いでもしてるってか・・・まぁなんとなく分かってきたかも、しれんなぁ、俺もお前さんと、大して違わんのかもしれんな」

 暗闇、緊張、すると勘はえわたる。手探てさぐるほかにその使い道がないこの洞穴ほらあなでは、勘はどうでもよいことばかり切りひらいてしまう。前者は続けて言う。

「いまどきこんなことをするやつは、誰もおらんのによくやるよ、で、お楽しみのそのお外には、何があるんだい?」

「さぁ、あってもなんの役にも立たないものなんでしょうね」

「あぁそう、でもな、無意味だったしても、そんな馬鹿なことをするお前さんを、俺だけは誉めてやるよ、うん誉めてやる・・・お、さぁここまで来たぞ、さぁさぁ」

 前者は立ち上がって歩き出す。後者もすぐそれに続く。

 どこまでひろいか分からない空間が風もなく現前げんぜんしているようだった。後者が腰のあたりから何か取り出そうとすると、前者は間髪かんぱついれずに制止してこう言った。

「いまお前さんの顔を見ちまうと情が湧いちまうかもしれんからね、俺はここで引き返そう、あとはお前さん一人でおゆきなさい」

 後者はそこにあるであろう顔のほうを見つめる。勢いの弱くなっていく三度の呼吸。それから後者は言った。

「それじゃあ、ここで」

 前者も力を抜くような吐息といきをしてからゆっくりとうなずいたのが、後者には分かった。

 後者は進んだ。洞穴は相変わらず何も見せてはくれない。音も匂いもしない。分かるものはもう、何もない。



          *



 光、両足、葉っぱ。邪魔くさい葉っぱ。足上げて進まなきゃいけない。くつが汚れる。でもサンダルにしなくて良かった。でも足首出ちゃってて葉に当たる、直接。お父さんとお母さんはたぶん隣かちょっと前にいる、音するし、ちょっと見えるし。で前歩いてる女の人、あれはかまだよなぁ、でなんだっけ、なんだっけ、えーっと・・・前照らしてないよね、真下じゃんあれ、どゆことなん? てか虫うっさ、私の声に集中できない・・・

 すずなは心の声を喋らせて、なぞっていく。頭がぼんやりしているとき、こうやって整理しようとする癖があった。しかし今回はうまくまとまってこない。というより、ひとつの現象から親しみのある全体が連想されてこないので、いくらそうしたところで今回ばかりはうまくいきようがない。意味がただよってきては霧散むさんする、それを繰り返しているだけだった。

 同級生の机のほうまでこぼしてしまったサラダ、中学の裏庭にあったふたのしてある古井戸、去年見たアニメ映画の色鮮やかな夏景色、レコメンドから渡った荒々しいどこかの部族のメイク解説動画。次第にこういった関係の薄そうなものまで思いだして、帰りたい、とすずなは心のうちで呟いた。それからまた理解に努めようと、歩いている現在地点に帰ってきた。

 今度はすずなと同じスピードで真横を歩く、二匹の青緑色のカッパがやってきた。つぶらな瞳だけは真っすぐに、短い手足をせわしく回している。シロゾウもやってきた。一歩が鈍い、というよりテンポがゆっくりしているのに、しっかり併走している。イリエワニも息を切らし、よだれをまき散らしながら歩いている。規則正しい鱗の並びを見せるその背中には、胴体よりも長いしっぽをぶらぶらさせるカマギッチョが付着していて、イリエワニは彼を迷惑だと感じているわけでもなければ特段配慮しているわけでもないそうだ。ただ無関心かと言われればそうでもないらしい。空にはヤマガラスがわざとらしく大声で鳴きながら飛んでいるが、後ろからその上空をおうという老婆の大鳥が追い越してきて、羽ばたかずとも気流の轟音ごうおんを産み落としてくるためにそんな小声はかき消されてしまった。山の二つや三つ覆ってしまえるほどの大きさの凰が上にいるうちは、誰も自由に動くことができなかった。その姿を見る余裕もない。凰の起こす強風に耐える動物もいた。吹き飛ばされる動物もいた。風に乗って進んでいく動物もいた。それでも皆、同じところに向かっていくだけだ。ヤマガラスの自己主張が微かに聴こえてくる。凰はようやくはるか前方のほうで小さくなっていった。月明かりが細長に照らしている向こうの山々がぞわぞわ荒ぶり始める一方で、動物たちは喜ぶこともなくまた近くに寄り添いあい、掃除機のコンセント収納のようにぐねぐねしながら、確かにある一匹の生命のほうへ引き寄せられている。すずなはそれが何の動物であるか特に気にもせず、この大所帯の中心を歩いていた。ふとコノハズクがどこからか一団をその茶色と黒の大きな目でもって、まなざしてきているという噂があるのを思い出した。そのとき、すずなの周りから動物たちは消えてしまった。

 歩き続けるだけの現実が押し寄せる。また一から理解を始めなければならない。今度は冷静にやろうとすずなは気を持ち直した。

 辛うじて分かることは、前を歩く背の高い女が普通じゃないということ。ぶらぶら揺れ動く袴姿はさておき、まず手に持ったライトはすずなたちに位置を分からせるためだけに使って、自分が前を確認するためには明らかに使っていなかった。慣れていればどうにかなるのかもしれないが、それにしたって躊躇ためらいがない。前方一面が見えているどころか、はるか遠くまで見渡せているかのように、軽快な足捌あしさばきで草むらをかき分けていく。

 風涼しい、虫うるさい、見づらいなぁ、虫うるさいなぁ、いつまで続くのこれ・・・。茂みが地を膨らませている、そんなふうにも見える。その茂みのかげにつまずくものがありはしないか心配するだけで、気が詰まってくる。そもそもの話をすれば、山裾やますそに現れたあの女が車を止めさせて、提灯ちょうちんじゃなくて雰囲気でなくてごめんねーとか言い出しながらガードレールをまたいで草地に突入し、付いてくるよう呼び掛けてきたときにはもうすずなは不信感でいっぱいだった。

 風が強く吹いて、すずなの黒髪が目に入る。直そうと頭を振ると、黒く見える樹の上に空がひろがっていた。音が止んだ気がした。

 しかしすぐまた下を向いて草陰くさかげを見定めなければならない。いたるところで騒ぐ虫たちの声がすずなの耳を刺す。少しの余裕をつくってはまた上を向いてみた、そして下を向く。上を向いて、下を向く。上を、下を・・・。

 すずなは空を眺めたいと願うだけになった。右も左も分からない、どれほど歩き続けなきゃならないのかも分からない。けれどもただ上をもっと見ることができたなら、それでもうすべて心に叶う気がする。そう思いつつも前を歩く女の足元に意識を戻したら、願いの締めつけられる感覚はゆるまって、すぅーっと前のほうへやわらいでいった。

 女が止まった。


―――  あっ休憩にしましょう、休憩休憩! 休憩でーすっ


 振り返った女はライトの先端を回して焦点をひろげていった。はっきりセンター分けのミディアムシャギーに囲まれた顔が、薄い光越しに見てとれる。目を線にして微笑ほほえむこの女にだいぶ年上、という印象をすずなは受けた。


―――  ごめんごめん、ちょっと急ぎすぎちゃったぁ、すずなちゃん疲れてない? 大丈夫? お腹すいてない? あともうちょっとでいっぱい食べれるから、ごめんね、お二方も平気ですか?

佳代   いい運動になってます、子どもに戻ったみたいで楽しいですよ、のははははっ

すずな  私はちょっとっていうかめっちゃ疲れたよ

―――  そうだよね、ごめんごめん、あ、初めまして、でもないんだけど、あ、電話したの私だよ覚えてる? 宮本って呼ばれてます、よろしくね! あとちょっとだからね、休みましょーふぅー、あ、やっぱりお姉ちゃんにそっくりだねー、あ、じんくんにも似てるね、目元がそっくり、ねぇ迅くん?


