第19話『それはまるで人間のような』
目が覚める。
まず視界に入ってきたのは見慣れた自分の部屋。そして次に、首と腰の痛みを感じた。身じろぎして自分が布団も敷かずに壁にもたれかかるように眠っていたことを思い出す。
「う……」
呻いてぼんやりする頭に手を置く。
琴音の拒絶から後の記憶が曖昧だった。どうやってあれから自分が帰ってきたのか、それから何をしたのかも分からない。下を見ると服は変わってなくて、ジャケットだけは脱いだのかオレの足元に落ちていた。雨の水を吸って重くなってるということは着替えてないのだけは分かった。
着替えて風呂に入らないとさすがに風邪を引くというのは分かるけれど、動こうという気持ちが全く湧かない。ずっとこのままの状態でいたい倦怠感に甘えてオレはまた目を閉じる。だが、横に置いていたスマホが震動する音で閉じかけてた目が開いた。
着信者の名前は田中だった。明かりがついたスマホには、4月3日の正午を映し出している。
出る気はまったくなく、ぼんやりとスマホを眺めていると、スマホは息が切れた虫のようにピタリと止んで外で降る雨の音だけが部屋に充満していた。
外は土砂降りの雨で、窓から見える景色はすべて灰色に塗りつぶされている。その光景を力なく眺めていると、今度は玄関の扉の方からギイィと軋む音が聞こえた。
「兄さん……」
ゆっくりと開いた扉から遠慮がちに出した顔は久しぶりにみた桜華だった。言いつけを守って人間の姿で心配そうな顔をしていた桜華と目が合う。こいつと会うのはいつ振りだろうか。考えようとしたけれど思い出すのも億劫だったので視線を再び窓の外へと戻す。
「服、濡れたままですよ。風邪引いちゃいます」
なにがあったのかも聞かずに桜華はオレの部屋へと上がって、服を脱がそうと触ってくるがオレはそれをゆっくりと払う。
「お風呂、入りましょう? 暖まれば少しは気持ちも良くなりますから」
ね。とオレの手を取る桜華。その手の温かさと小ささを感じながらもオレは再び彼女の手を払う。
「ごめん……何もしたくない」
動きたくもない。口も動かしたくもない。このままずっとここにいたい。少しでも体を動かしてしまえば昨日のことを思い出してしまいそうだったから。ただ部屋の壁際でじっとしているオレを見て桜華は、何か言いたそうに口を開くが、すぐに閉じ。また口を開いてを繰り返す。
「何かいいたいのかよ」
その様子がどうしても気が散ってしまうので尋ねるとオレの前にそっと何かを置いた。
「……兄さん。これ、見てください」
それは一本の短刀だった。刃渡りは10センチ程度で持ち手の部分には古い布がぐるぐると巻かれていた。
「何だよ、これ」
「お父さんから貰った神通力の宿った短刀です」
「狼月の? なんであいつが――」
「お父さんも心配してるんです。私と同じで」
意外な言葉に目が少しだけ大きく開く。
「心配、してる。あいつが?」
「どうしてそういうところに気付かないんですか……」
バカ。と桜華は小さく呟く。そんなの知るわけがない。だってそんな素振り一度も見せてないし、何よりそんなこと一度も言ってないじゃないか。
「この前の夜、どうしてお父さんがここに来たのか考えましたか?」
桜華が言っているのは、オレと琴音が初デートする前日、オレが狼月と喧嘩してボコボコにされた時のことだった。
「やっぱり心配だったんですよ。兄さんのことが」
心配? あいつが? そんなわけあるかよ。だってオレあの時あいつにボコボコにされたんだぞ。それだけじゃない、オレは狼月に追放宣告までされたんだ。そんなやつがオレの事を心配してるなんて。
「あ――」
ふと思い出す。あの時抱いていた違和感。オレを追放した時に放った言葉が少しだけ弱くなっていたことを。
あれって、もしかして――。
明らかに動揺しているオレを見て、桜華はようやく分かりました。か。と嘆息して、短刀の持ち手を近づける。
「これは人間との関係を断ち切るための力だって言ってました。これで人間との思いが一番強いものを突き刺せば、兄さんは真神に戻れるんです」
「人間との思いが一番、強いもの――」
「これですよ……」
そう言って桜華は、落ちていたオレのジャケットを探ってピンクの包装紙に包まれた箱を短刀の横に置く。
