その日の学校は、奇妙なよそよそしさとともに始まった。

 今日は底冷えするような三月の日で、僕ら三年生は高校への進学を控えていた。本来ならば、受験戦争も一段落して、クラスは半ば浮かれムードのなかにある……。そんな時期だたというのに。

 僕が教室についたとき、すでにそこには違和感があった。クラスの中にはヒソヒソ話と、ダルマストーブの音だけが響いている。カタカタと炎の燃ゆる音だけが不安定なリズムを刻んでいた。調子づいてストーブに水をひっかけて、蒸発させる遊びなんて、誰もしちゃいない。いや、誰もできるムードじゃなかったんだ。

 僕はカバンをロッカーに押し込むと、自分の席に着いた。朝の学活が始まるまであと五分もない。みんなぞろぞろと席に着き始めている。

 なのに、僕の隣の席だけは誰もいなかったのだ。空白のように、忽然と姿を消したように。重たい国語便覧と地図帳だけを引き出しに残して、そこは空欄になっていた。

 僕のとなりの席の主。畔上アゼガミマヤは、もう三日前からいなくなったまま。だけど彼女は風邪をひいたわけでも、病気になって入院したわけでもない。文字通り、たのだ。

 僕が席に着くと、隣にいた女子グループが囁きあうのが聞こえてきた。

「ねえ知ってる? 畔上さん、なんでも家出したんじゃないかって」

「ホント? 家出って、何でまた……?」

「わかんない。でも、もう三日も学校に来てないし。家にも戻ってないみたい」

「どうして急にそんな? 高校だって峰ヶ崎受かったっていうのに?」

「殺されたんだよ」

 すると、急にバカな男子が声を大にして混ざってきた。お調子者の丸山ハジメだった。

「なにか事件に巻き込まれて、口封じにでもあったんだ。ちがいねえ」

「なにそれ。マンガの見すぎだし。殺されたなんて、畦上さんに失礼じゃない」

 学級員の江原さんがそう言ったところで、教室のドアが開いた。

 先生だった。ノートとファイル片手に教卓の前に立つと、咳払い一つ。その一動作で教室全体が静まった。

「静かに。朝の学活を始めるぞ」


     *


 市立湊東中学校。三年四組、畔上マヤ。彼女の失踪が話題になったのは、昨日からのことだ。どこかの誰かが、急に言い始めたのだ。


『畔上。ほら、朝の学活で病欠ってことになってたらしいじゃん。実はあれ、違うらしいぜ』

『違うって? 仮病ってこと?』

『違う違う。なんでも親が捜索願を警察に出してるって話だぜ。ウチのオヤジが言ってた』


 そんな些細な話は一瞬で校内に広がり、やがてマヤのことを知らない生徒までも「畔上マヤが失踪したらしい」と口にするようになった。

 そうして今日。マヤは三日目の休みを取った。今日も病欠扱い。だけど、詳しいことは誰も知らない。だからみんな憶測でモノを言い始めているのだ。

 でも、かく言う僕は違う。

 僕が、マヤが消えたことに気づいたのは、五日前のこと。土曜日で、そしてそれは峰ヶ崎高校の合格発表日。

 そして峰ヶ崎高校とは、僕とマヤの第一志望校だったのだ。


     †


 合格発表は八時。合格番号の一覧表が、その時間になると高校前の掲示板に貼り出されるのだ。それから高校の事務室では、点数開示の受付がされるということだった。

 雪がちらつく土曜日だった。

 峰ヶ崎高校は、僕らが住む湊市街地から電車で三十分。三原高原へと向かった場所にある。それから高校前駅で降りてから、歩いてさらに八分。まわりには段々畑しかない、田舎な学校だ。だけど、僕とマヤの頭じゃ地域トップの湊高校にいけるわけもなく。結局、それよりワンランク下の峰ヶ崎高校を目指したのだ。

 といっても、峰ヶ崎だって進学校だ。僕もマヤも、落ちる可能性は十分にあった。だからこの日、僕は気が気じゃなくて、今にも吐きそうだった。不安でいっぱいだったのだ。

 考えに浮かぶことと言えば、『落ちたらどうしよう』あるいは、『マヤだけ落ちたらどうする?』とか『僕だけ落ちたらどうする?』なんてことばかり。当然『マヤがいなくなる』なんてことは頭になかった。

 マヤと僕は二人三脚でがんばってきた。別に僕らは恋人とか、そんな関係じゃなくって。ただの腐れ縁で、家がちょっと近いだけなんだけど。でも、マヤは理数系が得意で、僕は英語と国語が得意。お互いにお互いの欠点を補いあって、やっと試験までこぎ着けたのだ。

 だから、おかしかったのだ。

 マヤがこの場に来なかったこと。

 あれだけ二人でがんばったのに、彼女が約束の時間にこないこと。

 合格発表に彼女がこなかったことが。


 約束の七時四五分になっても、マヤは駅に来なかった。そして結果発表の八時になっても、とうとう彼女は姿を現さなかった。幸いにも二人とも合格はしていたけれど、彼女とその喜びは分かちあえなかったのだ。

 ――マヤのやつ、どうしてこなかったんだ?