 休ませろよと内心でつぶやきながら、すずなは前髪を残して後ろに結んでいく。うるさい虫の声を押し退けるように宮本と名乗った女と母が駄弁だべり始めたのを機に、すずなはスマートフォンを取り出したものの、すぐに虫が数匹寄ってきたから諦めてポケットに戻した。

 立っているだけで膝に固いもので細かく叩きつけられるような痛みがしてくる。やや折り曲げてみたり、小刻みに揺れてみたり。虫刺むしさされがちゃんと刺しやすいであろう場所にできて、かゆい。爪でなぞって、別のところがかゆくなって、いて、かゆくなって・・・。そうしてるうちに、そよかぜがシャツの隙間を縫って汗にやさしく吹きかけてきた。黒い樹海じゅかいからは深く染み落ちていくような匂いが漂ってくる。

 あ、とすずなは思い出した。

 上を見よう。



 星々が静止したまま流れている。白い星、青い星、騒がしい星、静かな星、近い星、離れている星。ひとつひとつの星は違っていながら、どの星もいつ輝き尽きるか分からない。そう感じながら、すずなは星々を腹のなかに落としていくように眺めていった。

 果てしない向こうの純黒じゅんこくからこちらへと鋭く射抜いぬくのをやめないその繊細な光線たちは、ほかの輝きにも自らを渡らせようとほのかにれて、それでいて居場所を失うことがない。張りつめているようで、安らかで、恒久こうきゅう的な大河の秩序は、私はお前に対して存在していると、確かに語りかけてきている。それを聴いたすずなの感覚は、自分という輪郭を脱ぎ捨てて、際限さいげんなくひろがり始める。すると大地が空に浮き出してくる。樹木の葉先も山の形も皆一緒になってつま先立ちして、静かに力強く昇っていく。もう不思議ではない。大地は空に浮いていた。

 黒い大地から虫たちの声が降ってくる。初めて聴く声だった。もう一度上を向くと、星空がやわらかく泣いている。つややかに泣いている。やっと通じているということが分かった。通じていながら存在は際立きわだつことをやめない。黒い大地もひろがる感覚も無数の星々も、このあふれる涙のなかを燦然さんぜんと泳ぎ上げようとしている。流れる星空に泣き声があるとするなら、それは虫たちの無限の交響に違いない。



 ある一点のほうから胸に迫ってくる音がする。どーんどん、どーんどん、どんどん、どーん・・・。すずなは我に返って女を見直すと、目が合った。


宮本   やばっ、再開しちゃった・・・そろそろ行かないと、行きますよ皆さん!



          *



 樹海に入ってからはしげみは低くなり、足早あしばやに進むたびに音は近づいてくる。重低音に質の違う高音が混じっているのが聴こえたとき、奥にほの明るい小さな赤色が見えた。が、樹木じゅもくけようと身体からだをずらすとすぐに隠れてしまって、またちらりと見える。

 すずなはもう音が太鼓のものだと分かったし、人のざわついているのも聴きとれている。それもかなりの人の。奥の明かりもひとつではない。進めば進むほど、すべてがはっきりしていく気がする。赤がだんだんと大きくなる。

 いよいよ樹海を抜ける。自ずと駆け足、残りの樹木の数が分かり、あと四本、三本、二本、そして最後の樹木を駆け抜けた。


宮本   とうちゃーく! ちゃーんと特等席!



 人影がたくさん動いている。火の近くに次々に人が現れては消える、そんな箇所が四つ離れてあった。その火は松明たいまつのもので、人の頭ほどの高さがあった。景色は思いのほかひらけていた。

 太鼓の音が胸から四肢ししに打ち響く。それに呼応こおうするようにいま、四方の火から大きなを描くように腰ほどの高さの松明に火がともっていく。その奥にも横長の火が孤立してあったが、そこにも人がいるかどうかすずなには分からなかった。自分たちのそばにも人がやってきて、避けていったかと思えば次の人は隣で立ち止まった。瞬時に緊張が走る。

 燃え立つ円が見事に完成した。太鼓は三回の強音を尻に鳴りやみ、人々のざわめきも徐々に収まっていった。虫たちの声だけが響き渡る。すずなも息をのんで待った。

 すると四点の松明の内側にひとつずつ、火が上がった。両手に持った松明、それに照らされる袴姿はかますがたがゆっくり真ん中へと歩いていく。四つの火は近づくと、しばらくの間をおいてから、下りていった。

 火は炎を生んだ。最も高く大きく。そのとき太鼓が一勢に打ち鳴らされ、続けて円周の人々が歓声をあげる。その勢いにすずなの身体からだは激しく揺らされた。思ったよりも人が多い。円の大きさから考えてもそうであるらしい。

 炎は円に逆巻き笑う。火の粉は観衆をからかうように不規則に踊り散っている。生まれる前から、そしてこれからも従うことが決められている主のように、その中心は誰にも構わず禁止された遊びを一人遊んでいた。 


―――  迅さん迅さん、ちょっとこちらへ・・・



 後ろから男がほとんどわめくように声を掛けてきて、迅は応じて男に付いていった。気づけば宮本もいない。すずなと佳代は戸惑ったが、ひとまず火の円の行く末をそのまま見守ることにした。

 太鼓はどこから聴こえてくるかと見渡してみると、四点の火の前にそれぞれおぼろげながら腕をよく動かしている人たちがいた。三人か四人か、あるいはもっといるかもしれない。それを太鼓と呼んでいいのかすずなは知らなかったが、彼らは小鼓こつづみを腹の前に抱えて叩いたり、横腹に着けるようにして鈎状かぎなりのスティックで叩いている。太鼓らしい太鼓もあった。高音の出どころは見えなかったが、シンバルのような残響のある音ではない。そういった音が無秩序に混ざっているようで、しかしあるタイミングで揃ったり、間をつくったり埋めたりしていた。

 はっきりとしたフレーズがかなでられたのを区切りに音は次第に遅くなって弱まって、次には小刻みになっていく。何かを待望しているようだ。こめかみに響く高い打音がリズムをつくり始めた。合わせてどこからか歌が聴こえてくる。そして繰り返される。気づけば歌はどこからも聴こえるほど大きくなっていった。重低打音もまた強くなる。

 すずなは左隣の人の歌声に気を凝らしてみた。

 こんな歌だった。


 どうせ死ぬならの下で

 どうせ死ぬなら陽の下で

 一をつくれば二にくさり

 解けば解くほど心は巻かれて

 お前の姿に瓜二うりふた

 どちらが眠ってどちらが覚めて

 どちらが転んでどちらが起きて

 鎖は回って地に落ちる

 どうせ死ぬなら陽の下で

 どうせ死ぬなら陽の下で


 いつの間にか真ん中の炎の近くに二人の影が現れて、円の中を対極に走り回って煽り立てていく。立ち止まっては片足で回転したり、両手を上げ下げしてまた走り回る。そうして歌はますます大きくなっていく。どこかで見たモノクロのアニメがこんな動きをしていたのをすずなは思い浮かべた。しかし今動いているのは生身の人間で、片方がすずなの前に来たとき、一気に頭に跳ね上がるような恐れがやってきたけれど、両手の動きを見ているうちに自分たちがここにいるのは変なんじゃないかという胸をき乱す不安にそれは変わってきた。煽りがここから離れてまた遠くに飛んでいくのを目で追いかけると、円で囲む人のうちに歌っていない人や自分たちと同じように普段着でいる人も見つけて、腹に落ちていくように安心した。