「兄さんがあの人の事を想ったものでしょう。これなら充分に断ち切れます」
「……もし、真神に戻ったとき人間になった時のことは――」
「もちろん忘れます。兄さんがあの人と会ったことも全部」
それはつまり、オレの中にある琴音の記憶全てを失うということだった。
「兄さんがそんな辛そうにしてるなら、私は忘れてもいいと思うんです。忘れれば全部楽になるんですよ」
「楽に……」
その言葉に少しだけ心が動く。何もしたくない気持ちがほんの少しだけぐらりと動いて、オレはその短刀を受け取った。
これであの箱を突き刺すだけで楽になれる。楽になれるんだ。こんなに気だるい疲れも、虚無感も、心の痛みも体の節々の痛みも、オレの頭を埋め尽くすあいつのことも、全部全部全部全部。消えてなくなって楽になれる。あぁ。それはなんて素敵なことだろうか……。
ゆっくりと腕を動かし、短刀を振り上げる。
たった一回。一度刺してしまえば、あいつを、琴音の事を忘れてオレは真神に戻れる。そう、琴音のことを――。
人なつこくいつもオレの周りをいたアイツのことを。
真神のオレのことを怖がることなく手をさしのべたアイツのことを。
強くオレを抱きしめて真っ赤な顔をした可愛いアイツのことを。
こー君。とオレを呼ぶアイツのことを、オレは忘れる。
忘れる、忘れるんだ。
「――ない」
ぴたり。と手が止まる。
「え?」
「忘れたく、ない」
持っていた短刀を勢いよく投げ捨てる。
「オレ、やっぱりアイツの……琴音の事を忘れたくない」
「どうして……。どうしてですか!」
信じられない表情で桜華がオレに詰め寄り肩を掴む。
「彼女は兄さんをこれだけ苦しめたんですよ。それなのに何でそんな人間を忘れたいと思わないんですかっ!」
どうしてと不思議そうな顔をしながらオレを睨みつける桜華。そんなの、初めから決まってる。
「オレはやっぱり人間が……琴音の事が好きなんだよ」
その告白に、桜華が目を見開いてオレを見る。その瞳に浮かぶ怒りにも驚愕にも似た感情は、すぐにキツい目へと変わり、細い桜華の手がオレの胸を強く掴んだ。
「なんでそこまで頑張れるんですか……。あの人は兄さんを裏切ったんですよ。そんな人間をまだ信じるんですか? 私やお父さんを信じなくて」
「あぁ。諦めないぞ」
まっすぐ言い切るオレに、桜華の顔が次第に怒りに包まれていき、唇を思い切り噛みしめながら睨んできた。
「兄さんの、バカ……」
噛みしめた口からそれだけをこぼして、一目散に部屋を出て行った。去り際に見えた泣き顔が罪悪感となってオレの心にぐさりと刺す痛みを与えた。
再び部屋に雨の音が包まれる。やっぱり体を動かす気にならなくて、オレはそのまま寝転ぶように倒れこむ。
そっと目を閉じる。
心が、痛かった。
体を抱くようにオレはギュッと丸くなる。けれど痛みは全く治まらない。
「ははは……」
何故か笑いがこぼれた。何もおかしいことなんてないのに、どちらかといえば辛いはずなのに笑いが止まらなかった。
「ははははははははは」
壊れたおもちゃのように笑い続ける。そうだ、オレは壊れてるんだ。もう心が痛すぎて壊れたんだ。そうだよ、そうに違いない。そんなやつがまだ諦めないだなんて。信じるなんてのたまうなんて。何てバカなんだろう。思い出しただけで笑いがこぼれた。
「ははははははははははははははは!」
なんてバカで愚かなんだ。本当にオレは人間みたいだな。そう思いながらオレは意識が闇に落ちるまで、ずっと一人笑い続けていた。
*****
何か柔らかい感触がオレの頭に伝わる。それは一定のリズムを刻んでオレの頭を横移動していた。
ゆっくりと目を開けて確認する。そしてすぐに違和感に気付いた。さっきまで見ていた景色が少しだけ広くなっていたのだ。
床に張り付くように見えていた部屋の景色は気持ち高めになってより全体を見渡せるようになっている。
「目、覚めた?」
上から降りかかる声にゆっくりと視線だけ動かす。
「天……楼、さん?」
蛍光灯の電気がまぶしくて少しだけぼやけた視界に天楼さんの顔が浮かんだ。
「あれ、オレ……」
ゆっくりと意識が輪郭を帯びていき、今の現状を把握する。床で寝ていたはずのオレはいつの間にか天楼さんの膝の上で寝ており、しかも天楼さんはそんなオレの頭を撫でていたのだ。
