3
僕は、逃げ帰るみたいに校長室を出た。そしてそのまま逃げ込むように校舎裏に向かった。
校舎裏に行った理由は、いくつかある。
ひとつは、帰りたくなかったから。いまウチに帰ったら、きっとパートに行く前の母がいる。そして、今日が半日の理由を根ほり葉ほり聞くだろう。僕はなんだかそれがイヤだった。
そしてもう一つは、マヤを探してのことだ。もしかしたら、彼女が壊れかけのオルガンを弾きに戻ってるかもって、そう思ったのだ。
そして三つ目は……そうだ、あのタバコ女がいないかと思ったのだ。
でも、残念ながらどれもダメだった。家に帰らないのには成功したけれど。でも、校舎裏にはマヤも、昨日のあの人もいなかった。ただ薄暗い、苔むした空間が広がっているだけだった。カリカリになった雪と、枯れ木に生えた
部活が中止だからだろう。体育館もひっそりと静まりかえっていた。校舎から吹奏楽部の練習も聞こえてこないし。校舎裏は死んだように静かだった。
「マヤ、おまえ本当にどこ行ったんだよ……」
つぶやきながら、僕は倉庫の床に鞄を置いた。教科書でいっぱいの鞄。そして、例の捨てられたオルガンの前に立った。イスなんてどこにもないから、このオルガンは立って弾くしかない。マヤもそうやって弾いていた。
――だけど、僕は鍵盤なんて叩けない。
何となく、どの位置にどの音があるか知ってるだけ。コードも何も知らない。だから、見よう見真似で叩いた。たしかマヤって、こうしてたよねって。思い出しながら……。
†
「こうするのよ」
そう言って雪のちらつく中、マヤは壊れかけのオルガンを弾いた。毛糸の手袋で膨れ上がった指で、繊細なコードを弾いてみせた。オルガンは調子外れの和音を鳴らし、不協和音スレスレの楽曲を奏でる。まだ僕のギターのほうがマシに聞こえるぐらいだった。
「ナギサも弾いてみたら?」
「いいよ、別に。ていうか、僕ら入試前だし。早く帰って勉強したほうがいいだろ。マヤってばこのあいだの試験、点数悪かったんだろ?」
「悪くないし。べつにいいじゃん。たまにはさ、息抜きしないと。こんなところに楽器が捨てられてるなんて、かわいそうだし。弾いてあげなきゃ。でしょ?」
「かわいそうって。まあ、そうだけど……」
僕はそうつぶやいて、彼女の指が動くのを見た。その一挙手一投足と、どこで覚えたかもしれない『猫踏んじゃった』と『エリーゼのために』。そしてそれを奏でる間抜けなオルガン。
それが彼女の奏でた最後の旋律になるなんて、僕は思いもしなかったろうに……。
†
マヤの真似をしようとして鍵盤に指を這わせたけれど、結局は意味のない音の羅列になっただけだった。
でも、このまぬけなオルガンの旋律は、その短音だけでも僕を奮い立たせた。つまり、マヤのことを思い出させて。そしてあの人のことを強く思わせたのだ。
――あの人……。
昨日。すぐとなりの階段に腰掛けて、我が物顔でタバコを吸っていた、あの女のことだ。すれた金髪のショートカットに、白くてそばかすの残る頬。日本人離れした青い瞳はカラーコンタクトレンズのようで。そしてなにより彼女が羽織ったミリタリーコートは、タバコ臭かった。
そんなあの人が残した、あの言葉。それがリフレインして……。
――畔上マヤを探しているなら
頭のなかでタバコ女がそうつぶやいたときだ。
オルガンの残響が、なにかによってかき消された。悲鳴のような甲高い音。それからゴムが焼け落ちるみたいな匂い。
その正体は、すぐそこにいた。
校舎裏と体育館の間にあるロータリー。荒れたアスファルトの上で、クルマが急停車したのだ。それも学校の先生だとか、親が乗るような軽自動車とか、ミニバンなんかじゃない。本の中でしか見たことないような、黒塗りの高級外車だった。
そのクルマは、まるで示し合わせたみたいに僕の前に止まった。そして大口を開けるみたく、運転席の窓を開けさせた。窓まで真っ黒だったから、はじめは開いてるかどうかもわからなかったけれど。
パワーウィンドウの向こうから顔を見せたのは、女性だった。それもずいぶん場違いな格好をした女性だ。墨のように黒く長い髪と、きらめく肌。そしてそれを覆い隠すような大きなサングラス。肩にはキツネのような毛皮のマフラーが巻き付いている。服もドレスみたいで、どう見たってこれからPTA会に行くって格好じゃなかった。『六本木に来るつもりが、中学校に来ちゃったんだけど』とか、そんなフザケたジョークを言っても納得できるような、そんな風貌だったのだ。