 すずなはなんだか楽しくなって、いつまでもここにいられるような気がしてきた。リズムに合わせて身体からだを揺らしてみようとしたところに、急に視線を感じた。近くか遠くか、この集団の誰かしらかあるいは暗闇のほうからか。善い悪いどっちの感情でもってまなざされているかも分からないままに、掻くことのできないかゆさが顔から胸のあたりまでを支配していた。指先で前髪を弾く、きょろきょろ横を向く、背筋を伸ばす、すると腰の下部の後ろを触られる感じがした。同時に視線も切られた。すずなは迷った。どっちだろう、と。すぐにほんとうに触られていると思った。振り返ろうとした瞬間、鎖骨さこつ前も触られ、押される。上体が後ろにらされる。こんなことをするのは――


すずな  痛い、痛いよお姉ちゃん~

―――  お、よく分かったな、でも反応遅すぎじゃない? ほらほらいつもスマホばっか見てんだろ、首が前に浮き出てんぞ

すずな  だから痛いってばっ、息できないぃ

―――  顎下げてケツ前に出してみな、楽になるから

すずな  あほんとだ、じゃなくて放してってば! ・・・ふぅ~


 首を回して焦点を戻すと見慣れた目がそこにあった。こちらを鋭くまなざす綺麗な二重、けれども目尻はまるみを帯びて、その矛盾にきこまれそうになる、この感じがなつかしかった。それに加えていまは黒目が火に照らされて余計に神秘的だった。服はここまでかなりの数を見かけた白の半着はんぎに黒の袴姿、髪はラフなポニーテール、茶髪に見えるのは火のせいかもしれない。

 意外だったのは自分よりも背が低くなっていたことだった。そう思った瞬間に目の前の顔がニヤリと笑って、すずなのほおがつねられる。


―――  肩甲骨けんこうこつはがしもやってあげる

すずな  え、え、痛そうだからやめて、名前が

―――  痛くないよ?

すずな  ちょっ、やめて、こわいこわいこわいこわいこわい

佳代   しゅうちゃん久しぶり

夂    お母さん~、来るのだいぶ遅かったね、もうおじい燃えちゃってるよ


 夂が円の奥で横長になっている火を指差す。


佳代   あれお義父じいさんだったの、のははははははっ

夂    まんまバーベキューだから後で見るといいよ、あでももう焼き上がっちゃったかもしれない、結構経ってるから、今洗ってるところかも


 夂の振る舞いを眺めているうちにすずなは複雑な気分になってきていた。

 二年前の出奔しゅっぽんの前、夂は正気とは思えない言動をとって周りとの関係を荒らし、そして断った。すずなはその乱行らんぎょうよりも、ただひとつ分かることのできた姉が苦しんでいるという事実に対して、悲しむことしかできなかった。

 いま喋っている姉の姿は苦しむ以前よりも深く快活かいかつで、そのことにすずなはまず嬉しさを覚えた。けれども熱の去った後の屋根の下がどれほどさみしく、どれほど母が明るいほうへ向かえるよう気を配っていたのかも忘れてはいない。すずな自身も二年の間に意地を張っていたこともあって、このまま前の関係にさっさと戻っていけるよう腹の固まりをほぐしてしまうことに躊躇ためらいがないわけでもない。それも考えすぎで、今こうして喋れているようにまた・・・といったところですずなの腹が急に締めつけられる。


すずな  ああ腹いてぇ・・・トイレ行きたい・・・

佳代   夂ちゃんトイレだって

夂    あ? あぁそう、ちょっと待ってな


 が、特に何もしない夂。そして佳代と喋り直す。

 すずなは周りを見渡すが、歌と太鼓の鳴り響くこの空間に、意識を越えて目が回り始めてしまう。やっぱり姉を許すべきでないとすずなは結論づけた、とそこに宮本が現れる。


宮本   はいはいどうしましたー? あトイレ! はいじゃあこっち来てねーそうそうこっちこっち


 足早に火の元から去る二人、喋り続ける二人。


佳代   そっちの生活はどう? ちゃんと食べてる? お金大丈夫?

夂    そりゃたんまりよ、見てこれ、これも自前なんだよ

佳代   へぇーそうなの、それ剣道やってる人みたいね、下なんかしっかりしてて高そうだけど、決まってるのそれ着るの? それ綿?

夂    綿、ほかのよりも軽くできてるって言ってた、後で大活躍してもらう予定、な?

佳代   へぇー、でさ、あの燃えちゃってるのって大丈夫なの? その、法律的な話で、いや分かんないよね

夂    あれはねー、身内に燃やすとこで働いてる人がいて 、その人がごちゃごちゃしてくれるんだって、まぁ前もああやってたしたぶん大丈夫なんじゃない? 知らんけど、あとうちら的にもそういう人いたほうが合理的じゃん? すぐかい・・・処理できるわけだし、あ! おばーちゃんに会ってないっしょ、会ったほうが、あでも後でがいいのかな、ん~後でいっか

佳代   パパには会えた?

夂    ・・・会うわけないでしょ

佳代   そう、あのね。パパも言い出さないけど、相当悔やんでるみたいだよ、もうそろそろ連絡だけでもしてあげたら?

夂    そーゆうことを言うこと自体がおかしいの、なんで被害者から歩み寄らなきゃならないわけ? だいたいそーゆう変な重いのも誰も言い出さなきゃ無いに等しいんだから、だからもう無が無で万事解決! 無っ無っ無~っ! 分かったかこのやろう!

佳代   あははははっ、安心した・・・それでお義父じいさんは――



          *



すずな  あぁ~くそしたぁ~


 恍惚こうこつとした表情で仮設トイレから出てきたすずなは目に入ってきた光に対して、ここは火じゃないんだ、という感想をもった。歌と太鼓の音は静かではなかったが、あの円のうちにいるよりはまとまりのある全体として聴きとることができた。

 それから辺りを見渡してみたが、また宮本がいない。なんとなくそのうち来るんだろうという気がしたので、興味本位で火の円とは反対側に歩みだして観察してみる。

 暗い。


―――  ねぇ、ねぇ

すずな  あはい、私?

―――  そう、あなたはお孫さん?

すずな  孫? ・・・あ~はいはい孫です、すずなって言います、どうもどうも

―――  そう

すずな  え?


 すずなの手が浮き出して受け皿をつくる。親指に挟むように茎の長い花が乗せられる、それをすずなは見るしかない。

 紫の花、青白い花。

 茎は長短ふたつに大きく分かれていって、短いほうにはアジサイのように細やかな青白の花が四輪、長いほうには花びらのもっと大きい紫が茎の分かれ目からすぐ、そして先端まで十方じっぽうに向かって咲き誇っている。そのなかでもすずなに向かって与えられている感じがあった。

 イルミネーションよりたった一つのキャンドルの美しさに近い、透明にきらめくこの花に、すずなの胸は甘く澄みきっていく。それから花は散って、舞い上がって、溶けて、消えた。

 暗い。


すずな  あ、幽霊か・・・綺麗な人



          *



佳代   それでお義父じいさんはその、どこかにいらっしゃるの?

夂    いやぁ霊化れいかせずに行っちゃったみたい、でもみんなね、死ぬ前に会えたはずだよ、おじいが死ぬ三日・・・四日だったけな、四日前にね、そろそろ死ぬから来たい人は来るようにって、でね、ふつうに元気そうにしてたからいつもどおりじゃん! って、でも会って三日後にちゃんと死んじゃった

佳代   そうだったの・・・私たちも最後にあいさつできたらよかったんだけど

夂    なんで残らなったかは分かる気がするけどね、てかあれじゃね、あいつがもみ消したに違いない、だって絶対連絡いってるはずでしょ

佳代   ありえるかもねーふふっ

夂    あの年で反抗期とかやばくない? 霊見えないからって、いやまぁそれは関係ないだろうけど、だって私がこーんなちっちゃいときにおじいと会ったっきり会ってないってことでしょ? まじないわー

佳代   あれぇ夂ちゃん、無じゃなかったのぉ?

夂    無だよ~

佳代   ちょっと、あははっははは

夂    じゃそろそろ行ってくるわ、ばいばい

佳代   どっか行っちゃうの?

