6
三原高原を下り、三原西区へ。山を下り標高が低くなって行くに連れて、降りしきる雪の一粒一粒は小さくなり始めていた。
二十分ぐらいクルマを走らせたと思う。僕らが入ったのは、街道沿いにある小さな中華料理屋だった。八台ぐらいクルマの止められる駐車場と、軒先にかけられた『来々軒』って赤いノレン。そして二階建ての瓦屋根の建物。きっとノレンがなかったら、ふつうの民家だと思うだろう。そんな見た目の店だった。
クルマを停めて外に出てみると、アスファルトには雪が積もり始めていた。重たくボタッとした雪の塊が、地面の溝に染み込んでいた。
「おごるよ。経費で落とすからさ」
ナナさんはそう言うと、引き戸を開けて店内へ。
雪に目を奪われていた僕は、あとを追うようにして中に入った。
「いらっしゃいませ。二名様でよろしいですか?」
引き戸の向こうには、無愛想な店員が一人立っていた。金髪でガタイのいい人で、一目見ただけじゃ男か女かわからない、そんな雰囲気の人だ。でもよく見たら綺麗なピアスをしていたから、女性だったと思う。
僕らは、家の食卓みたいなテーブル席についた。すると、すぐにあの無愛想な店員が水を持ってきてくれた。
「注文が決まったら教えてください」
店員はそう言って、店の奥へと戻っていく。紺色のノレンが掛かった仕切りの向こうに厨房があるらしい。ステンレスに輝くキッチンの中には、腰の曲がった老人が立っていた。それも、勢いよく中華鍋を振り回す、元気なご老人だ。
「ナギサくんは何にする? わたしは麻婆豆腐と半チャーハン」
「えっと……いいんですか、おごってもらって……?」
「いいよ、別に。経費で落とすし。それに元はと言えばみんなの税金だし」
「じゃあ、僕も同じので」
「了解」
ナナさんはそう言って、あの無愛想な店員を呼び戻した。麻婆半チャーハンセットが二つ。ナナさんがそう言うと、金髪の店員が大声で復唱する。するとさらに厨房からも復唱が返ってきた。まるで輪唱みたいだった。
「ところでだけど、ナギサくん。お父さんやお母さんは心配してない?」
ナナさんは水を一口含んでから言った。
「え? 心配って?」
「ほら、未成年を捜査協力って言って外に連れ出してるわけだしさ。もちろんご両親の許可も必要なわけ。まあ、事後承諾みたいで申し訳ないけどさぁ……。まあ、たしかにあのときは緊急事態だったし、仕方なかったけども。でもさ、いちおう、ね? ほら、お母さんとか連絡したほうがいいでしょ? スマホとか持ってる? 公衆電話ならそこにあるし。必要ならこのまま家まで送っていくけど――」
言って、ナナさんは顎で店の奥をさした。
そこには、小さな机の上にピンク色の電話が乗っていた。スマホ世代な僕らには無縁の長物とも言うべき、ダイヤル式の公衆電話だ。あいにく、僕はまだケータイを買ってもらってないから、たびたびお世話になっていたけれど。
いま電話したら、きっと留守電が出るだろう。もしパート仕事に出ていなければ、母が出るだろうけど。でも、ふだんならこの時間には出ているし。それに、じゃあ代わりに父さんが出るなんてことはまずありえないし……。
それに僕は、母にこのことを伝えたいとは思えなかった。
「……正直、親には伝えたくないです。僕、帰りたくないんです」
「帰りたくない? どこに?」
ナナさんがキョトンとした顔で問う。
「もちろんウチですよ。僕に帰れる家なんてないですから」
――そう。たぶん僕がマヤと仲良かったのも、そういうことだったのかもしれない。
――マヤが消えたことに必要以上に敏感になってるのも、そういうことだったんだ。
今になって僕は、自分の気持ちに整理がつきはじめていた。やっと落ち着いたから。ようやく腰をおろして、真剣に現実と向き合えるようになったから。
「……実を言うと、僕の母は本当の母親じゃないんです。それに、父さんは僕のことなんてどうでもいいんです。もう何年も父さんの顔を見てない。だから僕には、マヤしかいなかったのかもしれない」
†
母さんが消えたときの記憶はおぼろげだ。なにせ僕が小学校にあがる前のことだから。
幼稚園児のころの記憶なんて、当時はすぐに思い出せると思っていた。だけど、いまとなっては何一つとして覚えていない。もはや小学校低学年のころすら、僕の記憶は曖昧になっている。
だから母さんがいつ、どんな理由で父さんと喧嘩して、家を出て行ったのか。どうして僕が父さんに連れてかれたのか。そしてどうしていつの間にか知らない女が母親ぶるようになったのか……。僕はその経緯を覚えていない。それに、考えてみれば思い出したくもなかった。