「う、うわっ!」
「ちょっと、そんなに驚かないでくれる?」
慌てて頭から転げ落ちて起き上がると、天楼さんが不満そうな目を向けてくる。
「だ、だって……今までそんなことしてこなかったから、なんか裏がありそうで」
「ほう、よく言ったわね」
にこやかに笑いながら、天楼さんはオレの頭をばしん。と叩く。結構強くてじんじんとした痛みに思わず頭で手を押さえる。
「それにしても、少しは気分も良くなったんじゃない?」
「え? あ……」
言われて気付く。起きる前まで酷かった気分も幾分か良くなって、起き上がりたくないと思う気持ちもなくなっていた。
「私が来たとき、あんた相当酷かったわよ。一人で気味悪く笑ってて、私がいたのに反応もしなくて」
「あはは。ちょっと色々ありまして」
でしょうね。と天楼さんはため息をこぼしてオレの頭に手を伸ばす。
「え?」
ガシッ掴むや、天楼さんはそのままオレの頭を自分の胸へと押し付けてきた。
「ちょ、ちょっと、天楼さん?」
突然のことに驚きを隠せないオレを余所に、天楼さんは黙ってオレの頭を抱きしめる。柔らかいマシュマロのような弾力が頭に包まれて急速に頭と顔が熱くなる。
「…………大丈夫だから」
ぽつり。と天楼さんの言葉が耳元で響いた。優しい声だった。
「私、さっきのこと見てたわよ。桜華ちゃんには強がってたんでしょ」
どきん。と心臓が動いた。思わず黙ってしまうオレに天楼さんは続ける。
「ホントは大丈夫じゃないのに。でも、妹に甘えるわけにはいかないからって強がったんでしょ」
傷ついた心を直に触れたような痛みで自然と天楼さんの背中を力強く掴む。けれど天楼さんは痛がる素振りも声も出さなかった。
「すごいよ、狗牙は」
その言葉に力を入れていた手が少しだけ弱まる。
「頑張ったね」
天楼さんの暖かな手がオレの頭を滑る。細い彼女の指が、言葉がオレの剥き出しの心まで撫でてくれてるようで気持ちがよかった。
慰めて欲しかったんだ。でも、桜華には甘えることが出来なかった。オレは桜華の兄だったから。妹にそんな姿は見せらないって意地張って強がってそして傷ついて。心が折れかけていた。もう立ち直れないくらいにボッキリと折れてしまいそうだった。だから、そんな今のオレに、天楼さんのその言葉は待ちに待っていた言葉だった。
「ここにはもう私と狗牙しかいないよ。桜華ちゃんも、琴音ちゃんもいない。狗牙が強がる相手なんて誰もいないから」
天楼さんが頭を撫でる。言葉をくれるたびに、ずっと我慢していた黒い何かが堰を切ったように逆流してきて、呆気なく口からうめき声となってこぼれ出る。
「う、うう……く、うぅぅ」
涙までこぼれてそれを天楼さんに見られたくなくて、自然と彼女の胸に顔を埋めてしまう。それからしばらく天楼さんは何も言わずにただずっと優しくオレの頭を撫で続けてくれて、オレは呻くように部屋の中で泣き続けたのだった。
「ねぇ、狗牙」
涙が少し落ち着いて、溜まっていた感情も吐き出した時、天楼さんがオレを呼んだ。ゆっくりと顔を上げる。
「琴音ちゃんの事、残念だったね」
ずきん。とあの時のことを思い出し、涙がじんわりと浮かんだ。
「でも仕方ないよ」
天楼さんはもう一度呟く。仕方ないよ。と。呟いて頭を撫でる。
「あきらめるしかないよ、もう」
「……あきらめる」
「そう、あきらめようよ。狗牙がこれ以上傷つかなくてもいいじゃない」
ね。と天楼さんは頭を撫でる手を止めなかった。オレは小さく頭を動かして肯定の意思を示す。
仕方ない。あきらめよう。と小さくこぼす。
あぁ。何て気持ちの良い言葉なのだろう。零しただけなのに、まるで何もかも許された気分だ。救われた気分だった。
ピタリと突然天楼さんが手を止める。どうしたのかと顔を上げると、彼女は優しくオレに微笑みかけて、
「そろそろ行こうか」
どこに。とは尋ねなかった。尋ねるという気すら起きなくて、オレは立ち上がった天楼さんの手をしっかりと握る。まるで親からはぐれないようにしっかりと手を繋ぐ子供のように。
そしてオレは天楼さんと共に、人間の町から姿を消した。
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