夂    まあまあ、んじゃ


 夂はそそくさと外周を駆けていった。入れ替わりですずなが戻ってくる。宮本はどこかに消えていた。


すずな  ういーすっ、なんか宮本さんとめっちゃ喋ってきたぁ、あれぇお姉ちゃんは?

佳代   いまちょうどそっち行っちゃったよ、なんかあるみたい、へぇーなに喋ったの?

すずな  さっきさぁ、トイレんとこで幽霊見たんだけどさぁ、それ伝えたらさ、なんかめっちゃ喜びだして! みんなに伝えちゃいましょーとか言って

佳代   いいなぁ、一回でいいから見てみたいなぁ、どんな幽霊だったの?

すずな  んー内緒、あそうだ、あとね、食べものあっちのほうにあっていくらでも食べていいんだってさ

佳代   ほんと? じゃ行ってみる? もうお腹すいちゃって

すずな  なんかこれ終わってからのほうがいいんじゃない? なんとなくだけど、雰囲気的に



 伸びたりちぢんだり、跳ね続けたり回ったり、そして歌に抑揚よくようをつけたりして円はさきほどよりも揺れ動いている。近くからは袴のひらめく音が届いてきて、すずなは何度も目をこすらなければならなかった。円の内側に入っている人も多くなって、やはり跳ねたり回ったり松明を振って煽ったり――その役目は囲む人と不規則に入れ替わって果たされていく、それも唐突とうとつに。見づらくはあったけれど、若いのも年輩ねんぱいも、髪が長いのも無いのも、それから子どもでさえ、リズムに合わせたり乗りきれなかったり、自分だけのリズムを持ったりしながら揺らめいていた。

 いつの間にかすずなも膝を小刻みに揺らしている。ただ隣で真っすぐ跳ね続ける男のようになってみる意気はなかった。ここでは巻き込んでいくということが罪に問われないようで、いつ自分に何かやれと要求されてもおかしくない。すずなはそれが怖かった。

 円の秩序は辛うじて保たれているようだった。真ん中の炎には抱えられるほどの大きさのまきや干したアシをくべる人がいて、また別の人が長い火かき棒で混ぜ返したり掃いたりして加減していた。それを見て思い出したかのように火の匂いがしてくる。彼らは炎が決して弱くならないように配慮するばかりで、強くなりすぎることには全く構っていなかった。いよいよ大きな火のも飛び始め、離れていても危険を感じる。もう煙もたなびいているというより噴き上がっていた。

 目の前に背の高い人が煽り役として近づいてきて、すずなの身体からだは警戒するようにこわばる。その人はこっちを向いたまま軽快なステップで離れていく。両手を前に出しながらまた近づいてきて、その顔をよく見れば宮本だったのですずなは思わず笑ってしまった。

 宮本がまた離れていったところで、歌の中からわめき声が聴こえてくる。それは徐々に大きくなって別の歌だと分かる。太鼓もそっちにリズムを合わせていって、その歌は元の歌に乗り上げて侵食して、ついに完全に切り換わった。


 抜けて 捨てろ またとらえたいのなら

 落として 拾え 再び起きるために

 締めて 上げろ そのまま昇りきり

 聴いて 触れろ 我々は辿り着く

 世界を脱いで血を飛ばし 傷をさかいにいま踊ろう

 生死しょうじはもう別ではない 生者しょうじゃも死者もここに舞おう


 円が持ち直す。内側にいた人は炎の管理人を残して円周へと戻っていく。対して何人かが素早く内側に入って、真ん中の炎と円周の松明の間にある陰へと潜り込んだ。

 出どころの分からないきんと鳴る打音は三回、二回の連続するリズムをゆっくり刻み続け、さらに今度は手拍子のアクセントがそこに加わる。その下では重低音が細かく規則的に、あるいはランダムに打ち鳴らされていく。円周の人々は弱火の松明の側で手を叩きながら身をかがめたりしゃがんだり、そして歌い続ける。

 歌と太鼓が強まり速くなると、炎へと関心が緊張感をともなって絞られていく。手拍子はもう拍手となって、人々は跳ねるのをやめる代わりにおおという声でもって盛り上げていく。

 ついに炎の求心きゅうしんが極限に達した。そのとき陰から男が弾け出た。

 その跳躍ちょうやくに歓声があがって、それから歌に戻って拍手を手拍子にする。曲はまた弱まり遅くなった。

 若い坊主頭の男は円側の火に照らされて、裸足で何かを払うようにして前進する。姿勢を正したかと思えば手を回しながら前に飛び、しゃがむ形で着地した。両手を前に伸ばしている。顔を上げるとその姿勢のままリズムに合わせて小さく跳ねだした。地の感触を確かめているようだった。

 曲がまた強く早くなりだすと、手を腰につけて少しずつ立ち上がり、体を反ってわざとらしく痙攣けいれんを起こす。曲がピークに達すると、反りを限界まで行かせてから、急に前に戻る。凶暴的な踊りだった。

 曲が弱まり遅くなってしばらくすると、三人の男女が陰から飛びだし、さっきの男と合わせて四角の配置につく。そこから似たような踊りを始めたが、今度は低い姿勢を保つ時間が長い。両端に火のついた松明が円から投げ渡され、四人は器用に前に振ったり背中で回したりして、そういう生き物がいるかのようにすずなには思われた。

 曲が強まり速くなると、火の回転は目で追いきれないほどの速さになった。そしてピークを過ぎて曲が落ち着くと、太鼓の打音が分かりやすく小刻みになり、合わせて松明も一定の位置で回り続ける。

 陰から一人が飛び出す。円からあぁと感嘆の声がれる。出てきたのは夂だった。

 地を向いた手のひらはやわらかく、その両腕は上へ上へとひろげられていって白いそでがゆっくり落ちていく。黒い右足が形よく折り曲げられてはまた地に戻り、夂はそうして跳ね進んだ。華奢きゃしゃ身体からだから伸びる首ははっきりとした筋を見せ、その上では顔が鋭くやわらかく微笑んで、そのまた上では両手の甲がいま、くっつきそうになる。一気にその手は背のほうへ、右足は遠く前のほうへ、左足はそのために親指まで伸びきって、土からかろやかに踏み上がった。身体が暗くなり、また照らされる。地に着けばもう次の動き、姿勢を高く右へ左へと跳ね行くとステップしながら両手が右へ、伸びきれば返す弾みでまた飛び回る。さっきの四人は聖者せいじゃの付き人のように低くいかめしく火を回す。夂は足を踊らせながらも一旦止まり、両手を素早くまた頭上に向けたら今度はゆっくり円を描いて下ろしていった。

 すべてが流れるようだった。どこから見られても構わないとでも言いたげな不敵ふてきの表情をのぞかせている。そしてもう動く手に足が跳ねだす。すずなはこんな夂を見たことがなかったし、こんな踊りも見たことがなかった。いくつかの決まった型を自由に組み合わせる即興ダンスは知っていても、決まってない動きが決まってない動きを呼び寄せる目の前のこれを、どう理解していいのか、どういう感情をもって受けとめていいのか、分からない。怖いともあやしいとも色っぽいともとれてそのどれでもないこの不思議な踊りを、すずなは見続けるしかなかった。

 曲が強まり速くなる。気づけば太鼓を横腹につけている人間たちが、円の外周を軍楽隊のように左回りに歩き出していた。四つの部隊に分かれて間隔を保って打ち鳴らすから、音が小さくなるということがない。夂も合わせて両手を自由に運ばせて身体の回転を多くしていった。けれども曲のリズムにとらわれすぎてはいないかのように、連続している踊りの流れを切りはしない。すると夂こそ曲を指揮している、それか曲も夂のすぐ側で踊っている、そんな感じがしだした。両手の右から左へのウェーブを何度か繰り返した後、腰から順に背中を反って頭が空を見上げた瞬間、前方斜めに入れるように一、二、三と回転し、力強く地を踏んだ。ひたいから飛ぶ汗は火によく照って、目の閉じられたその顔の表情は踊る喜びを見る人全員に渡らせようとしていた。