 僕はそんなことを思いながら、帰りの電車に乗り込んだ。もしかして急な病気? 風邪でもひいたのか? でも、もしそうなら連絡の一つぐらいあってもいいものだし。それに、マヤの性格なら、風邪でも合格発表に乗り込みそうなものだった。彼女は、僕以上に男らしいところがあるから。

 そうして結局、家に戻るまで一度もマヤとは会わなかった。駅ですれ違うことさえなかったのだ。


 彼女に捜索願が出ていると知ったのは、その日の夜のことだった。


     *


 マヤのことがあったからか知らないけれど、ここ最近の学校は終わるのが早い。卒業式の練習も早々に終わらせて、はやく帰れと言われる。三年生は、もう部活もないわけだし。三月のこの時期になれば、外はすっかり暗くなってしまって、遊んでる時間もない。結局、みんな家に帰らざるを得ないのだ。

 でも、僕は違った。

 廊下ですれ違った先生に「はやく帰れよ」って言われて。それに「はい」って生返事を返した僕は、わけもなく校舎裏に向かっていた。

 でも、言うほど『わけもなく』ってワケでもなかった。言うなれば、僕はマヤの姿を探していたのだと思う。なんだか知らないけど、彼女がどこかに隠れている……そんな気がしていたのだ。


     †


 マヤと僕は幼なじみで、幼稚園のころからクラスが同じだった。家はそんなに近いわけじゃないけれど、歩いて十分もあれば着いてしまう。

 はじめはなんてことない友達だった。でも、小学校のクラス替えがあって、それでも同じクラスだったとき、僕らは否が応でも意識せざるをえなくなった。

 そうして中学にあがって、またクラスが同じだったとき、僕らは友達になった。お互いに楽器ができるという共通点もあったと思う。彼女はピアノからギター、ドラムまで一通りできて、僕はギターだけが弾けた。弾けたといっても、家の倉庫にある父さんのをイジってただけだけど。でも、その共通点が僕らを友達にした。そうして気づけば、二人でバンドを組んでいた。

 それが僕ら。

 幼なじみで、友達で。でも、恋人とは違う。そういう関係は、なんだか恥ずかしいし。それに、僕はマヤのことをそんなに可愛いと思ってないし。彼女、僕より男らしいから。


     †


 もちろんだけど、校舎裏にマヤが隠れてるはずもなかった。校舎裏の倉庫には、捨てられたオルガンが放置されているから、もしかしてと思ったんだけど。マヤは、よく帰りにそのオルガンを弾いてたから。もしかしたら、もしかするかもと、そう思ってたんだけど。

 だけど、もぬけの殻というわけではなかった。

 校舎裏――校舎と体育館の合間にあるその空間は、建物の陰に隠されて、完全な日陰になっている。地面はさながら苔むしたジャングルのよう。杉の木が高く伸びて、足下には切り株とそれに群がる苔たちが広がっている。でも、いまは日陰でカリカリになった雪がアイスバーンになって、緑の群を冷凍保存していた。

 そんな校舎裏。体育館につながる階段に、見たことのない人が座っていた。

 女性だった。

 でもその女性は、生徒というには年をとりすぎていいるし、しかし教師というにはあまりにも奇抜な格好をしていた。彼女の髪はショートカットだったけれど、まるでプリンみたいな金髪をしていたのだ。頭頂部だけが焦げ茶色で、毛先にかけて金色になっていく、という。そんな派手な髪をした教師がいるわけがない。

 かといって、この中学の卒業生で、いまは高校生……というふうにも見えなかった。その人は、僕より十歳ぐらい年上に見えたのだ。二十五とか、二十六とか、それぐらいに。

「や、少年」

 その人は、何げなしに手を挙げて見せた。その右手には煙を上げるタバコが握られていた。

 奇妙な人だった。

 上下黒い服で、その上からミリタリーコートを羽織っている。ファーの着いた、丈の長いやつ。いわゆるモッズコートだった。

 耳にはイヤホンを挿して、音楽を聴いているみたいだった。だけどすぐにアイポッドか何かに触れて、再生を停止。イヤホンも耳から外した。

「あなた誰ですか? ここ学校ですよ」

「知ってる」

 言って、彼女はタバコを口にくわえた。「ここ学校? うんうん、知ってる知ってる。だからなに?」って言わんばかりに。

「ねえ。キミ、三上君でしょ。三年四組の、三上ナギサ君」

 ――なんて僕のことを?

 とたんに怖くなったけれど、僕は黙っていた。もし何か答えたら、なにかもっと恐ろしいことになるんじゃないかと。そんな気がしたのだ。なにせマヤのこともあるし、僕は必要以上に警戒していた。

「べつに怖がらなくていいよ。取って喰おうなんて思ってない。ただ確認しただけよ。……そっか、なるほどね」

「なるほどって、何がですか?」

「いや、ただ一つ忠告があって」

「忠告って? 僕も一つ忠告があります。学校の敷地内、禁煙ですよ」

「ああ、ごめん。すぐに消すよ」

 彼女はそういうと、えいしょっとかけ声とともに立ち上がった。褪せた緑色のミリタリーコートは、その裾を床に引きずられていた。見れば裾がボロボロだった。

「じゃあわたしからも忠告。もうじきにキミのもとに『ある女』が現れると思う。あるいは、先に警察がくるかも。だけど、彼らの言うことは信じないでほしいの。もしもキミが畔上マヤを探しているなら、ね」

「え、いまなんて――」

 僕は彼女にもう一度聞こうとした。

 ――いま、畔上マヤって言った? 本当に言った?

 ――マヤのことを知ってるのか?

 聞こうとしたけど、その人は聞く耳もたず。校舎裏からロータリーに歩いてくと、年代物の真っ赤なジムニーに乗り込み、その場を去ってしまった。

 残されたのは、あの人の吸っていたタバコのにおいだけ。まるでカラメルのような、あまったるいにおいだけだった。

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