女性はクルマの中から僕を見た。なめるみたいに、下から上へ。サングラスの奥で瞳が動いているのがわかった。
「あなたが三上ナギサ君?」
女性はそう言うと、指先で髪を揺らした。ふわりと毛先が持ち上がると同時、バラのような甘酸っぱい香りがあたり一面に広がった。
「そう、ですけど……」
なんとなく、全身に流れていく違和感。あるいは
――このやりとり、昨日もした。
そして昨日、同じやりとりをした女が言ったのだ。
あの人は、いま僕の目の前にいる女性ほど性的じゃなくて、ドライで、素っ気なかったけど。でも、あの人は言った。
――もうじきにキミのもとに女が現れると思う。
――だけど、彼らの言うことは信じないでほしいの。
――もしもキミが畔上マヤを探しているなら
その言葉が脳裏でリフレインしたときだ。目の前の女性は、僕にもう一度笑いかけた。しゃべるタイミングを見計らっていたみたいに。
「あら、どうしたの? 緊張してるの? 大丈夫よ。私はね、畔上さんからの依頼で来てる探偵なの」
「探偵、ですか?」
「そうよ」
と、女性はおもむろに自らの胸元に手を伸ばした。そうして首に巻いたキツネをかき分け、胸の谷間に指を差し入れた。僕は思わず恥ずかしくなって目を反らしたけど。でも、女性はそれを楽しんでるみたいだった。僕が恥じらうのを見て、ほくそ笑んだのだ。
「名刺よ。ほら、探偵なの。藤ケイコ、東探偵事務所で働いてるの。畔上マヤさんを探していてね。キミ、親友だったんでしょ? いや、親友以上だった。ちがう?」
藤ケイコ。
そう名乗った女性は、クルマ越しに名刺を差し出した。駐車券でも出すみたいに。そのカードも、どこか甘酸っぱいバラみたいな匂いがした。
「ただの腐れ縁です」
「そう。でも、友達よりずっといい関係じゃない。ねえ、どんな些細なことでもいいからマヤさんについて教えてほしいの。お話してくれるなら、お姉さんあなたのどんな願いだって聞いてあげるわ。お姉さんができる範囲で、だけど。だから、よかったらクルマに乗ってくれない」
そう言って、ケイコさんは僕にもう一度微笑みかけた。キツネ皮の向こうの、バラの匂いのする胸元を強調するようにして。
正直、ケイコさんの姿に興奮しなかったと言えば、それはウソだ。僕だって健全な中学生男子なのだし。エッチなお姉さんの画像をネットで検索するぐらい、やってる。前に一度だけマヤに検索履歴を見られて、気持ち悪がられたことだってあったぐらいだ。
「えー、ナギサでもちゃんとこう言うの見るんだ」
って。彼女はそう言って僕をからかったけれど。でも、僕は笑い事じゃなくて、まじめに、心底そのことを悔やんでいた。
でも、僕だって中学生なのだから。股間に全身の血液が集まり始めたことぐらい、なんとなくわかっていたし。前傾姿勢にならざるを得ないことに、ケイコさんも気づき始めていたと思う。だって、ケイコさんの顔は、みるみるうちに微笑みで満たされていったのだから。
「どうするの?」
と、彼女は再び僕に問うた。
だけど僕はなかなかその問いかけに答えられなくて。黙ったまま、しばらくケイコさんの視線に耐えていた。彼女のなめ回すような視線を感じながら、僕は――
そんなときだ。
雪を踏みしめる。いや、踏みつけるような音。ザシッ! ザシッ! という荒々しい足音は、固い革のブーツの音だった。
僕はその音に連られて振り返ったけれど、でも、もうそのときにはすべてが始まっていたのだ。
「なにやってんのナギサ! 知らない人にはついてかないって言ったでしょ!」
そこにいたのは、ミリタリーコートに身を包んだ女性。目深にかぶったフードで顔を隠していたけれど。でも、僕には彼女が誰だかわかった。
彼女は、強引に僕の手を取ると、クルマから引き剥がした。「帰るわよ」なんて、さも僕の姉みたいな調子で。
ケイコさんのクルマは、停まったまま動かなかった。私立探偵だって名乗ったあの人。ケイコさんは僕を見つめたまま、じっとその場から動かなかった。
*