 すずなは間違っていた。夂との関係を元に戻すことなんてできやしない。すずなが意地を張っていた二年の間に夂は自分の生き尽くす場所を見つけ、それか創りだして、そしてすずなは取り残された。――遠い。夂が輝く星々のどれかなら、自分はそのどれでもない。曲がピークに達しようとしている円のなかですずなはそう思い知らされた。

 曲が弱まり遅くなる。夂は仕切り直すかのように肩を揺らして袖を伸ばしづかむとぴたっと止まる。首かしげに下がり目、口元はよく見えない。かすかにその先からまた汗が一滴、流れ落ちた。途端とたんに袖を放すと手が上がり、前に払って後ろに払ってその場で足踏み。肘から先をだらりと垂らす両腕が右肩へと持ち上がり、ついでに手首が捻じれると顔が斜め上を向いて、また止まる。また動き出してはまた止まる。火も半回転、静止、半回転から静止を繰り返す。夂の汗だくの全身と紅潮した横顔は、遠くにあって距離がなかった。銀の輝きが、見えない奥から見える肌へ、そしてこちらに向かって放たれている。悪巧みする表情、その顔が∞字にゆっくり回るたび、誰しもそこに吸い寄せられ、気まぐれに静止すれば耐え難いじらしとなる。すずなはもう自分のことなど考えてはいなかった。それほどまでに夂の身体は円の中心だった。この踊りを最後まで見届けなければもったいない、いやもっと単純に味わわずにはいられないとぞっこんだった。

 曲が強まり速くなる。火がまた高速に回転する。満をして夂はめた力を跳ね飛ばす。その身体は見える以上に感覚に迫ってくる。急に突き放されたかと思えば優しく愛撫される。片足が上がればこっちの胸の下、手先がゆらめけば胸の上に火花が散って、踊りはだんだん大きくなっていく。タイムトライアル形式のエアレースのように大胆に身体を反転させた次の瞬間、踏み外せば死あるのみの綱渡りのような足捌きが始まって、しかしその表情はふざけた動画編集のようにころころ変わる百面相だった。空気が変わった。余興は終わったようだった。やわらかでありながらキレのある回転は、その場を螺旋らせん状に仕立てあげる。そのとき聴こえる音は可視化されて、たかぶらせるだけのものと思われた重低音の連続は銀の竜巻たつまきの表現だといま分かった。すると夂の踊りの感情が読めてくる。静かに前を見つめるときは隠れた怒りとやるせない悲しみが、大袈裟おおげさな身振りには投げやりな感じとゆるぎない意志がにじみ出る。ただその下にはいつも、なにかに導かれる踊りの楽しさがあった。それでいて夂は自由だった。曲がピークに達する。ここには夂と円と曲がある。それから幽霊がある。ただそれがかれたような夂の踊りのことなのか、夂に追いつき理解しようとするこのお喋りのことなのか、それとも全く別の――それは分からないし、どれでもよかった。踊りと幽霊がここにあった。

 打音も歌も火の回転もゆるまり落ちて、地に着く弾みも過ぎればなだらかな道のりになっていく。円がかすかに不安になる。中心の夂は空を見上げたまま動かない。夜がやってきた。胸の下に青い火が灯ってこぼれ落ちていく。背中に風が通る。地面ににじんだ青い火は湧き上がって、銀と水色にゆらめく波になってひろがって、身体を越えて昇っていく。あふれ出すことと受けることはひとつになり、新しい緊張が動き始める。夂が起きた。それから笑って、鋭くやわらかく、力をもってまなざしてきた。


夂  すずな!


 つらぬかれた波は四方へ流れ、すずなの身体は前へと押し出された。両手が上がる、上がって伸びる、伸びて捻じれる。のんびりしていた足は耐えきれなくなってよろめいて、それでも両手は止まってくれない。つられて足も後ろに後ろに、まだまだ後ろに跳ね行くと、反って顔が上を向き、視界も定まらないままに今度は前進、小走りが終わらない。意識が追いつこうとする前に身体のどこもかしこも連動していって、左手の人差し指が力強く曲がってしまえば、首も右手も背中も両足も、曲がりに曲がって立っているのに精一杯。両手が合わさると、低い姿勢になって下半身に力が渡る。左足を軸にぐわんと右回って振り返り、右足を軸にぐわんと左回って振り返る。両手が離れると足踏みが始まった、それからすずなはすべて従うことにした。上がっていく手が遅くなっても感覚にとってはあまりに速すぎて、急に下ろされると手が無くなったようだった。次々に流れだす身体の力強さにすずなはただ驚愕きょうがくしていくばかり、それでも身体は流れていって、それが楽しくて仕方がない。胸のかゆみが舌触りへ、頬の熱さは眉間みけんへ、さらには髪先にまで上気していく。背骨のあちこちがごちごち鳴ると、鎖骨へ肩甲骨へ腸骨へ、それから手先足先へと揺れがつたっていく。すずなは初めて自分の身体に触れて、初めて呼吸している感じをもった。気づけば打音も歌も火の回転も、この流れる身体を盛りたててくれている。何かが聴こえてくる。

 円の曲が駆け上がって燃え立つ。ひろがる波は激流へ。両手が横にゆらめきながら足踏み、次第にすずなは身体の行きたがっているところが分かってきた。右にねじじれて左へ回りたい、そしてそうする。円の内の反対側に走りたい、そして向かう。次々に叶っていくうちに身体の願いは、闇をつかんで放したら面白いかも、右足を前に入れてまた左足を入れていったら気持ちいいだろうな、と着想を呼んできた。すずなはやってみた。右手で正面から闇をつかんで、手のひらを上に返して前へと伸ばし放つ。ひろがる先を見送りながら足を入れてみるが、思い描いたようにはならない。けれどもそのずれがまた、波風になって跳ね回るという着想を呼ぶ。靴が邪魔だと腰が訴えてくるので足踏みの間に器用に脱ぎ捨てて、地と一体になってから跳ね上がって回った。ほんとうに波風になった気がした。そのとき中心でありながら円の全体もはっきり感じ取れた。円に見られている。色んな顔と姿があった。目を見開いていたり、不思議そうな顔をしていたり、歌と手拍子に熱心であったり、上を脱いで跳ねていたり、きょとんとしながらも笑っている母であったり。そういえば姉がいないとすずなは思ったが、不安ではなかった。円は自分が飛び出してからはこの踊りの行く先がどうなるか、まるで分かっていないようだった。けれども、その未知のものに対してとことん付き合ってやろうと意気込んでもいる。すずなはその声を聴いて、円との結びつきを感じ始める。曲がピークに迫ると、この中心は果たして誰のものなのか、と謎めいてきた。意識でもなく、身体の流れでもなく、視線でもなく、入ってくる声でもなく、炎でもなく、場でもなく、そのどれでもある。中心は感覚だった。そして空っぽだった。ひるがえって一切が感覚で、一切が中心だった。どう踊っても、それは中心だった。

