ヒトゴロシを追ってる。

 ナナさんは確かにそう言ったけど。僕にはそれ以上くわしく聞こうとする勇気もなかったし、ナナさんもそれ以上語ろうとしなかった。当然のことだと思うけど。

 中華屋を出てから、僕らはまた三原高原に戻った。ナナさんはカーナビに片っ端から三原高原の名所を入れて、ナビの指示通りに道を進んだ。


 三原高原の森公園――秋にはバラでいっぱいになる庭園があるけど。この時期は完全に閉鎖。守衛さんがいたから話を聞いたけど、マヤのことは知りもしなかった。園長に聞いてみると言っていたけれど、たぶん望み薄だろう。

 三原高原カントリークラブ――ゴルフ場だ。ラウンジにはスーツを着た酔っぱらいのおじさんたちがたくさんいた。フロントのお姉さんに聞いたけど、やはり収穫はなし。

 三原リゾート・アンド・スノーパーク――ナイター営業中だった。でも、今年は雪が少ないとかで、客入りは少ないらしい。それに、ホテルも山奥の県境にある。だから、正直マヤの情報が得られるとは思っていなかった。一応行っただけ、という感じだ。だって、歩きで来るようなところじゃないし。それにマヤが駅で目撃された時間には、もうリゾート行きのシャトルバスは終わっていたはずだから。


 そうして三つの場所を巡ったら、もう時刻は夜九時を過ぎていた。いつもならウチにいて、風呂にも入り終わっているころだ。

 だけど今日、僕は外に出ている。それも知り合ったばかりの女性のクルマに乗って。

「収穫ゼロね、まったく」

 ナナさんはそうつぶやいて、ワインディングロードを駆け抜けた。ジムニーが放つヘッドライトは、暗闇を切り裂き、木陰の先にある標識を浮かび上がらせる。『熊出没注意』とか『落石注意』とか『スピード落とせ』とかって書いてある。

「このあとはどうするんですか」

「このあと? ああ、最後に道の駅に行こうと思ってるけど。で、そうしたら、もうそろそろ寝る支度をするわ」

「寝るって、どこで?」

「そこ」

 と、ナナさんは後部座席を指さした。

 フルフラットになったジムニーの後部座席。そこには大きなボストンバッグ一つと、ギターケースみたいな長方形のハードケースが一つ。それから濃紺の布団の塊があった。布団の塊というか、それは要するに寝袋だった。

「車中泊だけど。どう、それでもわたしに付き合う?」

「ウチに帰るよりマシです。それに、僕がおとりになったほうが、ナナさんが追ってる犯人が見つかりやすいんでしょ? そしたらマヤだって見つかる。そうなんですよね?」

「そうだけど。無理に付き合えなんて言わないよ。わたしとしちゃ、キミんちを張り込んでもいいわけだし」

「でも、僕がやりたいんです」

 僕は意を決してそう言ったけれど、実際のところ声は震えていたと思う。だって、ナナさんが追っているのは『ヒトゴロシ』で、それがマヤ失踪に関わっていて、今度は僕をねらっているというのだから。自ら進んで殺人鬼のエサになろうって、そう言っているようなものなのだから。

 でも、僕は後戻りしなかった。

 マヤが見つかればそれでいい。僕に必要なのは、見せかけの家族なんかじゃない。それは、常々思っていたことだった。

 なんだか僕は、ここ数日のどにつかえていたモノがようやく落ちたような、そんな気がしていた。

「なるほど、ってワケだ。オッケー。それなら寝袋は貸すよ。わたしはシートで寝るから、後ろ使って」

「ありがとうございます。すみません、なんか……」

「いいって。付き合わせてるのはわたしだし。でも、そのぶん約束するよ。マヤさんはわたしが助けるし、キミのことはわたしが守るってさ。警察の威信にもかけてね」

 ナナさんがそう言ったとき、道の駅への案内板が見えた。ヘッドライトが看板に描かれた地図を切り出していく。


 夜の道の駅は、がらんとしていた。時刻は午後十時前。駐車場に向かって横一列に長屋のように並んだ店舗は、いずれもシャッターを降ろし、『本日の営業は終了しました』の札をさげていた。二十四時間を続けているのは、駐車場脇にある自動販売機の群だけ。その隣にあるセルフのガソリンスタンドも、もう営業を終了していた。

