第17話『焦らないで』


「あ、こー君。どこ行ってたの?」

 教室へ戻ると、一人席に座っていた琴音が立ち上がってオレの元へとやって来た。中へ入って辺りを見ると、もう他の生徒は帰って誰もいない。まぁ放課後だし当然と言えば当然か。

「ちょっと野暮用でな。それより天浦は?」

「さっき先生に放送で呼ばれていったよ。すぐ終わるだろうから待ってようよ」

「あ、ああ。そうだな」

 そう、いつもならここにいるはずの天浦がここにいないことをオレは知っている。そしてすぐに戻ってくることも。何せアイツを放送で呼び出したのはオレだからだ。それはすべてこの状況を作るためだけの誤報。与えられた時間は少ない。その間にオレは琴音との関係を進展させる。

「なあ、琴音」

「なに? こー君」

 純粋な瞳の琴音が首を傾げてオレを見上げた。その姿に思わず気持ちがぐらつくけれど、オレはゆっくりと琴音の方へと歩み寄る。

「こ、こー君、どうしたの?」

 一歩。

 二歩。

 黙って歩を進め、琴音との距離を詰める。

 しかし、それと同じ歩数を琴音は後ずさる。均等の距離が詰まることなく空いていく。

「なんだか怖いよ、こー君」

 琴音の瞳に怯えが混ざり始めても、オレは歩みを止めなかった。琴音とオレの間には一定の距離が保たれている。手を伸ばしてもギリギリ触れられない、もどかしい距離。今までもっと近くにいたはずの琴音とオレの今の距離なのだろうかと錯覚してしまう。もっと近づきたい。あいつが来る前の距離に戻りたい。琴音に触れたいとオレは近づこうとするのに、どうしてもその間は詰める事はできないでいた。

「――あ」

 がたん。と琴音の体が壁に当たったところで、ようやくオレと琴音に開いていた距離が縮まる。また距離を取られないように、オレは琴音のすぐ横の壁に手を置いて動きを封じる。そして、反対の手は彼女の顎に触れる。柔らかな感触を覚えながら、オレはその顎を少しだけ上げた。

「こー君……だ、ダメ」

 琴音の表情が真っ赤になり、瞳は薄っすらと潤んでいる。オレはそんな琴音にゆっくりと顔を近づけていく。琴音の柑橘系香りが鼻をくすぐる。オレの中にある黒い何かがうごめく感じがして、心がざわついた。鼻と鼻が重なり合うほどの近づく、琴音がギュッと目を瞑った。整った睫がとても綺麗だった。そしてオレは健康的な桃色の琴音の唇へと自分の唇を重ねようと――。

「やめ、て……」

 掠れたように絞り出された声に動きがピタリと止まる。ゆっくりと顔を離すと、琴音は今にも泣きそう目を開いてオレを見ていた。顔は完全に真っ赤になっていて、眉は悲しそうに下を向いている。

 それを見ただけで、自分がしようとしていたことの重大さに気付き、思い切り自分の頬を殴った。

「こー君……」

「ごめん、琴音……。オレ、お前の事――」

 恥ずかしさと申し訳なさでオレの体が、するどい剣のように容赦なく突き刺さってくる。琴音の顔を見れなくて、この場にいることが、琴音と一緒に息をすることすらダメな気がした。

「ホント、ごめん、琴音――」

「待ってこー君!」

 今すぐ消えたくてオレは逃げるように教室を出ようと走りだろうとした。が、そんなオレの手を琴音が握って止めてきた。

「離せよ、離してくれよ!」

「いや! 絶対に離さない!」

 いつもより強い琴音の言葉。手から伝わるその力はオレが全力を出したら簡単に振り払えるけれど、そんなことをする事はできなくて、琴音の方を見る。怒ってるような、でも泣きそうなどっちつかずの顔でオレを見ていた。

「謝るのはね、私の方だよ。こー君。焦ってたんだよね」

 握った手を琴音はゆっくりとオレの指に絡めて、優しく包み込むように握る。

「こー君だったら何でも私を受け入れてくれるって勝手に甘えてて、何を言わなくても私の気持ちを分かってくれるって思ってた。ごめんね」

「琴音……」

「私もね、こー君と一歩先に進みたいなって思ってた。でも……やっぱり、考えただけでも恥ずかしくなっちゃって。それがこー君をこんなにも不安にさせたんだよね」

 耳まで真っ赤にしながら琴音は、必死に言葉を紡いでいく。

「でもごめんね。やっぱり今はまだその、気持ちの整理がつかなくて……。だから、明日。明日ね、一緒にお出かけしよ。その時には私もこー君を受け止めたい。こー君をもう不安にさせないようにするから。絶対に」

 そう言ってギュッとオレを抱きしめてくる。琴音の柔らかさと暖かさがオレの中にすっぽりと収まった。

「これは恥ずかしくないのか?」

「恥ずかしいよ……」

 顔を火照らせたままちょっと唇を尖らせる琴音。

「でも今の私の気持ちはちゃんと伝えたいから」

 それにね。と琴音は顔を上げて、

「こー君も一緒にしてくれると……恥ずかしくない、かも……」

 もしも琴音の可愛さを表すメーターが視覚できたのなら、もうその表情だけでメーターはフルスロットルをたたき出しただろう。いや、フルスロットルだけじゃ生ぬるいな。もうメータを振り切りすぎて爆発するくらいだ。それくらい琴音のその表情が可愛くてオレはギュッと強く抱きしめる。