 円の曲がなだらかな道のりとなって、熾火おきびになる。ひろがる波も静かに穏やかになっていく。踊り続けるすずなにやっと夂が陰から駆け寄って、足踏みを合わせながら右腕から左腕へ、左腕から右腕へと波風を流す動きをやってみせる。反応したすずなの両手が夂へと投げ出される、夂は水色の波風に流されていって勢いよく跳び回る。足が前で交差して、上体がお辞儀すると逆流し、すずなへ向かって一気に払った。水しぶきの混ざった銀の波風をもらったすずなの足は耐えきれずに滑っていく。また帰ってきて両手で下からすくい上げ、夂は豪雨のただなかで片足立ちで後退していく。それから二人一緒に流れ回って、両手で波線はせんを描いていった。すずなのほうにはぎこちなさがまだまだちらついていたけれど、夂がよりはっきり身体を流すことで踊りの共存は支えられていた。近くにいると夂が唸っているのも聴こえてくる。それは言葉ではなかったが、すずなは夂の声が入ってくる感じがした。夂が上げられた片手を地面に回し落とす。太鼓の音は雷雨のとどろきに仕立て上げられた。するとすずなの見られている感覚が皮膚の感触と反発しながら合わさって、身体から光が洩れていく――上下に揺れる光を受けて、それが強くなっていくのをまだまだ待つ。一回転した、そのまま左へ流れるのに触れて、こっちも前に走っていく――遠くにいながら何をしてるかよく分かる。いま力が開いてじ巻いて、内にめてまた放つ。この顔は自ずと笑って扇の手のひらがひらめいて、空を見上げて進み出す、星々がまたこちらを鋭く射抜いてきて、白さに眩しい滝がいまできあがる――よく笑わせていたのを思い出しながら、もっと笑かそうと乗ってみる。螺旋らせんに力を集めながら、違った螺旋でひっくり返して渡らせる、昇っていく、昇っていく――。どの中心も大きくなっていく。火の回る生き物の腕には血管が浮き出ていて、夜鳥の声もこっちの芯をはっきり突いてくる。きんと鳴る打音の出どころは二本の細長い木片もくへんで、これにも名前があるのだろう。父も宮本も綺麗な瞳でこっちを見て、炎を囲むこの円はひろがり続けるのをやめようとしない。

 円の曲が狂騒して自分という一切を燃やし尽くそうとしている。ひろがる波は銀と水色に輝いて、渦巻うずまきながら昇っていく。――向こうに駆ける必然に偶然が入りこんで止まってみて、左のほうへ流れていく。新しい必然が生まれる。今度は必然を下敷きに偶然を踊らせよう――あちらの踊りは生気せいきのみずみずしさで溢れかえって、こちらの踊りは死のあやしさをまとって、それを地へとにじませている。踊りの先はもう見えている。それを受けれたのなら、始まりと終わりに境はない――必然に収まることはありえない、偶然の入りこむ余地などひとつもない。それは全くの必然、全くの偶然だ。踊りは自由だ。全くの必然と偶然でありながら、必然を呼んでも偶然を差し込んでも構わないのだから――どんなつくられものの表裏にも騙されず、すべて繋がったまま裏返りたい。けれども世界を裏返せば表は裏で、裏は表になる。生死しょうじはもう別ではない。生者しょうじゃも死者もここに舞おう――。曲はピークを迎えようとしていた。その中から虫たちの声が聴こえる。向こうの真ん中から光が降ってきて、はっきり触れてみる。胸の内から紫に透けるまくがひらひらと、折り目を青白く輝かせながら向こうのほうへ延びていった。膜は円を越えて樹海を越えて、黒い山をやわらかく包みこみ、ひとつの連続体となって弾け出した。遥か遠くからどんなときにでも聴こえていたその脈動の音、そして虫たちの無限の交響とともに、円の曲が回りながら昇りきるために鳴らされて、太鼓が一切の終わりを迎え入れようと連打された。波は星空に届いた。中心と円は炎となって、この溢れる涙のなかを燦然さんぜんと泳ぎ上げた。



          *



イリエワニ  で、誰が開けるの?


 暗い木造の部屋の中に小さな火が灯った。少し離れてもう一つ灯った。封の切られた大箱を、動物たちが囲んでいる。


カマギッチョ 手がでかいやつでしょうよそりゃ

ヤマガラス  じゃ俺はここから眺めるしかないわけだな、お手上げだもんな、残念だな

カマギッチョ そんなに言うならその減らず口使って開けてみればいいじゃない

ヤマガラス  これは大事な消耗品なんだよ、気安く――

 

 ばんっ、と部屋の外からシロゾウの鼻が床に叩きつけられた。はりから見下ろしていたヤマガラスは慌てて足を離した。


シロゾウ   これ壊していい?

雄ガッパ   やめときましょうか、外で待っててください

ヤマガラス  ざまぁないね


 シロゾウは反転してから足を折り曲げて腕を組んだ。


イリエワニ  で、誰が開けるの?


 静寂。


すずな    私が開けます

雌ガッパ   いいの? すずなちゃん、ほんとにいいの? 無理はしないで

すずな    私やります

カマギッチョ 威勢がいいのは結構だけれども、勢いにまかせっきりってのも良くないんじゃない? まさかとは思うが、コノハズクのことを気にしてるんじゃないでしょうね?

ヤマガラス  人間様がやるって言ってんだからやらせればいいだろ、そもそもこいつらがしでかしたことなんだから、てめぇのケツはてめぇでぬぐって、あとは記録にでも残ればさぞかし満足なんだろ、ほらこいつらそういうの大好きじゃん?

雌ガッパ   ほんとにいいの?

すずな    はい

雄ガッパ   ・・・ではお任せします、繰り返しますが、まず少しずつ開けて様子を見て、大丈夫そうなら一気に開けます、それからつかみ取るだけ、そうしたらおさらばしましょう、よいですね?


 頷くすずな。


シロゾウ   ねぇ?

ヤマガラス  なんだ! いいとこで

シロゾウ   私来た意味なくない?

カマギッチョ 確かに

ヤマガラス  数合わせだよ数合わせ

雄ガッパ   ここに来るまで何があるか分からなかったんですから、言いっこなしですよ、それにそれはこれからも同じです、伝承は所詮しょせん伝承なんですから

カマギッチョ 伝承なんでんしょうね

ヤマガラス  食い殺すぞ

カマギッチョ まあまあヤマガラスさん、伝承なんでんしょうね、うふふ

シロゾウ   はぁ、無駄死にだけは勘弁だなぁ

ヤマガラス  不吉なこと言うな、シロゾウのくせに

イリエワニ  そろそろいいかな?


 静寂。


ヤマガラス  風情ふぜいがないねぇ、こんなに仲良くしてるってのに

雄ガッパ   では、お願いします


 すずなは皆に注視されながら、恐る恐る大箱のなかに手を入れて、小箱を取り出した。そして指四本でその上部に、一本で正面に張り付いた。


すずな    ・・・開けます

ヤマガラス  さぁ、どうなるか、さぁ

すずな    開けますよ、開けますよ

カマギッチョ 来る、来ちゃう~

すずな    開けますよ、開けるよ、開けるよ・・・開けるよぉ!

―――    はよ開けんかい!


 シロゾウの横を通って夂が部屋に入ってきた。


すずな    お姉ちゃん、だってやっぱこわいよー

夂      じゃ私が開けるから、そこどいて


 すずなの前に割り込んで、即座に夂は小箱に手を置いた。


すずな    えっ、ちょっと


 夂は一気に小箱を開けた。中からぴかっと閃光が走って、夂はとっさに顔を横に向けて、両手で両目を覆った。


すずな    え? え? お姉ちゃん?


 小箱からちょろちょろと細い水が吹き出している。


ヤマガラス  なんだこれ、お前大丈夫か?

夂      いいから中を・・・


 夂が力いっぱい目をつむったまま、小箱に再び手を伸ばそうとした瞬間、小箱から大量の水が部屋に流れてきた。他の皆はぎょっとしてその様を眺めるばかり、夂は水流をもろに食らって吹き飛ばされて、部屋の片隅に背中を強打した。


ヤマガラス  あ、あぁ~逃げろぉ!