 誰もいない駐車場の一番はじっこ。そこにクルマを停めると、ナナさんは外へ出る支度をはじめた。

「調べるついでに何かあったかい飲み物でも買ってくるよ。ナギサ君はクルマの中で寝袋の支度でもしておいて。エンジンはかけておくからさ」

 言って、ナナさんはキーをダッシュボード脇の収納スペースに置いた。ちょうど助手席のドリンクホルダーの隣ぐらいのとこに。

「あ、寝袋の使い方はわかる?」

「大丈夫です。林間学校のキャンプで使ったので」

「じゃあオッケーね。ちなみに飲み物は何がいい? わたしはコーヒーだけど。ココアでいい?」

「えっと、じゃあ僕もコーヒーで」

「大人だねぇ。ブラックでいい?」

 コクリと僕がうなずくと、ナナさんはニッコリと笑ってから「了解」と小さくつぶやいた。


 ナナさんはコートをはためかせて、トタトタと自動販売機の方へ。それから道の駅の店舗の周りをグルグルまわりはじめた。

 はじめは彼女が何をしているのか気になって見てたけど。でも、途中からそれもやめて寝袋の用意を始めた。

 寝袋。実を言うと、林間学校の時もけっこう用意するのが大変だった。ちゃんと開いてからかぶって、チャックを上げるのが面倒で。結局、同じグループの友人とすったもんだした。

 でも、今回は違う意味で大変だった。

 ナナさんの寝袋は、かなりいいモノなんだと思う。スベスベのシーツは心地いいし、中綿はフカフカ。雪の降るこの真冬でも、ぜんぜんあったかいぐらいだ。想像以上のあたたかさに僕も驚いてしまったぐらい。

 じゃあ問題ないじゃないかと思うけど。問題はそれとは別にあって。つまり、それは寝袋に染み着いたにおいだった。甘ったるいキャラメルみたいな匂いと、どこか香水のような鼻を突き抜けていく香り。それは母だとか、マヤとも違うにおいだった。母は化粧品のにおい――そう、たとえばデパートの一階みたいな――がするし。マヤはシャンプーの匂いがする。ドラッグストアに売ってる女性用シャンプーを泡立てたときみたいな、ふわっとした石鹸のにおいだ。

 でも、この寝袋からするにおいは、そのいずれでもなかった。もちろん僕のにおいでもない。それは女性のにおいだ。ナナさんの匂い。甘ったるくて、でもすこしピリッとしたにおい。鼻の奥に何かが突っかかるような、そんな香り。

「なんだろう、このにおい……」

 僕はそうつぶやいて、寝袋をかぶったままシートに体を倒した。フルフラットになった後部座席は、僕が寝転がっても十分に余裕があった。

 疲れていたんだと思う。僕は寝ころぶと、自然と目が閉じた。肌にまとわりついた汗が気持ち悪かったけど。でも、それ以上に疲れが勝っていた。

 まぶたが落ちたとき、僕は何も考えていなかった。ただ暗闇の中、僕以外に誰もいない空間に安心を覚えていた。心臓の鼓動みたいなジムニーのエンジン音が、まるで母さんの心音みたいに思えていた。


     †


 母さんについて覚えていることが、一つだけある。ほとんどは成長とともにどうでもいい記憶にかき消されてしまったけれど。でも、たった一つだけ鮮明に覚えていることがある。

 それはケーキの味だ。

 まだ母さんがいたころも、父は例によっていつも家を空けていた。仕事だというけど、詳しいことは覚えてない。そしてあの日も父はいなかった。

 それは忘れもしない、僕の七歳の誕生日のことだった。僕は電話の向こうの父に「プレゼントはラジコンがいい」とか言ったのだけど。結局、父はその約束を守らなくて。それどころか家にさえ帰らなかった。