柊アズサと、その人は言った。彼女は気づくと僕らの家にいて、いつしか名前は三上アズサに変わっていた。歳は母さんよりずっと若くて、ずっと美人だった。
でも、僕はその人が母親ぶって、僕に接してくるのが、なんだか嫌いだった。その過剰なまでの優しさというか、僕を腫れ物に触れるみたいにする態度というか、たぶんあの人も必死に僕の母親になろうとしているのが、なんだか気に入らなかった。そんなふうに接してほしくなかった。あの人が母親になりたいがために、僕が消費されているのが気に食わなかった。僕は僕でしかなくて、あの人の『母親』というアイデンティティを満たす道具じゃないんだから。
だから、僕は家にいたくなかった。
だって、あそこは僕の帰る家ではないから。
あそこは、父――僕らを放って海外へ仕事に出て行った男――の愛人と、その腹違いの息子が、何となくお互いの距離をさぐり合って、家族のフリをしているだけの空間なんだ。そんなところに僕はいたくない。
だから、僕はマヤに逃げていたのだと思う。
幼いころの僕を知っていて、かつ僕とは違う価値観で生きていて、あたたかい家庭のなかを過ごしてきた彼女を。音楽が好きで、頭が良くて、僕にないものを持っていた彼女。僕は、そんなマヤに逃げていたのだ。
だからマヤが消えたことは、僕にとって母さんが消えたときと同じなのだと。そう思えてたまらなかったんだと。僕は、今になって気づいた。
†
「……だから、一応電話してみますけど。でも、できればこのあとも一緒にマヤを捜させてください。僕、おとりだってなんでもやりますから。ナナさん、お願いです」
「わたしはいいけど。むしろ好都合だけどさ。でもさ、とりあえず電話したら?」
言って、ナナさんは公衆電話を指さした。
「どんな関係でろうと、家族は心配するよ、きっと。キミがマヤさんを心配するのと一緒でさ。ほら、電話してきな」
ナナさんはコートのポケットに手を突っ込むと、小銭を取り出した。十円玉が一枚。電話をするには十分な額だ。
「じゃあ、電話してきます。たぶん留守電だと思いますけど」
「でも一報入れておきな。警察の人と一緒ですって。十円ぐらいあげるからさ」
僕はその十円玉を握りしめ、公衆電話に向かった。そのあいだに厨房では、チャーハンを炒め始めていた。
ダイヤルを回して、自宅の番号をかける。二十回ぐらいコールしたけど、やっぱり誰も出なかった。留守電サービスにつながって、ビープ音が鳴り響く。
「……僕です。ナギサです。いま警察の人とマヤを探しています。晩ご飯はいりません。じゃあ」
僕が留守電を入れ終えたあと、見計らったように料理が運ばれてきた。二人前の麻婆豆腐と半チャーハン。麻婆は想像以上の大皿に入っていて、とてもじゃないけど一人前には見えなかった。半チャーハンも、ふつうの一人前と見間違えるほどの物量だ。
「さてさて、それじゃいただきますか」
ナナさんはそう言って、割り箸を縦に割った。僕も一緒になって手を合わせる。
そういえば、こうして誰かと一緒に夕飯を食べるのは久しぶりだった。母はいつもパートに出かけてしまうし、父は単身赴任で海外に行ったきり。僕が温かい食事を誰かと共有したのは、本当にいつぶりかのことだった。
「どうしたの? 食べないの?」
箸が止まっていた僕に、ナナさんが言う。彼女の頬は、さっそく麻婆豆腐でいっぱいになっていた。
「いや、その……。いただきます」
レンゲを手に取り、麻婆豆腐をすくいあげる。ラー油と山椒とが入りまじったツンとしたにおい。本格派の中華っていう感じがした。僕は一気にそれを頬張ると、次にチャーハンをかき込んだ。腹が減っていた僕に、あたたかい料理は一番のごちそうだった。
しばらくのあいだ、僕とナナさんは黙って料理を食べ続けていた。沈黙を埋めるのは、スプーンが皿を叩く音。厨房から聞こえてくる流水音。そして、店の天井にちょこんと乗せられたラジオだった。
ラジオは、みなとFM放送にチューニングされていた。ちょうど番組と番組のあいだのようで、インストゥルメンタルの曲が延々流れ続けている。
それからしばらくして、夕方のニュースが始まった。そのころには、僕はもう半分ほどチャーハンを食べ終えていた。
〈みなとFMニュース。午後六時のニュースをお伝えします〉
アナウンサーが原稿を読み上げた。その瞬間、僕の耳は、その声音に最大の注意を向けた。おそらく気づいていたのだ。この瞬間、それが流れることを。