 ヤマガラスは飛び去った。すでに部屋は水で一杯で、カマギッチョはイリエワニの背中をつかみ、イリエワニは床の合間をつかんで耐えている。シロゾウも外で踏ん張っていたが、ついに沈没船のように横転してから流れていった。ヤマガラスも追いつかれて呑み込まれて、羽を必死にばたつかせている。


イリエワニ  あー深海にするつもりだねぇ、どうしようもないねぇ


 カマギッチョがその上でなにかもごもご言っているが、イリエワニに乗ったまま流されていった。両ガッパは両手を繋いで水流にうまく乗っている。

 すずなは気づけば片手で小箱をつかんで耐えていた。夂を探す。夂は身体を壁に押しつけられたまま、小箱のほうへ指をさし、それから力が抜けていった。

 すずなは逆流のなか小箱へ向かってもう一方の手を伸ばし、中に入れた。水流のない空洞があった、しかしそこには何もなかった。すずなはヤケクソに手を握った。静止した何かをつかんだ。腕が二重三重四重と捻じ曲がって、全身は部分部分の原型だけ残してぐにゃぐにゃになって、ぐるぐる回り始めた。

 すずなも水流になってしまったとき、つかんだものを可哀そうだと思った。そっと起こしてあげようと、指先を当ててみると、想像以上に強く叩いてしまった。

 つかみ先は目を覚ました。小刻みに揺れてから、急にすずなの顔を確かめるように迫ってきた。すると夂のほうへ行って、丸呑みにした。またすずなのほうへ戻って来て、左目にするすると入りこむ。満足して右目から出ていくと、そのまま深海を駆け上っていった。

 すずなはそれを見送ってから、深海の底に眠り落ちていった。



          *



 虫と夜鳥の声だけの静寂が人間たちを永遠に澄ませている。白く輝くもやのなかに身体を委ねて溶け合って、触れるしずくは胸の奥へとしたたり落ちる。底を冷たく打っては散って、打っては散って――。けれどももやが晴れていく。炎が見えて、顔が見えて、黒い山が見えて、身体を思い出して、もやは去った。恋しかったが悲しくはなかった。ひろさを感じていた。

 急に足腰の力が抜けて崩れ落ちる。すぐに夂と誰かが駆け寄ってすずなを支えた。


夂    ほらけるよー


 円周のほうまで運ばれて座り込んだけれど、気分は悪くなかった。靴も戻ってきた。同じように座り込んだり移動したり、円は気をゆるめたようだった。

 しばらくすると、太鼓が間を空けながら叩かれて、周りの人たちも立ち上がっていった。


夂    立てる?

すずな  大丈夫


 男たちの掛け声と打音のなかにばりばりと鳴る音が混ざる。火の円が分断されると、その外側から十数人が何かを担いでやってくる。火に照らされて現れたのは木造船だった。かじもない代わりに中央やや後ろに小さな屋形やかたが載せられていた。その船の行く道の前方と後方に爆竹ばくちくかれて跳ねている。火よりも煙たい感じだった。

 担がれた船は炎を中心に回り始める。すずなは儀式めいたそれをどう受け取っていいか戸惑った、というよりまだ頭がぼんやりしていた。ひとつひとつ言葉にしてみて分かったのは、屋形のなかに案山子かかしのようなわら人形がいて羽織はおりを被り、いくつもの首飾りをさげている、ということぐらいだった。

 船は三周すると祖父の火葬場のほうへ向かい出す。進路の松明が外されていく。担ぎ手も爆竹も静かになった。人々は松明を持ったりしながら船の両側に寄り添っていく。

 遺体はとうに焼き上がっていたようで、八つの石柱せきちゅう、ナラのまき、その上にステンレスの焼きあみという構成の火葬設備に火はもうなかった。上面だけ見れば確かにバーベキューだった。火葬場の先には二本の竹が先端を十字にして立てられていて、それが一、二、三と三角の囲いを大きくしていく。その奥はひろい河だった。

 すずなはその河の存在に今更ながら驚いた。河辺はまるい小石とアシの葉を始まりに盆地のほうへひらけていて、河はゆらめいてはいたが静かだった。

 両側の人々は立ち止まって、船は火葬場と竹の囲いの横を過ぎていく。先に八人、河の浅瀬に浸かっていって、船縁ふなべりに付いている取っ手を受け取り、それから放す。船が浮かぶと拍手喝采かっさい、緊張がひとつ解けたようだった。

 火葬場前から男が竹籠たけかごを抱えてやってきた。皆それを凝視する。そのとき三、四人が駆け出して男から竹籠を奪い取ろうとする。


―――  おおおおいっ、やめっ、やめんか!

―――  だって焼いた後は好きにしていいって言ってたもん!


 ざわつき始める。横にいる夂が溜め息をつく。


夂    やってくれましたねー占いの連中が

すずな  占い?

夂    そういう趣味なんだよあいつらは、あの中よく見てみ、綺麗になったおじいがいるから、で骨は占いに使う気なんでしょ、ちっとも当たらない占いにね

すずな  へー例えば?

夂    んーとまず、正月にいつおじい逝くか占ったんだけど、来年って言ってたし、しかもやっぱり五年後! とか言いなおしてたし、私にもてきとうなこと言いやがったし

―――  何やってんだ馬鹿野郎!

―――  おいアホ! キチガイ! いい加減にせんか! このに及んでそれはないだろ!

―――  よく見えないよ!

―――  お前も取られそうになってんじゃねーぞどもりが!

夂    ほんとだよ、ほらぁーすずなも引いちゃってんじゃん! なんか言ってやれよ!

すずな  え、えぇ~、が、がんばれ~


 場がどっと沸く。野次も煽りも本気で怒っているわけではないようで、それなりに怒っているようでもあった。それが唐突に静まり返る。争点に向かって男が詰め寄っていく。


―――  迅さん・・・



          *



 淡い暖色の飾りつけに満ちた室内、天井はそう高くない。ひとつの名がもうどれだけこの部屋のなかで、いつも優しく、ときにおどかすように呼びかけられただろうかと、男は思い返していた。事件があるごとに出来上がる記念日はそろそろ四周し始める。記念日は「重複したっていいじゃない」と不敵に笑いながら言った女に、どこまで本気なのかとは男は尋ねなかった。言葉を返す気力も起きないぐらい、特に脳幹のあたりが眠気に襲われていた。

 四か月前に始まった新しい習慣はもうしばらく続きそうだった。朝も夜も唐突に起こされて、打って変わって音ひとつ立ててはならない静けさが部屋を浸す。足りなものは足していって、過剰なものは取り払う。ときに他者にもあからさまにか気づかれないようにか手伝ってもらいながら、この新しい習慣に慣れていった。異和感もいつの間にかなくなっていった。

 恋人が母と父になるとはこういうことだな、と男は前に抱えた赤ん坊を上下に揺らしながら実感しなおしていた。女は男にまるで配慮せず、あれやこれや、次から次へと注文、訂正、注文を繰り返していく一方で、ときには恋人であることを恋しがっているかように男にゆっくり顔を着ける。どちらにしたって男は嬉しかった。

 抱えているのは中心だった。生えかけの髪も産毛も腕もお尻も表情も雰囲気も、何もかもが甘くやわらかく夕日に映えている。笑うか泣くか黙るかの単純な表情が、奇跡のように男の感情をどこまでも転がしていく。赤ん坊に動かされる、こっちの表情や気を使って元気にさせる。男は中心であることの心地よさを、中心から離れることでようやく知った。

 これがあるべき姿だと、どこからか声がした。

 男はもう何も抱えてはいなかった。外はやけに静かだった。「歌舞音曲かぶおんぎょくの禁止」 そんなフレーズが町中に行き交っていたのを男は思い出した。目を開けてからは早かった。シールが剥がれた跡の残るドアノブを回して外に出ると、「痕跡を探す、痕跡を探す、意味のある痕跡を探す」と呟きながら、一人淡々と歩いて行った。



          *



 船の上には姉妹と両親、祖母、黒猫と白猫、さっき竹籠たけかごを持っていた男とぎ手の男、それから竹籠のなかに骨上こつあげされた祖父が乗っていた。漕ぎ手の操るかいは船の真後ろからしっぽのように飛び出て、左右に振られている。