 だから母さんが言ったのだ。「じゃあ、二人で一緒にケーキをつくろうか」と。

 一緒にスーパーへ買い出しに行ってから、二人でキッチンに立った。僕はホイップクリームを作る係だった。あのとき僕は楽しそうに電動泡立て器をつかんで、生クリームを顔中にまき散らした。舌に残った甘い味と、鼻孔をつくモーターの熱いにおい。それが今でも記憶のなかに鮮明に残っている。そして、それが僕が唯一覚えている母さんの記憶だった。クリームだらけの僕を隣で笑う、あの朗らかな笑顔。

 でも、僕はもうケーキなんて作れなくって。料理なんて覚えてなくて。

 ――母さん、どこに消えたんだ。

 ――母さん、いついなくなったんだ。

 ――母さん、どうして消えちゃったんだ。

 僕は問いかける。

 でも、問う相手なんてどこにもいなくて。僕は母さんが消えた理由を覚えてないし、父さんは答えてくれないし。はもちろん知っているはずがないし……。

 だから、僕は無色透明なガラス窓を叩くみたいに、ただ叫ぶしかないのだ。

 ――ドンドンドン 母さんはどこ?

 ――ドンドンドン マヤはどこ?

 ――ドンドンドン 僕が好きだった人は、どこに行ってしまったの?

 ――ドンドンドン 僕は……


     †


 ドンドンドン。ドンドンドン。ドンドンドン……。

 窓ガラスを叩く音。僕がどこへもあてられない叫びを、無へと叩きつける音。

 僕は、目に見えないガラスのドアを叩いていた気がした。だけど、いま腕の感覚はない。殴った手応えだとか、ガラスの冷たさとか、手の甲の痛みだとか。そんなものは何一つない。当然だ。僕は寝袋のなかに丸まって寝ているのだから。

 ――そうだよな。夢、だよな。

 いまになって母さんに会えるはずもないし。ケーキを作れるはずもないし。そうだ、ぜんぶ夢の中の幻だった。

 僕はそう思おうとした。

 でも、違った。窓ガラスを叩くあの鈍いの音。それは、実際に響いていたのだ。ジムニーの窓が揺れて、空気は震えていた。まるで僕を叩き起こすみたいに、誰かがクルマのドアを叩いていたのだ。

「ナナさん、かな……?」

 僕はそう思って、眠い目をこすりながら寝袋を出た。

 だが次の瞬間、目に飛び込んできたのは、まったく知らない人だった。

 窓ガラスの向こう。クルマの右側に四人の男が立っていた。ダウンジャケットを着込んだ見かけ二十代ぐらいの男性。一番前にいたのは、この真冬には似合わない黒く焼けた肌をしていた。それに暗がりでよくわからなかったけれど、首筋にはタトゥーと金色のネックレスがあった。タトゥーは英語だったから、なんて刻まれているかまではわからなかったけれど。でも、あまりいい意味ではないとだけは、中学生の僕でもなんとなくわかった。

「なあ、ボクさあ。ちょっと!」

 ドンドン、と日焼け男はジムニーの窓ガラスを叩き、僕に言った。その口調はフランクすぎて、なんだか礼儀に欠けてる感じがした。率直に言えば、チンピラみたいな。そんな喋り方だった。

「なあ。ボクさあ。ちょっと開けてくれよ、なあ? 頼むぜ。話があるんだよ。なあ、ボク?」

 舌打ちみたいな音と、口の中でクチャクチャとリズムを刻んで、抑揚を織り交ぜるみたいなしゃべり方。僕をおちょくるようなその言葉遣いに、後ろにいたもう三人は笑っていた。

 後ろの三人も、どうみても不良かチンピラみたいな格好だった。耳に銀のピアスをビッシリ着けた男に、髪を真っ赤に染めた男、そして坊主頭に剃り込みを入れた男と。見た目でからして真面目な人間には見えない。

「頼むぜ、ボク。開けてくれよ? じゃないとさ、こっちから開けちゃうことになっちゃうからさ。な、いいだろ? 手荒なマネはしたくねぇんだよ」

 ――え? こっちから開けるって?