〈湊市にて、十五歳の中学生が行方不明になっています。行方不明になったのは、湊市に住む『畔上マヤ』さん、十五歳。畔上さんは五日前、三原駅で目撃されてから、以降行方不明になっています。警察では、マヤさんの目撃情報を――〉
「あーあ、公表したんだ」
ナナさんがぼやいた。そしてそのまま麻婆豆腐を口にかき込んだ。タレまで吸うようにして食べ終えると、ナナさんは口元をナプキンで拭った。
「湊署の連中、ついに情報を公開したみたいね。こりゃマズくなったわ……」
「マズくなったって? 公開捜査が始まったら、マヤは見つかるかもしれないんじゃ?」
「あ、いや――」
するとどうしたのか。とたんにナナさんは「あ、しまった」と言わんばかりに目を見開いたのだ。それからすぐにいつもの表情に戻ったけれど、僕は彼女の一瞬のゆるみを見逃さなかった。
「いや、こっちの話。気にしないで。ほら、公開捜査が始まったとなると、わたしが追ってる事件のほうが面倒なことになるなって。そう思っただけ。ま、無事にマヤさんが見つかればぜんぶ解決なんだけどさ」
「ナナさんが追ってる事件って、あの殺し屋とかいう女性が関わってる事件なんですよね? なんの事件なんですか?」
「それは詳しく話せないの。おあいにくさま。ごめんね」
「そうですか……まあ、いいですけど」
僕がそう言ったところで、ラジオアナウンサーは次のニュースを読み上げる。
〈続いてのニュースです。昨夜、三原区篠崎川の河川敷にて遺体が発見されました。遺体は男性のものだとのことです。警察は身元を含め、滑落死の方向で捜査を進めています〉
――遺体が発見された?
その言葉が耳に飛び込んできたとたん、僕はレンゲを持っていた手が止まってしまった。
「滑落死か。冬の三原高原なら、そういうこともあり得るってことか」
ナナさんが不吉な一言を告げる。その言葉は、僕の心臓を打ち付けるのに十分な威力を持っていた。動悸が激しくなり、不安が脳を満たしていく。岩肌に打ち付けられ、川に流され、砂利にもみくちゃにされたマヤの姿が浮かぶ。想像したくないのに、想像してしまう。麻婆豆腐が喉を通らなくなる。
「大丈夫、マヤさんは生きてるよ。少なくともまだ死体は見つかってない。希望を失わないこと」
「そうですけど。でも、まるで神隠しみたいに消えたんですよ?」
神隠し。あの神社のことが脳裏によぎる。
「そうね。でも消えただけで、死んではいない。……っと、ごちそうさま。ほら、ナギサくんもしっかり食べて。これからまた探すんでしょ、早くしないと。もしかしたら彼女、キミを待ってるかもしれないよ?」
*
お金はナナさんが払ってくれた。経費で落とすからと言って。でも、彼女は領収書を要求しなかった。ただレシートだけもらって、そしてその紙切れも上着のポケットにねじ込んでいた。
僕らが店を出たときには、もうすっかり夜だった。雪のちらつく冬の夜。星空がきれいなのは、きっと三原高原が近いからで。空気が澄んでいたからだと思う。
「それで、帰りたくないんだったよね」
ジムニーのカギを開けながら、ナナさんが言った。
僕は助手席に乗り込み、ナナさんは運転席へ。
「ええ、まあ」
シートベルトを締める。ナナさんはエンジンをスタートさせ、カーナビに触れた。外付けの社外品みたいで、ディスプレイからは何本もコードが伸びていた。
「オーケー。それじゃあ、二人で捜査続行といきますか」
「わかりました。でも、どこへ行くんですか?」
「とりあえずまた三原高原。いまはシラミつぶしに探すしかない。そうしているうちに、向こうから尻尾を出すのを待つ。いい?」
「いいですけど。……ごめんなさい、ナナさん。やっぱり教えてください。ナナさんが追ってる事件って、いったい何なんですか? なにがどうマヤと関わりあるんですか?」
「ん? 詳しくは話せないけど。まあ、要するに――」
ナナさんは、レバーを操作。がっちゃんと音を鳴らして、クルマはバックを始める。くるりと回って、駐車場を出て行く。
「ヒトゴロシ」
エンジンの音。それにかき消されるような、ナナさんの声。
でも、それは確かにそう言ったのだ。
ヒトゴロシ――人殺し。
殺人。
つまり、誰かが誰かを殺したっていうこと……。それがマヤの失踪に関わってるって……?
僕は、最悪の想像をせざるをえなかった。
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