 祖母の髪は黒でも白でもなく銀に染められ無造作むぞうさに結ばれていた。姉より小柄だったが、最も機敏で船にも最初に乗り込んでいた。その祖母が母と妹にこれから起こることなどを説明してくれている。

 黒猫は姉の膝元で寝転がり、白猫が退屈そうにしていたので妹が撫でようとすると気だるそうに姉のほうへ逃げていった。姉が鼻で笑う。

 この船の横には百に届かないぐらいの小舟と灯篭とうろうがゆっくり併走している。そのひとつひとつに妹は夢中になっていた。灯篭には猫や狐や狸や現代的なキャラクターが描かれ、小舟には蝋燭ろうそくが灯っていたり、目を強調した不気味なメイクの人形が乗っていたり、紙か本物か分からない花冠が飾られたりしていた。小舟と灯篭は、赤や緑や青といった色で照らされて進んでいく。

 大船が加速する。小舟と灯篭たちを置き去りにすると、河のなかに孤立した。船は反転すると、そこで停止する。流されないように漕ぎ手が器用に調整している。もう一人のほうの男が父に向かって頷く。

 父は屋形から竹籠を取り出して、左舷さげんのほうに持っていく。そして中から骨を拾った。それが身体のどこのものか妹は分からなかったが、よく会っていたかのような親しみを感じた。祖父がどんな人が分かった気がした。

 父は骨を見つめ終えると水面へ手を伸ばし、放した。しぶきの音は僅かだった。船には明かりがあったが、水面は陰になっていてやや暗かった。河底はもう全く見えない。父はまた骨をつかみ、落とす。骨は闇のなかへと消えていく。ただ、ゆらめく水面にほんの少しの波紋がひろがっていった。それからさっきと同じ水面に戻る。また波紋が水面に逆らうようにひろがり、元に戻る。骨は波紋を通して何かを伝えているようだった。やさしく歌っているようだった。

 竹籠の中は半分ぐらいになった。父はあごのない頭蓋ずがいを両手に持った。河に落とそうとして、やめる。頭蓋を持ったまま、父は静かにうずくまった。額が合わさっていく。それから小さく震えた。


迅  お父さん・・・お父さん・・・


 静寂のなかにすすり泣く音が渡っていく。母はもらい泣いて、祖母は悲しげに見守っている。妹は頭蓋に流れる涙を目で追って、姉は二つの頭をまっすぐ見つめている。白猫があくびをすれば黒猫はとうに眠っていた。

 月の光が水面にぼんやり映っている。そこに小舟と灯篭が追いついて、明かりが色とりどりにゆらめいていく。強調されたり混ざり合ったり、月の光はもう分からない。けれども上を向けば月が白くはっきり照っている。月は星々より明るく大きいために孤立しているが、明るく大きく孤立するという仕方で星々と通じているようだった。

 船はたくさんの光に囲まれて浮いている。自分の光と小舟たちの光、水面の光に星々の光、そして月の光。八月の夜は明るく賑やかだった。



          *



夂    やっぱお母さんが一番ぶっとんでるんだよ、おじい燃えてるの見ていきなり笑ってたんだよ?

佳代   だって皆さん方、もう何でもありじゃない、しゅうちゃんはまともでいなきゃね

夂    そのいかれた皆さん方にいかれた遺伝子でまともに育つわけないでしょ、おばあちゃんぐらいだよ正常なのは

佳代   お義母さんお世話になりました、どうかこの子をこれからもお願いしますね

夂    ひーおっかねぇ~

京子   任された、こっち来なさい

夂    おっとぉ、そろそろ帰るんでしょ、すずなんとこ行ってくるわ、んじゃまたね、ほら宮本あげる

宮本   わぁー

佳代   あちょっと! もぉー宮本さんすみません、夂! 電話ね!


 夂の駆けていった反対側から迅と男がやってくる。


―――  最後にこちらが先生の霊石となりますが

迅    いやそれは受け取れない、そっちで保管してくれたほうが父も良いと思うでしょう

―――  ではこちらで・・・しばらくお預かりいたします

迅    うん頼んだ

宮本   迅くん帰っちゃうのー?

迅    あぁ明後日あさってからまた仕事だからね、一日は休まんと耳がね

―――  この時期にもですか・・・じゃ私が車まで車で案内しますんで、車もってきますんで少々

佳代   え? 車で?

迅    やっぱりなぁ、ここ来たことあったからなぁ、ふはははははっ、たぶん向こうからふつうに来れちゃうんだよ

佳代   やだぁ~言ってよそれならぁ

迅    言わないほうが雰囲気でるだろ、な?

宮本   ・・・提灯ごめん、ほんとごめん・・・



すずな  石川さん、おじいちゃんってどんな人だったの? だったんですか?


 周りから最高齢と呼ばれる中肉中背の姿勢の良い古老は、エプロンを着けてせっせと動き回っているが喋りはゆっくりだった。


石川   いやぁ、もうそりゃ、ねぇー、なんと言いましょうか、永忠えいちゅうさんはねぇ

すずな  なんかみんな答えてくれないんですけど

石川   いやいやぁ、勘弁してくださいねぇ、ほらお肉追加ですよ


 飯盒はんごうで炊かれた焦げ目のついた白米。大雑把に切られた野菜のただなかで脂ぎった肉が焼かれ踊るジンギスカン。塩たれをふんだんに塗りつけた焼き鳥に、ほの甘い香りのするヤマメとイワナのみりん干し。牛肉豚肉のどんな部位でも美しい赤身が重厚な茶色に縮みながら変わっていって、次々とすずなの目の前に運び込まれる。それを片っ端から腹に入れながら、すずなは老若男女のあいさつを受けることになった。肉が口の中で溶けていく一方で、中国、韓国、東南アジア諸国の分からない言葉もやってきたからびっくりしたものの、すずなは持ち前の順応じゅんのう性で肉を片手にそれらを処理していった。

 無駄に多い二、三百の長机の側にはシートが敷かれ、大勢の大人と子どもが休んだり寝ていたり気を失っていたりしている。踊りの最中にも何人か運ばれていたらしい。円のほうでは女の人が心地良い独唱を聴かせていて、炎もいまは座る人間たちを癒している。


夂    すずな、お母さんがそろそろ帰るだって


 すずなは最後に急いで焼き鳥を口に入れておく。


すずな  まだ食べたいのにぃー・・・石川さん!ごちそうさまでした

石川   はーい、すずなちゃん、我々はいつでもお待ちしておりますからね、あーそうそう、ご飯は十八時半ですからね、お忘れなく


 すずなは愛想良く一礼してから夂のほうへ歩み寄った。   


すずな  お姉ちゃんは帰んないの?

夂    行かないし、まだ踊るし

すずな  まだ踊るんだ、てか私もほんとは・・・ねぇそのうちそっち行ってもいいのかなぁ、私も・・・私も霊術師になりたくなったかも

夂    ん~霊さえ見えてりゃいつでも、てゆうか今来ちゃいなよ、ちょうど一人減ったんだし

すずな  え~今? 今かぁ、どうなんだろ、どうしたらいいかなぁ、お母さんたちもいるし、ん~大学生ぐらいになったら、とか?

夂    それは自分で決めなきゃ、まぁ連絡するわ、とりあえず

すずな  え? 私の連絡先知ってったけ?

夂    電話は知らんけど、あれだろ、あい、だぶりゅー、えぬ、じー、えす・・・

すずな  それ知ってるんかい・・・

佳代   すずー?

すずな  分かったぁ! じゃ連絡しといて、頼んだよ、んぁ~なんか今日めっちゃ楽しかったなぁ~

夂    そういや誕生日になったんじゃない?

すずな  そうだったぁ、お葬式とダブった誕生日で~す、そうだこれお葬式なんだよね、てっきりお祭りかと思ったよ

佳代   すず!

すずな  分かったってば! じゃあねお姉ちゃん! また向こうに――


 頬をつねられ、目の前にニヤリと笑う顔。


夂    いや、お祭りだよ











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