 思考が追いつかない。

 こいつら何者だ?

 どうして僕に話しかけてる?

 こっちから開けるってどういう……

 考えようとしたけど、考えるよりも先に正解があらわれた。

「じゃあ、やっちゃうぜ。ちゃんと離れてろよ? 死なれちゃ困るからさあ!」

 日焼けの男はダウンのポケットに手を突っ込んだかと思えば、そのから何かを取り出す。それはハンマーだった。工具箱からそのまま引っ張りだしてきたみたいなカナヅチ。だけど、それでも窓ガラスを割るには必要十分のパワーがあるはずだ。

「ごめんよ、ボク。でもね、オレたちも仕事なんだよ。ボクをさらえば大金が手に入るんだ。わかるだろ? だから、おとなしく捕まってくれよな!」

 男はハンマーを振りかぶり、それを勢いよくガラスに打ち付けようとした。

 僕は恐怖に目をつむり、一歩後ろへ退いた。やられる。もうだめだ。マヤの次は、やっぱり僕だったんだ……!


 バチン、と強烈な音がした。

 でも、それはカナヅチが窓を割った音ではなかった。おそるおそる目を開けたけれど、ハンマーは炸裂していない。窓には傷一つ付いていなかった。

 さっきの音は、どうにもブレーカーが落ちた音みたいだった。それも巨大なブレーカーだ。その証拠に道の駅駐車場にあった街灯が一斉に消えていった。自動販売機も、通路脇の案内板の表示さえも。すべて。

 一瞬で暗闇になったことに、男たちも驚きが隠せないようだった。ハンマーを振りかぶっていた腕も、自然と下におろされていた。

「おい、なにが起きてる? 真っ暗で何も見えねえぞ!」

 その通りだ。ここは三原高原の山のなか。街灯が消えれば、あとは星明かりしか存在しない。そしてその満天の星空も、夜の雑木林を照らし出すほどの力はない。

「おい、このガキ何かしやがったんだ!」

「まさか、ガキじゃねえだろ。だってあいつ、そこでチビってたぜ?」

「じゃあ誰がこんな?」

「もしかしたらケイコさんが言ってた、ほら! ガキと一緒にがいるかもって! ほらさ、たしか女の名前は、マ――」

 破裂音。

 男の言葉を遮るみたいに、鈍い音が響く。ハンマーが衝突したみたいな音がして、それから断末魔のようなうめき声も聞こえた。

「お、おい、ノボル! どうしたんだよ!? な、なに思わせぶりなこと言ってんだ? おいおい、冗談もたいがいにしろよな? は、はは。おもしろくねえぜ、まったく……っておい、マジで返事しろよ! 冗談じゃねえぞ! フザケてねえで、さっさと灯りを――」

 また鈍い音がした。言葉をもみ消すみたいに。また一人、暗闇へと引きずりこむみたいに。

 恐ろしくなって、僕はたちまち窓から退いた。

 もちろん暗闇のむこうで何が起きているかなんて、僕にもわからない。でも、ただ一つわかるのは、誰かがこのチンピラたちをことで。そしてそれを証明するみたいな断末魔が、また聞こえてきた。

「どうなってんだよ……おい、トモキ! ハルト! ノボル! 聞こえてたら返事を――」

 そして最後と言わんばかりに、四人目のうめき声が聞こえた。静かに、闇の中から獣が這い出てきたみたいに。

「なっ、がっ……アンタ、やっぱりケイコが言ってた……マキッ……ヒロぉっ……!」

 うめき声は、そこで終わった。獣の威嚇みたいな声は失せて、再び夜の静寂が訪れる。そしてまた、見合わせたようなタイミングで灯りが復旧したのだ。

 街灯は、泡を吹いて倒れる四人の若者を照らし出す。車いすマークの刻まれた駐車スペースに、きれいに四人川の字になって並んでいた。そしてそのとなりにいたのは……。

 僕は思わず息を飲んだ。

 そこにいたのは、缶コーヒーを二本持ったナナさんだったからだ。

「おまたせ。ケガはなかった?」

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