ミリタリーコートの女性は、校舎前のロータリーまで僕を連れてくると、ようやく手を離してくれた。その人は僕より背が高くて――僕だって一六五センチはあるけど、彼女はそれより少し高いぐらいだった――握力も僕より強かった。まるでピアニストみたいなか細い、白い手なのに。
ロータリーには一台だけクルマが停まっていて、彼女が足を止めたのはそのすぐそばだった。真っ赤なジムニー。ボディにはかすかに雪が積もっている。
「ね、言ったとおりになったでしょ?」
その人は、まるで予言者みたいにそう言った。
かぶっていたフードを外す。現れたのは、昨日見たあの人。やっぱり彼女だった。プリンのようにカラメル色と金の混ざった頭髪。雪のように白い肌と、そして作り物みたいな青い瞳。日本人らしい骨格に、完璧な日本語だっていうのに。彼女の風貌は、遠い異国の人のように思えた。
「……あなた、何者なんですか。あの人誰なんですか? どうして僕のことや、マヤのことを知っているんですか?」
僕は意を決して聞いた。
だけど、彼女はまるで僕の話を聞いてないようだった。
ボンネットの雪を手で払ってから、彼女は上着のポケットに手を突っ込む。中から取り出したのは、昨日のものと同じ。タバコとマッチだった。
「詳しくは言えない。でも、そうね。わたしの名前は――」
『ジョーカー』とロゴの描かれたタバコ。それを一本取り出すと、彼女はマッチで火をつけた。とたんにカラメルみたいな甘い匂いがフワッとあたりに広がった。
「そうね、仮に『ナナ』とでも名乗っておくわ。わたしは、これでも警察のとある極秘セクションにいてね。まあ湊市警察の人間じゃなくて、どっちかって言うと本庁の人間なんだけど……って、言ってる意味わかる?」
「刑事さん、ってことですか?」
「平たく言えばそうね。でも、特別な刑事よ。スペシャル・エージェント。わたしは、ある事件とその首謀者を追って、この街にきたの。そしてその捜査の途中で、別の事件にぶち当たった。それが――」
「マヤの事件、ですか?」
そうよ、とナナさんは小さくうなずいた。
でもその小さなうなずきは、マヤが単なる家出とかじゃなくて、巨大な事件に巻き込まれたということを認めていた。
「わたしは畔上マヤを追わなくちゃいけない。別の事件を解決するためにね。それと同時、キミを守らなくちゃいけないの」
「僕を守るって? どういうことですか?」
「さっき女がきたでしょ。あいつ、なんて名乗ってた?」
「藤ケイコ。東探偵事務所の探偵だって名乗ってました」
「まったくデタラメね。あいつは探偵なんかじゃない。そうね……ほら、これが証拠」
言って、ナナさんはくわえタバコでスマートフォンを取り出す。器用にフリック入力すると、その画面を僕に見せてくれた。何かのデータベース、その検索結果みたいだった。
「これ、警察のデータベースなんだけどね。見て。探偵にも許可証が必要なの。でも、東探偵事務所の藤ケイコなんて人物、どこにも登録されていない。彼女は嘘をついてるの。あいつの正体は探偵なんかじゃない。……殺し屋よ」
「殺し屋……?」
僕はオウムのようにその言葉を繰り返した。噛みしめるみたいに。その言葉の意味を、口にすることで確かめるみたいに。
そうしてようやくわかったのだ。殺し屋という言葉の意味。殺人を仕事とする人のことなのだと。
「じゃあ、さっき僕に声をかけてきたのは……」
「殺し屋の女よ」
「なんで殺し屋が僕に……?」
「それは詳しくは話せない。でも、これだけは言える。彼女は、なにかしらの理由があってキミに接触しようとした。わかる?」
――わかる、だって?
失踪したマヤ。
湊署の刑事さん。
刑事のナナさんと、彼女が追っている巨大な事件。
探偵を騙る殺し屋、藤ケイコ。
そして僕……。
マヤは、殺し屋が関わるような事件に巻き込まれて、消えた。もしかして殺された……? そして今度は僕を探してきた。
イヤなイメージが続々と頭に浮かんでいく。マヤ、僕、こんな町でどうしてこんなこと……。
「どうする? わたしはこれからマヤさんを探さなきゃいけないんだけど。どう、一緒に来る? 手がかりは少しでも多いほうがいいと思うんだけど」
ナナさんはそう言って、僕を誘うみたいに助手席のドアを開けた。
僕の答えは、半分決まったようなものだった。
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