「わ……こー君、痛いよ」

「お前が可愛すぎるからいけないんだよ」

 我ながらなんて自分勝手なことを言っているんだろうか。でもそれを謝ることなく、オレは抱きしめながら自然と琴音の頭を撫でいた。

「ん……」

 琴音がくすぐったそうに身じろぎする。

「駄目だったか?」

「ううん。いいよ、こー君なら……」

 小さく首を振って琴音は安心したように目を瞑る。そんな彼女を見ながら、オレはそうだよな。と心の中で納得する。琴音自身も頑張ろうとしてたんだ。なら焦る必要なんてないじゃないか。そう思いオレは何度も彼女のさらさらな茶色の髪を撫で続けたのだった。

 

 *****


 私は今、一番幸せかもしれない。

 どんな人の幸せ自慢を聞いたって、きっと私の方が一番幸せだよって胸を張れるくらい幸せだ。

 その理由である頭にそっと手を置く。少し天然がかったいつも通りの私の髪。でも、さっきまでその髪を撫でてくれていた手を思い出すと自然と顔が綻んで、心がぽかぽかと暖かくなる。

 やっぱり、こー君に撫でられるの好きだなぁ。

 初めて会った時からずっと思ってたこと。こー君とは高校生になって出会ったはずなのに、どうしてか頭を撫でられると気持ちが落ち着いた。まるで昔よく撫でられていたような錯覚を覚えるくらい。私には昔の記憶がないから、それがどうしてなのかは分からないけど。

「ずいぶん上機嫌だね、琴音ちゃん」

 私の隣を歩いていた天浦君が声をかけてきて、私は我に返る。そういえば今私達はこー君と別れて一緒に帰っていたんだった。そのことを完全に忘れて浮かれていた自分がとても恥ずかしかった。

「う、うん。ちょっと嬉しいことがあって」

 慌ててそう言って気持ちを落ち着ける。天浦君は、そうなんだ。と笑顔で頷く。

 私の小学校の頃の友達と言っていた天浦君。でもやっぱり私は彼の事を思い出せなくて、申し訳ない気持ちがあるけど、天浦君はそんなことまったく気にせず私と親しくしてくれる。こー君が彼に対して少し当たりが強いのがちょっと困ってるけど、天浦君は軽くあしらってるから仲がいいのだと思ってる。

 こー君……。彼の名前が出てくる度に、思い出すのはさっきの教室の出来事。

 あの時、初めはとても怖かった。無言で私に近づいてきて時はいつものこー君には見えなくて、何をされるのか分からなくて怖かった。逃げられないように追い詰められ、顔を近づけてきた時、私の目の前にいるのはこー君のはずなのにこー君じゃない別のなにかに見えてとっても怖かった。でも、最後のこー君はいつものこー君で、私を撫でてくれた。それがとても嬉しくて、自然と頬が緩んでしまう。

「ずいぶんと嬉しい事なんだね、頬がにやけてるよ」

「あ。ご、ごめんね」

 天浦君が苦笑いに指摘されて再び我に返る。うぅ、恥ずかしい。

「琴音ちゃんは、ホントに狗牙君の事が好きなんだね」

「はぅ……」

 何気ない一言に一気に顔が熱くなって、かゆくなってしまう。自分でも分かってるけど、人から指摘されちゃうとやっぱり恥ずかしいよ。そんな私の様子を見て、天浦君はおかしそうに笑い、

「そんな琴音ちゃんを見てると、何だか妬けちゃうな」

 そう言うや、天浦君がそっと私の手を握ってきた。

「え? 天浦君?」

 握った手を見て、視線を天浦君に向けると、彼はジッと私の方を見ていた。まっすぐに向けられた視線が何だか気恥ずかしくて逸らそうとするけれど、どうしてか私はその目を逸らすことができなかった。逸らしたい私の気持ちとは裏腹に、私の顔は動くことを忘れたようにジッと天浦君と視線を合わし続けている。ううん、顔だけじゃない。気づいたら手も足も体全部がまるで固まったように動かなくなっていた。

「狗牙君だけじゃなくて、少しは僕の方も見てくれてもいいんじゃないかな?」

 天浦君の手が私の顎にそっと触れる。さっきこー君にもされたのと同じなのに、どうしてか怖いという気持ちは湧いてこなかった。ううん、どちらかというと期待……している感じ。気づけば心臓はトクントクンといつもより少し大きめに鳴っていて、私は天浦君の視線に釘付けになっていた。

「そう思うよね、琴音ちゃん」

 優しく囁きかける天浦君の声。その声とうっすらと光る瞳に私は小さく頷く。

「うん、そう、だね……」

 そう呟いた途端、何だか体がふわふわとした気持ちになって、さっきまで暖かかったのが嘘みたいになくなって――。あれ? どうして私、温かい気持ちになっていたんだろう。思い出そうとしても、頭の中は靄がかかったように不明瞭で何も思い出すことはできなくて、

「大丈夫だよ。琴音ちゃん。そのまま僕に任せて」

 そう囁く天浦君の顔がにやりと笑っていて、私はゆっくりと頷いたのだった。

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